謝ったら許してくれるのか? その2
その2、と分ける程でもない話。
前回はネットのバラエティー番組のギャルタレントとパワハラ芸人が扮する小芝のやり取りの切り抜き動画のさらに一部。
ギャルタレントが
「謝れ」
といった事に対してパワハラ芸人が
「謝ったら許してくれるのか?」
という問いかけに対して
「許されるから謝罪するのか?それはパフォーマンスでしょ?」
という一連の流れ。
それを軸に語ってきたが自分はあくまでアレはネット番組のエンタメとして捉えている。
だから自分の主張と異なるギャルタレントのイジりを本当の「責め」とは思っていないし、ギャルタレント自体に悪い印象を持ってもいない。
何よりタレント本人が言っていたように「パワハラ芸人のオッサンと立場が逆でも自分は若いからやり直せる」というのは事実である。
その若さ、そして女の子である事。
生きてきてこれまで「甘く許される側」だったのだろう。
だから「許す事」の重大さを知らない。「謝罪しても許されない事」の苦しさも知らない。
「若い」、「女の子」だからそれは「知らない」。
だから「仕方ない」。
けど30代、40代、50代と「大人」になり、立場としても「女の子」から「女性」となり、「母親」となっても「許す事」を蔑ろにするようではパワハラ芸人と同じ事。
あくまで「若い女の子」だから「許す事」の認識がその程度でも構わない。
前回のおさらいであるがこの「許す事」について我々「日本人」もつい数年前、このパワハラ芸人のように「謝れば許してくれるのか?」と問い続け、そのたびに謝罪をしてきた。
コロナや外国の戦争など、あまり聞かなくなった話だが「慰安婦問題」だ。
コレで慰安婦問題を語れるほど自分には知識もなければコレといったスタンスもない。
だから政治的な話をするつもりもない。
ただ「自分達」もパワハラ芸人のような立場に立っていた。
そしてネットを探せば「もう十分謝罪した。それを国のトップが変わるたびに何度も何度も請求しやがって。
これ以上賠償金を奪おうとするなら国交断絶するべきだ」
というような主張に近いもの発信していた人はネットだけではなく芸能人、有名人にもいた筈だ。
「許される」という事が前提で「謝罪」するのはパフォーマンスでも何でも無く、当たり前だ。
それが「当事者同士」でないなら尚更。
今の時代においてかつての日本軍の軍人も残っていないだろうし、当の慰安婦も最後の1人が数年前になくなったという。
結局、ネット番組におけるギャルタレントとパワハラ芸人のやり取りと同じように「当事者ではない人間」がネタにしている。
バラエティーのネタか、政治的なネタかの違いはある。
その「当事者」 がいない以上、その差はお互いに「お気持ち」意外の何物でもない。
一方でその「お気持ち」を癒やすのも重要だ。
パワハラ芸人は芸能界から干され、ネットでしか活動できない状況である。
社会的制裁と言って良いだろうし、その上でネット番組などに出る際にはギャルタレントとの小芝居のように親子ほど年の離れた年下の人間に馬鹿にされたり、あるいはそうした自身の情けない状況をさらに別の誰かに吊し上げられたりすることで視聴者から笑われる事で収入を得ている。
自分はそういう風にしか見れないから「スカッとした」というコメントに同調できないし、かといってそれを踏まえた上で「バカにされて笑われる事で金を稼いでるんだからバカにするのが正解」と開き直る事も出来ないし、傲慢にもなれない。
「バカにされる」というのは辛いのだ。
ピエロとして親の前で馬鹿をしていたから分かる。
親からバカにされる事でしか親が笑ってくれない、関心を寄せてくれない。だから「仕方ない」。
自分の心に蓋をする。我慢する。
そこに芸人とただの子どもという違いはあるが同じ人間でもある。
そして自分はおかしくなったし、芸人のほうはパワハラなんておかしなことをしている。
因果関係は逆だろうか?
それは違う。
過去のエッセイで書いたかどうか忘れたが自分はイジメられたし、イジメ行為もした。
イジメられた事に怒りがあるし、イジメ行為をした事にも罪悪感がある。
そこにだけ焦点を向ければ単に自分は弱い人間なのだ。
勿論、それは否定しない。
けれど親に相談もした。助けを求め、頭を下げた。
そのうえで親に拒絶された。
「男なんだから一人でなんとかしろ」
だから「イジメられて傷つけられた尊厳」を「自分より弱い誰か」をイジメることで自分で癒そうとした。
それを今更許されようというつもりはない。
実際、イジメた相手とはそれから口を聞いていない。
馬鹿な事をした。
だけど「家」に居場所がなく、「学校」にも居場所がなかった。
あとは「自室」と「空想の世界」しかない。
あの頃から既に「自殺」は選択肢として自分によりそってきていた。
「引きこもり」にはなれなかった。
病気でもないのに学校を休むのは時代が許さなかったし、男として色んな我慢をさせられて曲がりなりにも男として生きてきた。男としてのプライドが許さなかった。
兄として妹のために我慢し、親のために子どもである事を我慢して可能な限り大人であろうとしてきた。
自分は聖人君子じゃない。
「誰かの上」に立たなければ何のために男として「我慢」してきたのか。
自分のしてきた「我慢」に何か「意味」や「価値」を持たせたい。
「生きたい」「死にたくない」
その欲が自分を暴力に走らせた。
やり方を間違えた。
それは自分の元々の気質もある。
そしてそもそもキッカケとなるイジメられた経験がなければ自分自身も誰かをイジメ可能性は低かったかもしれない。
仮にイジメられても家庭環境、親が助けてくれたなら、親が安心できる相手なら、親がセーフティであったなら自分のイジメに立ち向かえたかもしれない。
…違うな。
最初から「親」にイジメられていた。
それを受け入れていた。
親を信じていた。親が好きだった。親を愛していた。
いつか愛情を向けてくれると思って愛を向けていた。我慢していた。
結局、自分の間違いはそこに気付けなかった事だろう。
だから「イジメられやすい」のだ。
そしてそこに気づくということは「親を見限る」という事だ。自分の未来のために。
その決断を10代、あるいはそれより前にしなければ自分はどうやっても歪んだ道理から逃れられなかった。
そして親を見限れば見限ったで恐らく、今のような罪の意識に「過敏」な人間ではなく、「鈍感」となり人の痛みに鈍くなったか。
「罪人」として生きるか「獣」としていきるか。
結局それはパワハラ芸人も同じかもしれない。
実際、後輩芸人にはパワハラをしていたが自分より先輩の芸人にはかなり良い顔をしていたようで事件が発覚してからも先輩芸人からは「まさかアイツがパワハラなんて」という話もある。
「形だけの謝罪」
確かにギャルタレントのように「普通」の感覚からすればそれは胸糞悪い。
「罪人が罪の意識を持たないのが気に食わない。」
一般人の「お気持ち」だ。
「罪人」を下に見て、「罪人」が「罪人」らしくしている様を見て満足する。
それが切り抜き動画のコメントの「スカッとする」。
だから「許す事」の重大さ、責任を忘れ去る。
まだ「若い」から「許される側」で有り続けるのも仕方ない。
けど「怒り」の季節、人生100年として25から50までの間に「許される側」から「許す側」に移行する。
「老い」とはそういう事だ。
そして「許される側」の意識のまま、その移行期間を過ごせばパワハラ芸人のようになる。
「被害者意識」があるから相手をパワハラをする、イジメる。
「母親」ではなく「女」だから自分に手間を掛けさせる子どもを許せない。だから我慢させ子どもを支配する。
そして「女」でなければならないのは父親が「男」として安心できないから。
母親は自分に愚痴っていた。
祖母との嫁姑問題。
そしてその問題に関心を持たない夫。
「嫁」としての自覚はあるが「母親」としての自覚はない。
どうしたら良いかよく考えていたけど自分は「子ども」で、「嫁姑問題」の当事者でもなければ「夫婦」の当事者でもない。
どうしようもない事を愚痴られ、不安になり、迷って我慢して、身動きが取れずにいた。
「大人」としての自分はこれ以上、親に負担を掛けずに動くな、と言う。
「子ども」としての自分がそんな事は忘れて面白い事をしようと言う。
だから「家庭」では「良い子」だった。
いつも「射る」準備をしていた。
「謝罪」の準備。
引き金に指をかけて常に警戒していた。
だから反射的に言葉が出る癖がついていた。
そうやって躾られてきた。
「家庭」から「外」に出た事で「長男」として、「兄」としての枷が解かれる。
けど「癖」は抜けない。
だから過剰に攻撃的だったし、その攻撃性に見合わない打たれ弱さ。
それは自分もそうだし、パワハラ芸人もそうだ。
そして恐らく、「無敵の人」と呼ばれる人達も。
今更「普通」の人間に「自分を許してくれ」とは言わない。もうどうでもいい。
時間が戻ってくるわけでもない。
だが「普通」の人間には「次の世代を許す事」を望む。
「若者」に対して「情けない」と感じるのは「普通の人間」達が誰よりも「情けない」から。
「次世代」に何かを伝えられる権利を得た「普通」の人間。
いつまで「罪人」の醜態を笑って「スカッとした」と言う事に「恥」を感じないでいられるか、「罪悪感」 を感じないでいられるか。
50まで、「許す側」に立つまで「責任感」を得るまであと何年?
何年立てば「普通の一般人」と言う「多数派としての責任」を認識できる?




