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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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哀楽

今更ながらGWの間の話。

といっても普通に仕事だったわけだが、GWの間は楽しみにしていた事もあった。

もしかしたら同じように見ていた人もいるかもしれないが、某vtuberによる「初見実況」によるドラゴンボールのゲームの配信だ。


時期がGWで休み期間。加えて大手事務所の人気vtuber。

さらにドラゴンボールという超レジェンド作品の初見実況。

記念配信だとかコラボ配信ではなく、言ってしまえば「ただのゲーム配信」でありながら驚異的な同接数だったとされており、自分も見ていた。


個人的な感想としては「初見実況」としてはほぼ「満点」といえるリアクションをしていた。

それが「素」なのか「プロ」だからなのか、と考えるのは野暮だろう。

何より、ドラゴンボールという作品、コンテンツ自体がそもそも魅力的なのだ。

思わず自分はその配信を見て「涙」を流してしまった。


というので終われば単なる日常の一コマ。

確かに「初見実況」としてはリアクションが満点だった。

ドラゴンボールというコンテンツ自体、レジェンド作品であり、作品自体に文句のつけようが無い。

だとしてもだ。

自分だって過去に漫画も見た。

アニメだって無印、Z、GT、映画も見た。

ゲームだって昔の物には触れた事がある。

内容は知っている。

自分が見たものと変わらない。しいていえばゲームオリジナルエピソードがあるくらいだ。

果たしてその上で疑問が残る。

「過去の自分は一人で見た時泣いていたか?」

初見で通しで見た時の自分は泣いていないのだ。


当時はそれこそドキドキハラハラワクワクした。

だが泣いたかどうかで言えば「泣いていない」

過去に泣いた作品に懐かしさを覚えて当時のように泣いたわけではない。

「年を取ったから涙腺が弱くなる」とは聴く話だ。

自分のエッセイでも喜怒哀楽の感情に人生を当てはめて人生100年時代においては50〜75歳の25年程の期間を「哀しみ」の期間としている。

50〜75の年齢、確かに「年をとった」といっても差し支えない。

だが先述した通り、何度も見た話だ。

どういう展開になるか、どんなセリフを言うか、ほぼ知っている。

いくら泣ける話でも「慣れ」れば感動は薄まる。

ましてやドラゴンボールは「泣ける話」の類からは遠いジャンルの作品だ。

じゃあ何に心を動かされたのか。

それは間違いなく「初見実況」をしたvtuberにだろう。


ドキドキハラハラワクワク。

コレは「自分」の感情だ。

つまり「喜怒哀楽」のうち、自分のエッセイの理屈で言えば「喜怒」に相当する。

ドラゴンボールの面白さに「喜び」を覚えた。

孫悟空や仲間大が強敵に窮地に陥れられたり、味方が死んでしまったりしてその敵に「怒り」を覚えた。

「読者」である自分と「作品」であるドラゴンボール。

この2つだけでは「喜怒哀楽」のうち、「喜怒」しか得られない。


残った「哀楽」。

それは同じ「読者」という価値観を持つ「仲間」が与えてくれる。

同じ物を見ながらも違う事に注目したりする「他人」でありながら、要所要所で同じように「喜怒」を共有する。

仲間と同じように孫悟空に応援し、仲間と同じようにフリーザに恐怖し、そして同じようにスーパーサイヤ人に期待を膨らませる。


ドラゴンボールの単行本、1巻当たり400円くらいだろうか。

子どものお小遣いでも買える。

ドラゴンボールの価値などその程度のものだ。

けど実際には違う。

世界に名を轟かせたドラゴンボールにはそれ以上の価値がある。

それは誰が作ったか。

鳥山明?勿論、それはそうだ。

しかしそれはあくまで400円の単行本程度の価値だ。

ドラゴンボールに価値を与えたのは当時の読者、当時の主な読者層である「男の子」達だ。

まさに「元気玉」の方式だ。


その上で「初見実況」をして10万超えの同接数を記録したvtuberは「女」だ。

彼女に限らず、ゲーム実況というものを昔から見ていれば、というよりゲーム実況に限らず「遊び」というもの、「娯楽」というもの、あるいは「仕事」でもなんでも「妊娠」と「出産」意外の行為は古来より「男」が先んじていた。


なんの為に男がそうした事をするか、といえば「女のため」だ。

何故女のためにするのか、といえば「女の子」に「大人の女」となってほしいがため。

何故「大人の女」になってほしいのか、といえば「子どものため」。

「男」だけでは「子ども」は育てられない。

だから「女」が必要である。

そして単なる「女」ではダメなのだ。

「母親」になる覚悟を兼ね備えた「大人の女」でなければならない。

そのために男達は「喜び」を与える。

女が「母親」となって「子ども」に対してかつて自分が男達、大人達から与えられたのと同じように「喜び」を与えられる「慈愛」を向けられるように。

つまりは男は女を介する事で「子ども」のために尽くす。


つまり見方を変えれば男と子どもの間にある「女」という存在は「フィルター」なのだ。

「選択肢」を作る男。その増えた選択肢から不要な物を「捨てる」女。

男が社会にとって価値のないものに価値を見出すオタク気質を生まれ持って生まれるのはその「選択肢」を増やすためである。

その上で考えた場合、同じ男でも陰キャラ、オタクではない「陽キャラの男」とは予めある程度社会に価値が認められたものに関心を寄せる。

「陽キャラの男」の言う事が正しいのは「陽キャラの男自身」の体験に基づくものではなく、「社会」が正しい、と示しているから。

一方、「陰キャラ」でもなく、「陽キャラ」でもない「大人」の男は「社会の正しさ」からさらに「自分成りの価値観」を持っている。

それはマニュアルや法、ルールブックなどにはない。

極論、言ってしまえばそれもまた「無駄」であり、「オタク」的な拘りである。

しかしその「大人の拘り」は「マナー」となり、「矜持」となる。

だから「大人」は「陰キャラ」のようにしつこくない。だけど「陽キャラ」とは違って粘り強さがある。


その「男」からフィルターとなる「女」。

「陽キャラ」の女はフィルターの網が「粗い」。

だからたくさんのものを削ぎ落とす。

アレもいらない、コレもいらない。

「陰キャラ」の女はフィルターの網が「細かい」

だから与えられたものをたくさん受け止める。

落とすものが少ない。


「いい女」の定義として「彼氏の好きな物、趣味を一緒に好きになれる」というものが言われる。

コレをそのまま受け止めれば「陰キャラ」の女が「良い女」に近くなる。

だが最終的なゴールが「子どものため」であれば見え方が違ってくる。

あくまで「子ども」にとって女とは「フィルター」。

網の目が粗くても細かくても構わない。

重要なのは「大人の男」が「正しさ」の中にさらに見出した「矜持」というものを伝える。

それを「子どものため」により「 分かりやすく」より「重要な部分」を取り出して子どもが理解出来るように「表現」を柔らかいものにする。

「子どもに寄り添える」かどうか。

つまり「弱者に寄り添えるかどうか」が「良い女」の在り方の本質であり、ゴール。

「彼氏の好きな物や趣味を一緒に好きになれるかどうか」とは「良い女」となるための入口、きっかけに過ぎない。

「大人の男」が「正しさ」の中から「矜持」という「無駄」を見つけるように「大人の女」とは「与えられたたくさんの矜持」の中からさらに「本質」を伝えやすくするために削ぎ落とす。


話を戻して初見実況配信をした女のvtuberのドラゴンボールのゲーム配信。

それに自分が涙した、というのはその女vtuberのリアクションがまさに「大人の女」らしい在り方だったからだと自分は考える。

勿論、別に自分がドラゴンボールを与えたわけではない。

だがかつてのドラゴンボールを楽しんだ「仲間」の男の子達が見出した「価値」を彼女は初見実況で余すことなく「フィルター」となり、リアクションをして考察し、それらを言語化した。


言ってしまえばドラゴンボールはフィクションで「無駄」の塊であり、「嘘」。

孫悟空は存在しないし、かめはめ波も出ない。

けどそこから当事の「男の子達」は「強さ」や「優しさ」「勇気」というたくさん価値を見出した。

それを30年近い時を経て「女」のvtuberがフィルターにかけ、本質を見出し「感動」していた。

自分達、「男」にとっての過去。「男の子」だった頃に見出した「価値観」が肯定された。

時代を超えた。


vtuberの中の人は「女の子」というほど若くはない筈だ。

だが「体験しているかどうか」という部分で見た時、「体験済み」と「未経験」ではそこに大きな差がある。

自分達が過去に「価値」を見出して世界のドラゴンボールとなったものが現在、女の「フィルター」をかけられて価値の「本質」が露わになる。

勿論、ドラゴンボールというレジェンド作品はもう既に何度もそうした工程がされている作品であるだろう。

「今更」といえば今更だ。

だから自分の「涙」はドラゴンボールに涙したわけではない。

あくまで自分が過去に価値を見出した事に対して肯定される、同じ価値観を共有する人が増えた事。

それはつまり「許される」という事。

何度も「否定」されてきた人生。だから何度でも、色んな人に「許されたい」。


いつも親指を上げていた。

サムズアップ。国によって色んな解釈があるが古代ローマの剣闘士の試合では敗けた剣闘士は殺される事もあった。

それを「敗者を許せ」とサムズアップで訴える。

「闘う」事でしか生きられない。

「選択肢を持たない」という意味では古代ローマの剣闘士も、現代の子どもも同じ。

ほんの少し前までは日本社会ではそこに「女」もいた。


「選択肢がない」と言うのは「与えられたものしかない」と言う事だ。

社会において「自由」を得た「女」は何をしなければならないか。

現代、「拘り」が目の敵にされている。

「物を捨てろ」「拘りを捨てろ」「プライドを捨てろ」。

男に女性的な「フィルター」の能力も後づけで備えさせようとしているわけだ。

なら女は男性的な「選択肢」を集める能力を備えなければならない。

その後づけの能力を備えるのは辛い。

「努力」が必要であり、それには「怒り」が必然だ。

だから自分は「哀しい」。

他人の「後付」の能力を備えるために「努力」している様は自分も通った道だから。

だから「楽しい」。

他人がその「後付」の能力を備える事で「成長」するというのは「仲間」が増える事を意味している。

「自分」が主役の「喜怒」の感情。

「他人」が主役の「哀楽」の感情。

どちらが主役でも結局、喜怒哀楽の感情は「自分」の物。


「vtuberなんてそれで稼いでるんだから」

と言われればそれは確かにそうだ。

そのvtuberのリアクションに一喜一憂するのは貧困なオタク的感性なのかもしれない。

だからそれを言語化する。

vtuberのリアクションに一喜一憂している感情、ではなく、あくまで自分の感情として把握する。

vtuberのリアクションに一喜一憂するオタク、といわれても自分はそれをここまでに4000字を超える理屈を持って「自分の感情」だと伝える事ができる。

例えそれがオタク的なイラストであろうと美術館に展示されている作品であろうと、感動するというのは自分の価値が誰かに肯定されている、という事。

そして自分自身が肯定できているという事。

「本質」を「説明」出来ている。

それ自体に恥はない。

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