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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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過敏な罪悪感。

罪悪感という物を自分のエッセイにおいてその感度を4つに分類し、自分自身は「過敏」であるとしたわけだが、もっとシンプルに言えば「罪人」と言える。

勿論、自分が何か法に触れたとか事件を起こしたそういう話ではなく、精神的に罪人のような状態という話だ。


「精神的な罪人」、とは定義したものの、もっと正確に言えば「一般人が求める理想的な罪人の姿」と言うべきものだ。

罪人に理想的も何もない、という人がいるかもしれないが確実にある。

無論、「罪」そのものについては良いも悪いもない。

焦点を当てているのはあくまで「罪人」と言う「人の在り方」である。


世の中でニュースに取り上げられるような大きな事件を起こした「罪人」は「ふてぶてしい」とは思った事はないだろうか。

「ふてぶてしい」、つまりは罪悪感について「鈍感」だからこそ「罪人」になったようなものだが皆、自分も含めてそんな「ふてぶてしい様子」を見ると「もっと罪の意識を感じてしおらしくしろ」と思うわけだ。

つまりその「しおらしくする」と言うのが「理想的な罪人」の姿である。


その理想的な罪人の姿となる「しおらしい」について調べて見ると

・おとなしく従順である事

・可憐な様子

とある。

一つ目の「大人しく、従順である」と言うのは正に罪人として刑を全うするために必要な態度といえる。

そして二つ目の「可憐である事」についてはどうあがいても自分のような男には難しいが、「憐」と言う文字に注目するとその意味には「気の毒である様子」とある。

「気の毒である」と言う可能性を見出せる様子と言い換える事ができる。

その上で「しおらしい」についてもう一度考えてみると「大人しく従順」であり、「気の毒である」と言う風に見える。

そんな様子が「一般人」が求める「罪人」のあるべき姿である。

そして「一般人」である自分が「罪悪感」を感じる度にそうあるべきと言い聞かせてきた姿でもある。


この「しおらしく」の意味に挙げた「大人しい」とはその文字が示す通り、「大人」である様子だ。

「子ども」ではない。

目立たず、騒がず、静か。

そして自分は今ははしゃぎ立てる事自体が億劫であるが故に自動的に大人しいわけだが、昔は好き好んで大人しくしていたわけではない。

「我慢」していただけだ。

そして「大人」として振る舞う事で「憧れ」がない。

「憧れ」とは「心が童」、つまり「子ども」だからこそ持つ感情、精神的な働きである。


そして「憧れる」からこそ、その憧れに向けて「行動」する。

それは「大人しい」という在り方とは真逆の「騒々しい」「うるさい」「目立つ」。

「行動しない」ためには「憧れ」を止める事が一番手っ取り早い。

肉体的に「行動できない」のに精神的に「憧れ」ていても「辛い」だけだ。


だけど人間である以上「憧れ」を持たない、と言うのは不可能に近い。それが肉体的に子供ならなおさらだ。

加えて言えば自分は「男」だ。

世間が価値を認めていないものに価値を見出し、オタクとなる性質を生まれながらに備わっている。

「理想的な罪人」であり、同時に「男」でもある。

その「男」の性質のエネルギーは「罪人」の自分でも「許された物」についてここぞとばかりにドップリと注がれる事になる。


実際、オタクがどっぷり浸かるものは「にわか」の時には「許されたもの」だ。

アニメ、ゲームは勿論、他の趣味に関しても。

少なくとも「薬物」であったり、「賭博」であったり、「許されていない事」や「許され難い事」ではなく、あくまで「許された事」をやっているだけである。


しかし本来なら成長とともにその興味というもの「分散」していくものだ。

そしてその分散して行くなかで生涯に渡って生き甲斐となる好きなものを見つけたり、あるいは興味を無くしてしまうものもある。

だが罪人は刑期を終えるまで「許された範囲」は広がらない。

他のものに興味を持つことを許されない以上、範囲の中でより深く、より細かく、あるいは趣向を変えて見たりする。

シンプルなトランプのカード遊び、あるいはボードゲームだって何種類も遊び方があるし、そのゲームの種類だって細かいルールが枝分かれしている。


アルコールやタバコ、薬物、それら「依存」と「オタク」の明確な線引があるとすれば「その分野の範囲内でより深く、より複雑な知識があるか」というもの。

そしてそれはその特定の分野に対する熱量がなければ

調べたりする事はできない。

つまりは「拘り」だ。

そして「依存」する体質の人間は「拘り」と言うのが「自分」に向けられている。

「快・不快」というあくまで自分が気持ちよくなりさえすればその「気持ちよくさせてくれる物」の事などどうでもいい。

逆に「オタク」は「他者」にその「拘り」が向けられている。

「拘りを向ける対象」の「快・不快」を感じ取り、それをより大きく、より良質なものに変わっていく事自体にオタクは喜びを感じる。

男女、あるいは陽キャラ、陰キャラの違いそのものでもあり、両方がなければ「大人」となれず、「親」になれない。


理想の「両親」とはそんな両方の性質を持った「大人の男女」の組み合わせであるが、そんな完成された理想的なものは極一部だ。

大多数は未熟であり、男女の性質に偏りがある。

だからこそ、「性質」だけを見た場合、お互いにその偏りを支え合う事のできる、「陰キャラの男と陽キャラの女」、あるいは「陽キャラの男と陰キャラの女」の性質の組み合わせが妥協点、あるいは普通の親の姿と言える。

その男女が二人合わさって「陰陽」となる事で未熟な子どもを男、あるい女に変えていき、子どもは成長していく。

その子どもの成長過程で二人で陰陽だった親自身もそれぞれが足りない陰陽の性質を得て「大人」として完成される。

それが特別でもなんでもない「普通」の男女の「理想」の形。


しかし両親が二人揃って「陽キャラ」であれば代わりに「陰」の側面を担うのは子どもになる。

「女嫌い」のエッセイでも触れたが女嫌いを生み出すのは「主犯」は「母親」、そして「共犯」は「父親」。

父親といいながらも未熟な男、加えて陽キャラの男は他人に無関心であり、パートナーの女を自身の快楽のためにしか関心を向けられない。

女が子どもに関心を向けてしまえば不貞腐れて女から仕事に逃げる。そして嫁姑問題を始めとした家庭の問題に他人事となって女が母親となろうとする支えとなる事を放棄する。

そうなるとなおさら女は生活のために男の機嫌をとるために女としてすり寄り、母親への成長が遅れる。

陽キャラ同士の親を支えるのは子どもが陰キャラとなる他ない。


そして陰キャラとなった子どもは許された範囲で自分を満たそうとする。

その上で「拘り」というのは「無駄」な事ではなく「譲れない事」として確立する。

陽キャラや女が無駄な事としがちな「拘り」。

なぜ「無駄な事」なのか、といえば陽キャラや女にとって言えば「追加条件」なのだ。

アレもコレも80点以上をとった上で更に「もう一つの科目で80点」を取れ、と言われているように感じる。

しかし陰キャラや男の考える「拘り」とはある意味「妥協点」だ。

皆が当たり前に出来ること、皆が短時間でできる事が苦手でも良い。80点とれなくても60点あれば良い。

ただ「コレだけ」はクリアしてくれ、というもの。


経験上「他者へ求める拘り」が強ければそれ以外に求めるものは「最低限」でも構わなくなる。

場合によっては最低限を下回っても目を瞑る。

もしくはそのアンバランスさを一つの「魅力」として捉える。

逆に「拘り」がなければ「とりあえず可能な限りハイスペック」を求める。

「拘り」があるという事は「自分が拘りに合せて変化する」、「受け身」となる証明でもある。

「拘り」がない、という事は「自分は相手に合わせるつもりはない」、「相手を変化させる」という証明とも言える。


「金か稼げるなら何でもします」という宣言は「金」に合せて自分の生活を変えると言う事を意味する。

この拘りの無さは立場が逆転し、「金を渡す側」に立った時、相手に対して無茶難題を押し付けて本気度を測る。

女が男を試すように。

「金は稼げなくてもコレをしたい」という宣言は「自分」の主義を変えるつもりはないが金の使い方を変える事を意味する。

拘りの強さは立場が逆転し、「教える側」に立つ時に「教訓」を伝える事を厭わない。

男が女を許すように。


どちらが良いではなく、どちらも必要だ。

けれど世間一般に「切り捨てる事」を良し、として「拘り」を持つことは悪、としている。

その上で「切り捨てて成功した者」が責任を取るならそれでも良いが、何故これほどに「生き辛さ」が蔓延しているのか。

自分のような「罪人」を「許す事」もなければ「謝罪」もない。

「自己責任」と「努力して這い上がれ」だけで「仲間」を増やそうとしている。

その「切り捨てた」という「罪の意識」の無さのままではどれだけ罪人とされた者達が這い上がったとしても、「奴隷」としてこき使うのが目に見えている。


「拘り」を捨てろ、と自分のような精神的な罪人に言うのであれば、それを口にした人間は「拘り」を持たなければならない。

「それだけクリアすればあとは目を瞑る」。

他の事は最低限、それ以下でも「それだけクリアしていれば許す」という拘り。

拘りを持つ事が目的ではない。

「罪人」を「奴隷」としてではなく「仲間」として、「人間」として迎えるための「覚悟」。

それが子どもにとって「憧れ」の対象となる大人であり、若者にとって「尊敬」の対象となる年長者。


自分がかつて親に望んだ「物扱いしないで名前で呼んでくれ」「悪い事を有耶無耶にせずちゃんと謝ってくれ」「育てた恩を盾にして金や時間を奪わないでくれ」と言うのは果たして「強すぎる拘り」か?

だけど代わりに贅沢をした覚えはないし、「農家の長男」として、「男」として、「兄」としての立場は可能な限り全うしたつもりだし、言う事も聞いた。

このエッセイの読者の考え方次第でこの「拘り」 を「我儘」と捉える事も出来るだろうが、今の自分はもっと不満をぶつけても良い、と思った。

もっともそれは「罪人」になってしまった以上、今更であるが。

そして罪人になってしまった以上、「理想的な罪人」として「模範囚」になり、「刑期」が短くなり、釈放されるまで罪悪感と向き合う。

罪人として我慢し、「何を真の拘りとして自分の軸に据えるべきか」を心の中の独房で考えながら刑期を数える。

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