ゲーム
エッセイを書くつもりだったがここ数日、昔のゲームをやっていた。
正確にはスマホへの移植版。
特にタイトルを隠す必要もないがドラゴンクエスト7という作品だ。
先日、ドラクエシリーズのデザインを担当していた鳥山明先生が逝去されたのがニュースになった。
ドラゴンボール、ドラゴンクエスト、Dr.スランプアラレちゃん、他にもたくさんの有名作品がある。
過去にドラゴンボールの悟飯を取り巻く環境をエッセイにした事もあったし、自分としてもガチ勢ほど詳しいわけではないが何か無性に鳥山明作品のゲームをやりたくなった。
そこでたまたまDLしたまま積みゲーとなったドラクエ7をやり始めた。
ここでドラクエ7の攻略や考察をするつもりはないが、このドラクエ7はドラクエシリーズでは特に「鬱ゲー」として有名な作品だ。
現在スマホ版をプレイしているが、もともとのプレイステーション版も発売当時に購入し、プレイしている。
確かに当時の記憶としては何となく気分の悪いまま終わったり、救いのないように感じるエピソードが多く、パッケージの純朴そうな主人公キャラから連想されるものとはかなりイメージが異なる作品だ。
とはいえ「通常プレイでクリアするのに時間100時間」と言われるかなりのボリュームの作品だ。
エピソードも多く、やりこみがいがある。
と思ってやり始めたが、現在は中盤を超えて後半に差し掛かる頃だ。
プレイしていて感じたのは「鬱ゲー」と呼ばれ、実際に昔に自分がプレイしていた時に感じた気分の悪さはなかった。
というより気分の悪さ自体はあるのだが、「救いがない」とは感じなかった。
だから昔感じた「鬱ゲー」と言われる所以たる「後味の悪さ」はなく、意外にもエピソードごとにスッキリしていた。
この自分の感覚の変化を単に自分の「経験」や「成長」「視野が広がった」の数文字で済ませるのは簡単だ。
実際にまだ未熟な自分とはいえ、昔より経験し、成長しているわけだから。
そんな事実はどうでもいい。
何故昔の自分はと後味の悪さ、救いがない、と感じたか。
一方で何故今の自分はそれらを感じずにスッキリと感じているのか。
現在の自分がプレイした時に感じたのは今の時代だからこそ感じるある種の「社会風刺」に感じられた。
そもそもとしてこのドラクエ7が発売された時代はゲームハードがSFCからPSに変わり、ゲーム業界全体のグラフィックやシステムが大きく変化した時代でもある。
ドット絵からポリゴンへ以降し、有名、無名問わず様々なメーカー、作品がこぞって変わっていった。
一方でドラクエ7はムービーこそ当時からあったが余所が変化していくなかでPS作品でありながらSFCのように基本的にはドット絵だった。
古き良き、あるいは古臭いといっても良い。
明らかに時代に取り残されていた、あるいは逆行していた。
その一方でストーリーの各エピソードは勇者が冒険の果てにモンスターや魔王を討伐し、平和を手に入れるというものではない。
そもそもが平和な世界であり、そこから主人公達の冒険がきっかけとなり、モンスター、魔王が現れてくる。
「大人しく」していれば何も問題はなかった。
平和で何もないが、モンスターや魔王も現れなかった。
だけど未知の世界というものに「憧れ」を抱いた主人公と仲間達の手によって問題に直面し、モンスターや魔王と戦う環境に置かれることになる。
プレイして思ったのは「出来ることはやった」のが主人公達である。
でも「胸糞悪い」「救いがない」というふうに感じていたのは主人公達が活躍し、モンスターやボスを倒し、問題を解決しても結局はエピソードの重要キャラ達が何も変わらない、あるいはさらなる問題を引き寄せるためだ。
例えるならゴミ屋敷問題。
大抵はゴミ屋敷の住人は精神的に問題を抱えており、外部から人の手を入れて強制的に掃除してもまた同じ事を繰り返す。
ゴミ屋敷を解消したいなら住人本人が変わる必要があり、それを本人が望まないのであればどうしようもない。
本当に外部の人間が解消したいのであれば強制的に行うのはゴミの掃除ではなく、メンタルケアである。
だけどそんなのは役所の人間の専門外だし、何よりゴミの掃除より金も時間も労力もかかる。
つまり愛が必要だ。
けど、誰がそんなゴミ屋敷を作り出した住人に愛を向けるのか。
明らかに貧乏くじだ。
だから「静観」して敷地外にはみ出したゴミだけ片付ける。
ドラクエ7の主人公達がしたのはそうした「ゴミの掃除」だけであり、そして主人公達は冒険で立ち寄っただけの「部外者」である。
主人公達には主人公達の目的があり、たまたまその目的のために手を貸す事になっただけ。
あとはその土地に住む「当事者」の問題であり、その主人公達の手によって障害が取り除かれた後、根本的な問題を「変えていこう」とした者達がいるエピソードはある程度キレイにまとまっている一方、「このまま現状維持」をしている者達のエピソードは最終的にはどうしようもなくなっており、まさに「自己責任」と言える。
こうしてモンスターや魔王を「目に見える表面化した障害」として捉えた時、最終的には人間が問題となる。
かといって勿論、「最終的には当事者自身の自己責任」ではあるがその当事者自身には問題解決のために立ち塞がるモンスター相手には実力、あるいは事情があって排除できない。
だから独力で「障害」をどうにもできない以上、「問題解決」にはどうしたって不可能なのだ。
「障害」も「問題」もひっくるめて「自己責任」とするのは乱暴だ。
それは現実で置き換えるなら全ての国民に自給自足しろ、自分の身は自分で守れ、という弱肉強食の無法地帯を肯定しているようなものである。
そしてソレを肯定するのであればやはり都会の下に田舎がある、という従属関係であり、身分制度の肯定といえる。
となるとやはり力を持たない田舎は「滅びる運命」であり、それが連鎖してやがて都会も滅びる。
幸い現実にはモンスターや魔王はおらず、現状の日本は何処とも戦争しておらず、モンスターの代わりとなるような外敵もなく、障害はない。
ゴミ屋敷でゴミは撤去されている状態。
あとはゴミ屋敷住人に対してどれだけメンタルケア、愛を向けられるか。
コレは人材流出などで疲弊している田舎に対して都会がどれほど愛を向けられるか、という事になる。
実際にはそれが「地域」に放り投げている状態である。
問題はドラクエ7と同じ。
「問題解決のために現状を変えよう」とする者がいるかどうか。
勿論、日本でも声高らかに都会、田舎問わず「変えよう」と政治家、ビジネスマンは口にしている。
しかしそれは「現状維持のために問題の矛先を変えよう」というものが殆どだ。
何故なら「老人」と「女」と「陽キャラ」という「多数派」の意識の高い人間が「自分」のために行っているから。
「若者」「男」「陰キャラ」という少数派が思い描く「子ども」「後に続く者」のためではない。
「現状維持」とは「現在」が目標ではなく、「過去」が目標となる。
問題を抱えた当事者、問題から生まれた障害を取り除く者、問題を抱えた当事者を支えケアをする当事者。
この3つがそれぞれ仕事をしなければならず、ドラクエ7で主人公は障害を取り除く者に徹した。
あとはまさに2つの当事者の問題である。
それを「問題を抱えた当事者」に全ての責任を押し付けるから新たなモンスター、障害が生まれる。
日本の田舎にヤンキーなどのガラが悪い者が多いのはこの2つの当事者が「現状維持」を選んだ所為であり、両者ともに「陽キャラ」だから。
昔の陽キャラが年老いて大人になることを良しとせず、老いてもなお陽キャラで有り続けた事で問題が問題とならなくなった。
コレも別の物に例えるなら煙草の煙は受動喫煙を発生させる害悪だが皆が喫煙者なら受動喫煙など問題にならないのと同じ。
けれど実際には非喫煙者、さらに子どもがいる。
受動喫煙を発生させないように配慮しなけらばならない。
喫煙室でのみ吸う、煙の出ない煙草にする、禁煙する。
やり方は様々ある。
しかし「何故自分達が配慮しなければならない」と怒りを露わにする者は結局の所「過去」に思いを馳せている陽キャラ。
「煙草を吸うのがカッコいい」「煙草を吸う事に価値がある」という時代や環境は確かにあった。
しかし、現在はその価値が失われ、個人の趣味嗜好レベルとなった。
「煙草を吸うのが間違い」なのではない。
「辺り構わず煙草の煙をまき散らす」のが間違い。
この辺をちゃんと認識して個人で楽しむ人間が『大人」である。
「陽キャラ」は「煙草を吸う自分」を「他人から肯定」されたいだけである。
過去の自分の選択が間違っていない。正しい事をした。
別に過去の選択は間違っていないが、現在においてその考え方が歪んでいる。
「煙草」への依存だけではなく、「承認欲求」が強い事が問題だ。
だから「禁煙外来」というものにはカウンセリングやなどのメンタルケアが備わっていると素人の考えではあるがそうだと思われる。
ドラクエ7のストーリーから感じたものを社会風刺としてゴミ屋敷や煙草で例えて来たが勿論深堀りすれば他にも現代日本に抱える「発達障害」や「ブラック企業」 など、様々な問題に対するものも感じられる。
もっとも当事は「発達障害」も「ブラック企業」も恐らく現在ほど言語化されたり表立って問題にはなっていなかったが。
当事には言語化されたものはないから昔はなかったわけではない。
昔から存在自体はしていた。
「問題」とは感じていた。
だからドラクエ7のストーリーを構成するエピソードにファンタジー世界に落とし込み、障害となるモンスターを討伐という役割をプレイヤーにさせる事でそうした「問題」に介入させる。
そこでNPC達に「当事者」の問題提起をさせる。
その上で「問題解決」のために動けばどうなるのか。
「問題解決」ではなく「現状維持」を目指せばどんな道を辿るのか。
それをゲーム内の冒険を通して感情移入させる事でゲームをプレイするのを想定した主な年代、つまり子ども達に学ばせる。
勿論、あくまでフィクションの世界と現実世界は別物。
こうなれば確実にこうなる、という算数の等式のような事はない。
だからこそ選択肢があり、その中には「取り返しの出来ない要素」がゲームにある。
モンスターやボスを倒すという「外部の人間」としてではなく、主人公達自身が「問題の当事者」となって選択するものがある。
今回はここまで「罪悪感」のワードを記して来なかったが「現状維持」を選んだドラクエ7の各エピソードのキーパーソン達がその選択肢を選んだ事で「取り返し」がつかなくなった末路。
それは現実の人間、陽キャラ達が選んだ選択肢と同じ。
「未来の子ども達」の事を考えず「自分達」の事を考えて行動している以上「罪悪感」はないだろう。
だが少しでも頭の中に子ども達いれば罪悪感が生まれる。
自分のためか、子どものためか迷う。
迷う、という事は選択肢で得られる双方のメリット、デメリットがある程度見えているということ。
ならどちらを選んでも後悔する。
だから重要になるのは「どちらのほうがリターンが大きいか」ではなく、「どう責任を取るか」。
手に入れる物ではなく、背負う物を考える。
こうしたものを1つのゲームから自分は感じた。
勿論、ドラクエ7は紛れもなく名作である。
だからといってそれをやれば良い、という話ではない。
他のゲーム、フィクション、あるいは他の趣味や仕事、人付き合いでも良いが「言語化」して説明出来るようになるのが目的だ。
そのためには一方通行のストーリーではなく選択肢を迷うために「視野」を広げる必要がある。
「取り返しのつかない選択肢」で足踏みせず「選択」する事が必要となる。
こうした事は本来、まずは「親」が言語化して教えるものである。
けどその「親」が何も伝えない。
「一方通行のストーリー」ばかり。
だからつまらない。けど逆らえば取り返しがつかない。
子どもは責任を負えないからその親の描いたストーリーから踏み出せない。
「周りを見るな」「視野を狭くしろ」「迷うな」「後悔するな」「早くしろ」「疲れを言い訳にするな」「贅沢するな」
やってる事は真逆。
「現状維持」を選んだ陽キャラ達は罪悪感など感じない。
それが「楽」 である。
だからこそ「 周りをみよう」。
「 陽キャラ」が語る「普通」と「世界」の「普通」を比較し、視野を広げる。
「後悔する事」 を恐れるより「迷わない事」 に罪悪感を感じた方が良い。
時間をかけなきゃエネルギーは注ぎ込めない。
疲れを取らなきゃ身体は動かないし頭は回らない。
贅沢しようしなければ選択肢は増えようがない。
全てはドラクエ7が教えてくれたわけでもなんでもない。
ゲームをプレイして感じて自分自身が考え、それを言語化した結果。
かつての自分が自分を殺そうとしたように自分が自分に教えてくれる。
罪悪感が迷いを生み、迷いが自分自身を変えるきっかけになる。




