加える、削る、挑戦、反省。
体調不良からのさらに体調不良。
ようやく薬やらなんやらでマシになってきた。
とりあえず罪悪感の話については4月中に終わらせたい。
前回の「母子家庭」絡みの話。
改めて見直すとモヤモヤする部分が2つある。
1つは「自分には母子家庭に偏見はない」という部分。
自信満々に言い切ったような言葉だがその後に「自分はただ女嫌いなだけ」と続けた。
一言で言えば「説明不足」だ。
自分が語りたかったのは「自分は母子家庭でも偏見を持たない聖人君子のような人間である」という事ではない。
「母子家庭というのは貧困や片親、様々な偏見を向けられやすい要素が複合的に絡み合っている」
だから自分が偏見を向けるとするならば「母子家庭」ではなく、自分の中にある「女嫌い」という価値観からくる「女」への偏見、「母親」への偏見である。
「母子家庭」というものをさらに分解し、一つ一つの偏見に向き合わなければならない。
その上で自分は過去のエッセイでも扱った日本で増えて来ているという「女嫌い」、その原因が「母親」にある、という自分の考えがある。
だから母子家庭の偏見を無くすには「母子家庭」という大枠の偏見を無くす活動だけではなく、もっと細かい要素の「女嫌い」とそれを生み出す「母親」そのものへの嫌悪感、不満と向き合わなければならないと思う。
そんな風な事を前回のエッセイでは書くべきだった、と今思っている。
そしてもう一つモヤモヤがある。
「母親が勝手に自分の玩具を親戚にあげてしまい、その事について謝罪を求めたら逆ギレされた」という部分だ。
ネットのニュースや動画のコメントを見ると「貧困マウント」を取る人間がいる。
恐らく、この日本のどこかには「自分の家は貧乏で玩具なんて買ってもらった事はなかった」という人間もいるだろう。
確かにそうした人間からすれば玩具を勝手に母親に取られたとはいえ、買ってもらった事実がある以上、「裕福」で贅沢な文句をつけているように思えるのだろう。
だがコレも「玩具」が焦点ではない。
コレも一応説明はしているつもりだが「人の物を勝手に処分した事」、そして「それについて謝罪せず、逆ギレした事」について文句をつけている。
「罪悪感」を持つこと、「謝罪」する事は貧乏であっても金持ちであってもできる。
まして大人なら本来なら出来て当然である、その筈だ。
「母子家庭」というテーマであったため、「母親」というものについての「例え話」として過去の自分の出来事を語らせて貰ったが、今にして思えば「貧困マウント」の琴線に触れかねない。
「自分は玩具も買ってもらえなかった貧乏な家庭に育ったが、努力して成功している。」
ネットで毒親の問題点や毒親に対する子ども側の不満を取り上げるニュースや記事があるとそうしたコメントは必ずと言って良いほどつく。
それ自体は良いのだがその後に「裕福なのに甘えている」だとか、「努力すれば見返してやれば良い」、というコメントが続く。
「愛とは何か」
これを自分はエッセイを書き始めた当初から自分の考えを語って来ているが「愛」とは「金、時間、労力」である。
コレを言い換えれば「愛」とは「3つの合計点」と言い換える事ができる。
「愛」とはそれが一つの科目として成立する「100点満点」ではなく、「合計300点満点」である。
上記の「貧乏マウント」を取る人間はそうした毒親への問題点の話になると
「親が金があるかどうかは確かに重要だが、そんなのは言い訳にならない」
それは確かに正論だが「金」の話をしてはいない。
「愛」の話をしている。
「貧乏でも努力して成功を掴み取った」という成功体験が社会、何より自分自身の肯定が強すぎるが故に「総合点」の話をしている時に「1科目」の話にすり替わる。
「貧乏だけど努力して成功した」では愛を語る上ではダメなのだ。
「貧乏だったけど、親はどんなに忙しくても朝昼晩の料理は作ってくれたし家も綺麗だった。仕事で疲れていても休みの日は遊んでくれた」
それなら仮に「金」という1科目は60点でも「時間」と「労力」という2科目では80点以上じゃないか。
300点満点中の220点以上、260点以下。
それはもう「良い親」である。
けど、毒親というのはそうじゃない。
仮に裕福で「金」は満足以上、仮に100点だとしても「時間」「労力」がともに60点以下だとしたら100点以上、220点以下。
勿論、上記の点数の話は例え話であるが受け手のコンプレックスに不用意に触れてしまえば自分が伝えたい話は伝わらない。
「合計点」の話をしたいのに、「1科目」の話となり、加えて言えばその焦点にしたい1科目は伝える側と受ける側では異なってしまう。
「金を貰っても自由時間と意思決定権を奪われた事に対する不満、問題を持つ人間」が提起したい話に対して「金は与えられなかったが時間時間と意思決定は充分に出来た人間」が自分のコンプレックス、問題点の方面に焦点を当てて話をしていけば噛み合わない。
そして「金」というのは「過去」の象徴だ。
「金」というのは老若男女、「誰にでも当てはまる」問題であり、コンプレックス。
一方で「労力」というのは「今現在その事にエネルギーを向けている人間」だけ。
さらに「時間」というのは「過去と現在を繫げた先に見えてくる未来の可能性」の話。
「金」の話は無頓着な人間でも執着の強い人間でも誰でもそれぞれ「経験」があるからそれぞれの考え方がある。
だが「労力」は現在進行形でそれに従事していたり、あるいは考えていなければならない。
ほぼ100%の人が出来る「金」「経験」の話が圧倒的多数派であるのに対して「労力」は少数派となる。
現在進行形の「労力」の話からさらに未来の話となる「時間」についてはさらにもっと少数派となる。
例え話は親の話になってしまうが「金」の話に終始してしまえば全ての問題は「過去」のものとなり、「終わった事」になってしまう。
労力や時間の話をする事で「現在」や「未来」の話をしたいのにも関わらず、それを「終わった事」として片付けてしまうというのは「現在」において「我慢」させる事であり、「未来」を「不安」にさせる事に繋がる。
そして「努力して毒親から自立した」という成功体験を口にする人間が同じように「毒親」になるのはそれと同じ事。
それを自分も分かっている。
コンプレックスが多いし強い。そんな似たような人間だからこそ日常の一々細かい事に突っかかって気を病む。
それを以前は自己満足の小説のネタにしてみたり、今はエッセイにして書いてみたりしている。
それを分かっていれば「玩具」ではなく別の話をすれば良かったかな、と今更に思う。
とここまでは前回の補足というか反省だ。
コレ自体は前回の話に編集して書き直せばいいだけだ。
何故改めて書いたのか、といえば「トライ・アンド・エラー」と「反省」の違いを実践するためだ。
前話のそれは「トライ・アンド・エラー」。
今回のは「反省」。
間にあるのは「一度話をまとめて投稿したかどうか」。
「トライ・アンド・エラー」をしていた時はひたすら「書き手」として書いていた。
だがそれを投稿し、改めてそれに向き合い「読み手」として見た時に自分の出した物についてこうした不満点が出てくる。
「最初から反省までしたものを成果物として投稿」するのが理想的なのだろう。
「読み手」としては負担も少ない。
だが現実として大企業でも商品の不備、問題点が発売後に見つかり、リコールが存在する。
頭脳明晰、知識も豊富な集団が作り上げた物でもそうした可能性はある。
それを無くすために様々な検査、テストを行うがやはりそれでも「想定された不測の事態」でカバーできるのは「過去に起きた事」が下になっている。
「書き手」として過去の経験、それをもとにして書き連ねてもあくまで「書き手」としての「過去」でしかない。
「 読み手」としての経験を積まなければいくら「書き手」として作品を書いた所で「読み手」に配慮した言葉や説明は出てこない。
「何も考えずまずは挑戦」なんて言葉に集約されてしまうかもしれないが、その「まずは挑戦」という言葉に自分のような人間は二の足を踏む。
それについて自分は以前のエッセイで「許されたことがない」とした。
そして今改めて考えるなら「許されない」というのはどういう事なのか、といえば「書き手」から「読み手」に回るという権利を奪われている状態と言える。
一度投稿する事で「書き手」として区切りをつけて改めて自分の書いたエッセイを「読み手」の視点となって見返す。
「書く経験」ではなく「読む経験」を積み上げる。
そのためにはやはり、落ち着く時間が必要であり、読み返す労力が必要だ。
「書き手」として「愛」を捧げて書いた作品に「読み手」として「情け」を向ける。
エッセイの「読み手」、もっと日常的に広げて言えば「俯瞰的視点」という話になるがやはりそれはそれだけ「時間」も「労力」もかかる。ぶっちゃけ面倒な話だ。
逆にいえば「物事を俯瞰して見る事ができる人」というのは「挑戦」した数と同等以上にそれを「反省」できた人といえる。
例えば5時間かけて書き上げた5000字程度のエッセイ。
小説家になろうでは「読了時間」なんてものが出てくるわけだが5000字なら10分程度。
それでは「読み手としての経験」としては蓄積しない。
5時間かけて書いたもの。
だったらもっと反芻して考える事もできる筈だ。
5時間かけた作品、だから5時間反芻するべき、とそこまでは言わないが10分で読み終える作品に1時間向き合う。
日を跨いでもいい。
今日その作品のAのパートについて20分考えた。
次の日はBパート、その次の日はCパート。
次はDパート、と思ったけどCまできて気になった事があるからもう一度Aパートを改めて見返す。
「俯瞰的視点」で見る事が称賛されている時代だが、現実としてはその「俯瞰」するための時間と労力をさらに「挑戦」する事に当てるように言われる日々。
「書き手」から区切りをつけて自分の意識を「読み手」への視点を変える事自体も時間がかかる。
そこから実際に読んで反省するのも時間がかかる。
だがそれを繰り返せば「切り替え」と「反省」という「読み手」の力、「俯瞰的視点」の力が身につく。
先ほどの「金」の話になるが金で「終わった事」にする事に慣れるとやはり「断ち切る」能力は身につくが「切り替える能力」や「反省」にはならない。
だから満足出来ない。身に付かない。
それでは「俯瞰的視点」ではなく、「客観視」。
「客」として安全圏にいて好き勝手に言える。
当事者の喜び、怒り、痛み、苦しみ、解放感。
それを「客」としてエンターテイメントとして受け取り、小馬鹿にする事でしか自分を満たせなくなる。
だが俯瞰視点なら、その客の反応すらも自分の中に蓄積され、力となる。
書き手としてドンドン作品に「加えていく」
読み手としてドンドン作品から「削っていく」
挑戦とはその間にある区切り。
成果物すらもまだ反省における折り返し地点であり、同時に反省自体もまた挑戦における折り返し地点と言える。




