謝れば許してくれるのか?
閲覧注意、というか以前の「許す」ことを語った話と多々被る部分がある。
人によっては再放送と捉えかねないかもしれない。
とあるネット番組の切り抜き動画がたまたま目に入った。
若いギャル風のモデル、タレントとある中年の芸人がそれぞれ娘と父親というような役割という設定でやり取り、というかコント、小芝居である。
その中年の芸人は数年前に後輩芸人へのパワハラが露呈し、テレビでは干されている状況で現在はネット中心に活動している。
そんな芸人だからこそ自身の過去の「パワハラ」をイジられる事もある。
そして自分が見た切り抜き動画でもその芸人は「情けない父親」という設定でギャル風のタレントが「娘からバッサリ切り捨てられる」という役回りで正論を受けてぐうの音も出ないほどに論破される。
それは単に小芝居の話の流れだけではなく過去の芸人のパワハラの事も絡めてである。
普段はふんぞり返って年下や部下相手に偉そうにしているいい歳したオッサンを若いギャルが正論で論破する。
若者の逆襲、一般的には痛快な筈だ。
ましてやパワハラが発覚してから好感度は降下していた芸人がそんな責められる役割に立たされているから尚更。
それを見た目はチャラそうなギャルが正論で言いくるめる。
個人的な意見としてはエッセイで何度か言っているが「正論」とはマニュアルであり、誰でも言える。
だから別に痛快で面白い、個人的な感想としては思わなかった。
ただ一方的に責め続ける言葉が次々と出てくるギャルタレントには感心はした。
自分には出来ない。頭の回転が早いのだろう。
全体の流れとしては「老害と戦う若者」という構図であり、エンタメとしては面白いとは思う。
視聴者の反応も好印象であり、コメントにもギャルのハキハキと正論を告げる様子やパワハラ芸人扮する中年の落ち込みようなどから「スカッとした」というような物が多数あった。
だが自分がこうしてエッセイを書くにあたってそんな動画があった、面白かった、と報告するために紹介しているわけではない。
「スカッとした」という動画の視聴者の大半の人間が見過ごしている部分を自分は感じた。
それは自分だけではない。
動画のコメントに少数ではあったがギャルタレントが口から発した「正論」に混じってあった「違和感」、「疑念」。
「それはおかしい」というギャルタレントの言葉に自分が感じたものと同種のコメントがいくつかあった。
それが過去のパワハラをギャルタレントにイジられ、娘役のギャルタレントから「自分に謝罪しろ」という言葉を投げかけた。
そして芸人からの「謝れば許してくれるのか?」という問いに対して放ったギャルタレントの「痛快」な言葉。
「許されるから謝罪するのか?それはパフォーマンスでしょ?」
「正論」や「痛快さ」に混じり、そして「若さ」と「性別」によってカモフラージュされた「違和感」。
「痛快」だからこそ「踏み止まる」必要がある。
そこを踏み止まらないからこそ、痛快なのかもしれないが「ライン」は超えている。
「若くて可愛くて女の子」が「痛快な事をしている」から見過ごされている。
過去の「許す」という事について書いたエッセイで自分は謝罪を受ける、受けないは加害者主導ではなく、被害者主導でなければならない、とした。
そしてその上で謝罪を求めたのであればそれはそこから関係性の「再構築」、あるいは「フラット」な状態に持っていくようにする事を「お互い」に行う同意となる。
にも関わらず、一度謝罪を受け入れた後に「謝れ」「謝罪しろ」「 詫びろ」 と被害者側がさらに求めるのは単なる「乞食」である。
この自分の「許す」という話を踏まえて「謝罪しろ」と言い出したギャルタレントに「謝れば許してくれるのか?」と返したパワハラ芸人。
その芸人の問いに対して「許されるから謝罪するのか?パフォーマンスでしょ?」
謝罪を求めた上でさらにそれ以上を期待する。
しかもこの流れでいけばそれは「被害者側が求めた」わけではない。
あくまで「悪いと思っている加害者」が「自発的」に行う行為。
それを「善意」という風に捉える事もできるが、今の流れでは明確に「自発的」ではなく、「被害者側」が求めたものだ。
しかもそれを「言葉」にせず、「察してもらう」という事が前提のもの。
「迷惑かけて悪いと思ってんなら、どうすればいいか…分かるよな?」
この「分かるよな?」には多くの場合、「もっと寄こせ」という意味がある。
被害者と加害者という立場を利用して被害者が得をしようと動く。
これではどちらが加害者か分からない。
もしコレを裁く公平な裁判官が間に立てば「分かるよな?」なんていうようなニュアンスの言葉は出てこない筈だ。
1対1に見せかけて実態は「正論」をぶつけて周りの人間や視聴者を味方につけた多数派対少数派の争い。
あくまでそれが許されているのは「バラエティ番組」の「芝居」だからである。
問題はその「バラエティ番組」のノリを現実でも当たり前のようにやるのが「女」と「陽キャラ」である、という事だ。
そもそもとして芸人が過去に犯したパワハラも本来なら被害者の後輩芸人との問題。
そのパワハラ問題を起こした芸人に対して赤の他人が「近寄らないでおこう」という考えになるのは身を守る上で仕方のない事。
だがその問題を把握した上で近づき、過去の過ちを晒し上げ、石を投げつける行為は「自衛」からは離れた行為。
「俺が悪かったからもう止めてくれ」と頼む相手に対して「反省していない」とさらに謝罪を求め、罰を与えようとする。
その罰をはねのけようと抵抗しようとすれば今度はそれを「加害」と見なして更に「自分はこのパワハラ芸人から加害されました」と新たに罪を作ろうとする。
自分としてはパワハラを擁護するつもりも、その芸人自体のファンでも何でもない。
ただ同じように過去に「罪人」として意識を刷り込まれた事のある人間である。
自分としてはパワハラのような明確な罪は犯した事はない。
だが生きている以上、誰かに迷惑をかける。
どんな立派な人間、成功者でも子どもの頃は親や教師、様々な大人に迷惑をかける。
そしてそれはその親や教師と言う大人自身もまた過去においては同じ事。
そんな当たり前の「迷惑」を「罪」として刷り込まれた。
「自分が若い頃は」とまるで自分は誰にも迷惑をかけていないように語る者。
「普通に考えればわかるでしょ」とまるで自分の考えは普通ではないと否定してくる者。
だから「謝罪」する。
どうすれば「許してもらえるのか」と尋ねる。
「罪人」の精神を持つに至った自分、そしてパワハラという「罪」を犯した芸人が求める「許し」の勲章。
それをチラつかせて「これをやれば許してやる」と言われてそれをこなし、許されると思えばまだ足りない。
まだ許されないのか。
だから我慢し、自分の夢を諦め、自分を殺し、心のドブへ捨てていく。
そして自分の意思がドンドン切り捨てられていき、最後に「もう許してもらわなくて結構。悪人のままでいい」と限界を超える。
『お前のソレは「謝罪」か「パフォーマンス」か。』
ソレを突きつけて来たのがネット番組でのギャルタレントだ。
だが自分の考えは違う。
「謝罪」自体は「パフォーマンス」でしかない。
人間は感情とは別の行動をする事が日常生活においてよくあり、そして他人からもそれを求められる。
疲れていても、やる気がなくても頑張る。
怖くてもそれを周りに悟らせないように強気になる。
ニヤけそうになる喜びを噛み殺し、気を引き締める。
「他人」がいるから虚勢を張る。
それは「他人」から喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、喜怒哀楽を与えられるから。
だからこそ「他人」のために自分の本当の心を隠して謝罪というパフォーマンスを行う。
当たり前であり、謝罪だけ他の感情と異なり、「心」と「動作」が全く一緒でなければならない理由はどこにもない。
他人から罪悪感を与えられた。
それを払拭するには他人に許してもらうほかない。
「自分軸」なんて言葉が持て囃されている。
謝罪においてその自分軸で考えた場合は自分が至った「許さなくて結構。自分は悪人でいい」という「許してくれない他者」との決別である。
コチラが決別に至るまで長い苦悩の期間の末の結論である。
長い間、手を伸ばし和解を求めていた。
それを無視していたのは「アチラ」だが、いざ決別されると「被害者ぶる」。
確かに事の発端の時点では「被害者」だったかもしれない。
「コチラ」が「加害者」だったかもしれない。
だけど、その後の経過において「約束」を破り過ぎた。
コチラの「罪悪感」、「弱み」につけ込んで無視をしてきた。
謝罪の「心」と「動作」が一緒でなければならない、単なるパフォーマンスではあってはならない、というのなら「 約束」を破りつづけた相手に「謝罪を求める感情」を罪人として受け止めて「しおらしくし続ける動作」を止める。
約束を破られ続けて生まれた「怒り」の感情を自分の「罪悪感」で蓋をして来た。
その罪悪感の蓋を開けて「怒り」に向き合い、「許す」という勲章をちらつかせて約束をして、何度も裏切られてきた事に対して請求する事も「心」と「動作」が繋がった「素直」なものだ。
だけど自分は「許されれる事」を求めない。
どうせ自分の罪は許されない。
相手が「心の底から謝罪しろ」と次から次へと求めてきた。
「許される」ために「罪悪感」を持って相手のために金と時間と労力を、愛を捧げてきた。
その愛は本来は自分のため、あるいは自分の大切にする何かのために捧げるための愛。
それを犠牲にした。
果たして自分が許されたくて犠牲にしてきた愛に相当する謝罪を向こうはコチラにしてくるだろうか。
目を見れば分かる。
コチラを罪人として見る目。
あくまで被害者というスタンスで自分もまた罪を犯しているという感覚がある。
言葉を聞けば分かる。
強い口調、というだけではない。コチラの言葉を聴こうとはしない。
動物的に反射で自分の言葉を否定し、コチラの人間性を否定する。
相手の姿勢を感じれば分かる。
相手の主張は多数派対少数派の対立に持っていくために1対1の場でありながらコチラではなく周りに主張している。
必要以上に罵倒し、必要以上にこき下ろす。
目と耳と感覚が相手は「罪を認めない」と知らせている。
「罪を認めない相手」に「罪を認めさせるため」に今以上に自分の「愛」を向けるのか?
許しを得る為に犠牲にした愛は戻ってこない。
そしてこれから先、「許される事」もないだろう。
これまでの「約束を破りつづけた罪」を認めさせるのも困難だろう。
「約束を破り続けた罪」を罪に問わない。
「許される事」も望まない。
お互いに何もならない。
「手打ち」にする。
「一方的」と新たな罪を増やそうと責め立てるだろうが、それは「コチラの台詞」。
今回はネットのバラエティー番組の公式切り抜き動画で
「謝罪しろ」
「謝罪したら許してくれるのか?」
「許されるから謝罪するのか?それはパフォーマンスじゃないのか?」
という切り抜き動画のさらに一部分に違和感を覚えてエッセイを書いた。
そもそもが切り抜きなのでもしかしたら前後のやり取りを見ればまた印象は変わるのかもしれないがどっちにしてもアレはあくまでバラエティー番組の一コマ。
アドリブでリアリティがあってもあくまでフィクションだ。
そしてギャルタレントはこうも言っていた。
「もし自分とアンタの立場が逆でも自分は若いから反省すれば何とかなる。けどアンタはいい歳。どうしようもない」
そうだ。若さは弱さを柔軟性に変えられる強みになる。
けど老いれば老いる程困難になる。
だからこそ「許す事」が重要になる。
「謝ったら許してくれるのか?」
この問いに対して本当に反省して謝罪を求めるのであれば「許して貰えるから謝罪するなら真の謝罪ではない、パフォーマンスだ」と言う「自発性」を求めるのではなく、明確な「条件」を提示する事だ。
その上でその条件が果たされたら約束を果たし、「許す」という誓いを立てる。
結局の所、この当たり前の「約束」、「礼儀」、「躾」が件の芸人の育ってきた環境で蔑ろにされてきたからこそパワハラという罪を犯しても罪悪感を感じなかったのだろう。
あくまで「立場が上の者へ媚びへつらう事」を叩き込まれてきた。
勿論、本人の資質もあるだろうが。
そしてこの芸人を論破したギャルタレントもまた芸人に対して自分とは無関係のパワハラの件をイジり、「謝罪」以上の「自発的な善意」を求めた。
勿論、これらはフィクションだ。
盛り上げるための「イジり」であり、痛快な言葉。
だけどあの切り抜きを見て「スカッとした」というコメントが多すぎた。
そのコメントに高評価をつける数も。
果たしてそうしたコメントを書き込んだ視聴者にはアレが「現実世界に通用する正論」ではなく「フィクションの中のパフォーマンス」と受け止めているのはどのくらいいるのだろう。
「謝罪」を求めるなら「許す」責任を持たなければならない。
「許す」という行為は自発的な物ではない。
「受け身」である。
つまり「愛」ではなく、「情け」に所属している。
謝罪を受けたら受けっぱなし、では「受け身」ではない。
「受けたら返す」
後回しになっても返す必要がある。
「もっと多く、もっと強いのを。分かるだろ?」
受けるだけ、浴びるように相手の「自発的な愛」を享受する「情け」の無さ。
そこに「価値」がある。
「若さ」という「未熟さ」は「伸び代」の証。
「伸び代」がある、という事は「変わろう」とする意思。
財産を増やしたり、権力を得る、そういう「変わる」話ではない。
「日の当たる場所」から「暗い陰の場所」へ。
本当に「陽キャラ」として価値がある人間なら新しい「陽」となり、誰にも見向きされなかった場所に「新しい陽だまり」を。
それが出来ない「陽キャラ」は結局のところ「陰キャラ」と変わらない。
何より本来そこには新しい「芽」が光を求めて生まれてくるのにいつまでも陽キャラが居座る事で日陰を作り出し、新しい芽を腐らせる。
他人を許す事なく、謝罪だけを受ける。
それはもう新しい芽を腐らせる古い陽キャラの「罪」に等しい。




