罪悪感とミーム
自分が取り上げたものだと「危機感」のネットミームが一つある。
それと同時期に流行り、今は流石に下火になっているが危機感以上に使われていたものに猫ミームがあった。
勿論、ソレだけではなく過去に遡れば某動画サイトでは「淫夢語録」「レスリング語録」だとか下ネタもあったし、某巨大掲示板やその他にも様々なネット界隈で自分が把握しきれないくらいに多数ある。
またネットに限らず、社会的にも「流行語」というものがたくさんあるし、ある意味では特定の人間にしか伝わらないという意味では田舎の「方言」だとか「専門用語」、「暗号」や「隠語」などもある意味では近いものがある。
「方言」などはいまでこそ「面白い」とか、それを喋る女の子が「可愛い」だとか評価されているが過去にはやはり馬鹿にされていた事実がある。
その一方で先述した淫夢語録などはそもそもが無断転載の同性愛者向けのアダルトビデオというアングラ極まりないものであり、それをその界隈から持ち出し、大多数の人間が目にする他のメディアなどで使う者が多数いたため批難の的になった。
そうした特定の人間にしか伝わらない「語録」「ミーム」を何故使いたがるのか。
自分は「3分割」の考えなので必ず3つの理由がある、という考え方の下で3つの理由を考えた。
1つは方言や専門用語などと共通するが伝える際に短く、スピーディーに伝える事が出来る。
以前の「伝える」のエッセイでも語ったが方言や専門用語などを使う事でそれを知識として知っている人間同士であれば非常に短い言葉でやりとりを終える事ができる。
それはメリットもあるが、部外者、余所者、素人、一般人といった知らない人間、知識のない人間からすると全然伝わらない。
それはまさに方言や専門用語、ネットの淫夢語録やレスリング語録も同じ事だ。
特に方言などは特有の擬音、擬声語、オノマトペがある場合があり、まるで伝わらない。
ネット語録を多用する者に「普通の言葉を使わないといずれ自分の言葉で伝えられなくなる」と説教している者も見かけた事があるがまさに田舎の爺さん婆さんといった者はコレで「方言」でしか伝えられない状態にある。
「ネット語録」では許されず「方言」では許される、というよりもまだ人生先の長い「若者」だからダメ、もう先のない「老人」だから仕方なく許されている、という所である。
2つ目は「仲間意識」を強めるためだ。
コレも田舎に住んでいると感じるが方言ばかりで会話する中に一人「標準語」を使えばそれだけで浮く。
一方でTVで「標準語」ばかりを使う人間の中に方言を使う者が混じればそれが例え自分の住んでいる地元の方言や訛であっても非常に際立つ。
そうした意味ではお笑い芸人に多い「関西人」というのは本来なら「少数派」の立ち位置にいながらある程度の頭数がおり、「第二の標準語」的な立ち位置に収まっており、違和感を感じない。
先の「淫夢語録」なども外に出ずに「界隈」に収まっている場合、「語録」が動画やコメントに埋め尽くされる中でその語録を使わず、ノリにそぐわないコメントをすると違和感がある。
そのノリなどを知るためにも「半年ROMれ」などという言葉もあるが淫夢語録はともかく、昨今の1ヶ月2ヶ月程度でブームが終わるモノに対して半年も待っていたらブームは終わってしまう。
だから流行に乗りたい、仲間を得たいなら躊躇せずそれに乗る必要があるが、ブームの終焉と同時に同じように仲間も消える。そうした浅い物でしかない。
まぁ、ここまでは前座というか前置きのような物。
3つめはタイトルの通り、「罪悪感」を紛らわすためだ。
何となく昔から感じていたのだが「淫夢語録」などでは非常に短い単語の後に()をつけてその中に自分の意図を書き込むのが当たり前となっていた。
恐らくはもともとの映像で使われていた空気感を演出するために(威圧)だとか(便乗)などといった「補足」的な物だった。
しかしいつの頃から語録でもなんでもないコメントを長々と長文を書いた後に語尾のようにシンプルな語録を添えたり、あるいは語録と全然繋がらない自分のコメントを()の中に書き込んでいるのが増えた。
コレは先日の自分のエッセイで取り上げた「危機感」の動画を真似た物、あるいは「猫ミーム」だとかあるいは「ゆっくり実況」などで行われている手法と同じような感覚だと感じた。
つまり何を言いたいのかといえば「自分の主張をしたい」という気持ち自体は持っているものの、「自分の言葉」というものに「注目」されたくない。
「自分の言葉」の「言葉尻」を掴んで言葉狩りのように突っ込まれたり、意図を曲解されたくない。
自分もSNSをやって面倒な奴に絡まれた事がある。
エッセイで以前も語った事があったがツイフェミもそうだ。
そしてツイフェミと別にだいぶ前には「小説家になろう」のネット記事へのコメントについて「小説家になろう投稿者」に絡まれた事があり、小馬鹿にされたことがあった。
自分のエッセイを見て分かる通り、分かりづらいし見にくい。話の脱線は多い。自分はそういう奴だ。
だからネット記事へのコメントも長文になり、文字数制限に引っ掛かり、複数に跨ってコメント投稿する事になったが絡んできた輩、今となっては投稿者としては「先輩」になるのだろうが、複数呟いたコメントのうち、特定のコメントだけを抽出し晒していた。
やり口としては今で言うと前後の文章の流れを切り捨てた「悪質切り抜き」に近い形と言って良い。
少なくとも拡散された部分とそれにそえられた彼、あるいは彼女の受け止めている感想とはまるで異なる意図が自分にはあった。
それを抽出されなかった呟きで補足していたわけだがいくらそっちを訴えても聴く耳持たず。
ましてやそれがアマチュアとはいえ、「小説家になろう投稿者」。
「全てのコメント」を見た上での論破ならともかく、「特定のコメント」にだけ反応した中傷。
自分はその後、そうした事を避けるために暫くネット記事にコメントをするのを止めたり、小説家になろう自体を避けた。
こうした事について気を病んだり、あるいは言葉に責任が持てないならSNSをやめろ、あるいは鍵垢にして非公開にしろ、という話となるのだろう。
だからこそ自分がコメントを控えるようになったり、小説家になろうから遠ざかったりするのと同じように「ミーム」や「語録」といった物を使う事で「他人の言葉」を使う事で「主張」して「注目」を集めつつも誰かに責められたりするかもしれないといった罪悪感を減らす手段として使うのではないか、と自分は考えている。
つまり、単なる「言葉遊び」ではなく、ある種の「防衛手段」として「語録」「ミーム」を使うという状態。
勿論、自分は自分の言葉について責任は持ちたいと思っている。
差別、偏見で心を傷つけられたこともあるから、極力他人が傷つくような事は言ったり、書いたりしたくない。
だが自分の意図は100%は伝わらない。
どれだけ努力しても受け手が受け止めるつもりがなければ主張ではなく、無意味な文章。
いや、ただの模様でしかない。
だから気を引くために「方言」を使う。
「語録」「ミーム」を使う。あるいは流行語。
このコミュニティの「仲間」であるという主張をする。
「敵意が無いこと」を提示する。
だから「罪悪感」が薄れる。
格闘技、ボクシングのジャブのようなものだ。
攻撃ではあるが相手を「打倒」する目的よりも「牽制」「揺さぶり」、あるいは「防衛」のような意図が強い。
だから「 罪悪感」が薄い。
ネットの語録は特に強い言葉であるが方言や考え方などもそれは同じだ。
それに「慣れ」てしまえば罪悪感がないままに攻撃する。
「田舎社会」は「罪悪感」がなく攻撃する事に慣れてしまった社会。
当人達は「悪気」はない。
だがそれで傷つく者がおり、それを「弱い」と切り捨ててきたから若者が消え、人が少なくなり、寂れていき、消滅する。
何故か、といえば「女」であり、「陽キャラ」である事に慣れているから。
自分の「普通」と相手の「普通」が異なるという事を認識できない。
「今どき」という言葉があるがまさに日本の都会なら今どき当たり前に一般人が体験できる事を田舎では体験できない。
ハンバーガー1つ買うのに罪悪感を感じた自分が子どもの頃、といってもそれも大分昔の事だがそれでも「田舎」に生まれた時点で出来ない事はままある。
そして「それが普通」と教え込まれ、成長した時にそれが普通ではない事を知る。
確かに「昔」は普通だったのかもしれない。
だが女や陽キャラは「昔」のまま、子どもに言葉で「ジャブ」を放つ。
「加減」もしない。加減をしないのは罪悪感がないからだ。
大人のジャブ、あるいは多数派というジャブが子どもにとってどれほどの脅威となるか、少数派となる事へどれほど恐怖を抱かせるか。
それを知らない。常に自分達は多数派であり、正しい側にいたから。
「男ならジャブ程度に耐える強さを持て」と言うだろう。
だがそれはまったくの逆。
「大人なら子どもの渾身の体当たりを受け止めて見せろ」。
その上で「強くなれ」と言う権利がある。
なんなら「もう一丁来い」と言うくらいの気概が欲しいくらいだ。
勿論、それは肉体的なぶつかりではなく、言葉や主張のぶつかり合いだ。
それなら例え男の子と成人女性でもできる。
受け止める事をせず、止めさせる。論破する。
あるいは他の男に仕返しさせる。
「情け」がないから男女限らず「大人の自分が子どもを受け止められない」と言う事に罪悪感を持たない。
そうやって受け止められずに育った者がミームや語録を使い、「ジャブ」を放ちなから牽制し、同じコミュニティの仲間を探す。
「喜び」を与えられず、「怒り」を溜め込み、年齢不相応な「哀しみ」 から離れるために「楽しさ」を求める。
その「楽しさ」から「喜び」を得ようとする。
その周期がドンドン短期間になっている。
「オワコン」となり、すぐさま「次のコンテンツ」を求める。
腰を据える暇が無い。
「怒り」からスタートした感情の排出は「哀しみ」「楽しさ」を経て「喜び」に変わる。
とてもじゃないが時間が足りない。
けどそれをしなければ誰も自分の言葉を聞いてくれない。
受け止めてくれない。
何故コイツは自分より能力がないのにあんなに幸せそうなんだ?
何故アイツは自分より努力していないのにあんなに楽勝なんだ。
「喜び」を知らない。だから「怒り」をぶつけ、「喜び」を欲する。
そのために「少しでも楽な方」を選ぶ。
「怒り」を受け止めるのは「弱者」。
かつての自分は「弱者」だから親の怒りを受け止める他、道がなかった。
だから次は自分の番。
「強者」の立ち位置になれば自分を受け止めて貰える権利を得られる筈だ。
自分の考えなんて単純だけど割と当てはまる筈だ。
だから「正論」なのだ。
誰にでも言える。「育ちが悪い」の五文字で終わる。
だからこそ「ミーム」や「語録」を使い、ミームや語録の元ネタとはまったく関係なく自分の主張をする人間達の言葉には「 弱さ」があり、そして「言語化」のヒントがある。
「自分なんかが主張してもいいのか」という罪悪感が迷いを生む。
その迷いが「どうすれば分かりやすく伝えられるか」
「どうすればもっと端的にまとめられるか」を導きだす。
その1つの技法が語録やミーム。
「受け止めて貰って当たり前」だった人間には考えられない思いがそこにはある。
やっている事は当たり前。
流行語に絡ませて思いを主張する。
だけど当たり前に至るには強固な土台が必要だ。
それを「自らの手」で固めるのは時間がかかるし、旗から見れば無駄に思えるかもしれない。
だが多数派が当たり前に享受してきた「 受けてもらってきた」という「他人の力」 を独力で得ようとするのは「罪悪感」に向き合いながら、自分の意思を主張するための第一歩としてはそのくらいのサポートがあっても良い。




