表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
何か書きたい。  作者: 冬の老人
280/354

母子家庭への偏見の根幹にあるのは何か。

タイトルは罪悪感のワードは入れていないが一応、罪悪感の話ではある。

数日前たまたまラジオ番組で「母子家庭支援団体」の人間が活動の一環としてもっと支援団体の活動を知ってもらう、という事で話をしていたのを聞いていた。


もともとの母子家庭の支援の始まりは戦争で発生した「寡婦」への支援団体の土台にあるという話だった。

母子家庭は色々問題を抱えているが一番分かりやすく大きな問題はやはり経済的なものだろう。


母子家庭支援団体から来た人間は偏見を無くすために色々な情報を伝えてきたり、ラジオにリアルタイムで送られてくるメッセージに「自分も離婚して母子家庭だ」という人のメッセージも読まれた。


しかし経済的に貧乏だから「母子家庭」は「偏見」を持たれるというのであればそれは「母子家庭」だけでなく、そもそも「貧困層」へ向けられる偏見と差別であり、母子家庭への「偏見」の根幹とは異なる。


また「父親という大人の男が子供と触れ合わない」という事が教育上の「欠陥」として見られ、それが偏見へ繋がる、という話もある。

それは確かに一理あるが、日本の父親なんて基本的に昔から家庭の事は母親に投げっぱなしを是としてきた。

「男は外で仕事、女は家を守る」としてきて今更「父親がいない事が教育上の欠陥」なんて大した問題にならない。


偏見を向ける人間の多くが母子家庭ではない、普通の家庭。

「両親」の揃った家庭だからと言って子供がまともな大人に育つとも限らない。

比率ではなく、絶対数でいえば圧倒的に母子家庭ではなく、両親揃った普通の家庭から「不良」は生まれ、「犯罪者」は生まれている。

「両親が揃っている」という事は些細なことである。


では何故母子家庭に偏見が向けられるか。

結局は偏見を向ける普通の家庭の「母親」の存在が母子家庭に向けられる偏見の下地になっている。

「女嫌い」の件でも語ったが自分の「母親」が基準となる。

「母親が父親と離婚して、もしも自分が母親に引き取られていたら」。


想像する、妄想する、というのは「膨らませる」と表現されるように自分の中にある経験、既存の「1」から増やしていく行為だ。

それを1から2に増やすか10に増やすか、100に増やすか、あるいはそれ以上かはその人の想像力で異なるが、自分の中で「経験」している「過去」が偏見の「始まり」となる。


自分は父と母が喧嘩みたいな事になった時に右往左往した事がある。

それは結局、「母親」も「父親」も頼りないから。

そしてそんな親であっても子どもの自分には縋るしかなかった。

一番情け無いのは自分だが、今回は別にそれはどうでも良い。

何故「夫婦」の喧嘩に「子ども」の自分が右往左往して焦燥感を煽られなければならなかったのか。

結局のところ、上記の「両親が情けない」から、という事につきる。


「両親」が情けない、それはつまり両親が「未熟」である。

結果、子どもが「背伸び」をしなければならなくなる。

そして「父」というのは「外で仕事」、「母」は「家を守る」。

働き方や価値観の変化から日本でも少しずつそれは変化してはいるものの、基本的には昔と同じスタンスであり、「母」と触れ合う機会がどうしても多くなる。そして自分の母親が「罪悪感」に対して鈍感であればこそ、母子家庭への偏見の下地は大きくなる。

つまり、「母子家庭」の偏見と言うのは一般家庭に育ちながらも「自分の母親」への不満が背景にある。


そして母子家庭における「離婚」という事実は「自分の母親への不満」が子どもの自分だけでもなく、母親のパートナーである父親とも共有されるほどにさらに膨張した「母親としての能力だけでなく妻としての能力もない」という女性像を生み出す。


「母子家庭」は「貧乏」だから偏見を向けられているわけでない。

「父性がない」という事を問題視されているわけではない。

そんなものは後付けだ。

偏見を向けている自分の「母親」が「情けない」、「頼れない」、「信用できない」。

謝罪しない。感謝しない。約束を守らない。

いつも言い訳は「仕方ない」。常に「貴方を育てるために私が犠牲になっている」という被害者意識。

そんな「女」に一人で子供を育てられるわけがない。

そうした自分の母親への不満を抱きつつも動物的な本能、そして曲がりなりにも育てて貰ってきたという罪悪感から「色々不満はないわけではないけどトータルで良い母親」と納得させている。

しかし余所の母子家庭、となると自分自身の母親ではないためその本能的な好意もなければ育てられた罪悪感がなく、純粋な「母親への不満」というものを「母子家庭に対する偏見」に投影しているに過ぎない。


何度もエッセイで語っているが「女」は「切り捨てる」性質であり、「決断」すべき時には必要な性質だ。

しかし、女を放っておけば「必要なもの」「重要なもの」まで捨てる。

理由は「自分には必要ないから」。

「他人にとって重要なもの」、「他人が大切にしているもの」、そうした他人の気持ちに寄り添わない。


自分も小学生低学年の頃に大事にしていた玩具がなくなった事があった。

いくら探しても出てこない。

結局、それは母親が遊びに来た親戚の子にあげたという事だった。

例えそれが子どもの物であっても「他人の物」である。

力関係があるとはいえ、「他人の物」を勝手に処分したり、誰かにあげたりするのは信頼関係、信用を無くす。

ただ、そこで自分の文句に対して「謝罪」していればいくら大切にしていた玩具とはいえ、所詮はたかだか「子どものおもちゃ」だ。

今頃こんな些細なことは忘れている。

だが母親は逆ギレし、子どもであった自分を責めた。

既に「信頼」と「信用」を失っている、その上で力関係で強引に加害者ではなく被害者として振る舞い、責任転嫁する。

「おもちゃを無くされた記憶」ではなく、「母親に裏切られた記憶」として残っている。


動物的な本能で母親の事は好きだ。

だが人生において大事な場面、そのほぼ全てで母親を信じてきた事を裏切られた。

日常生活の家事をしてくれる事についての感謝は当然している。

他ならぬ母親が「感謝しろ」と当てつけのように語るのだから、嫌でも意識さざるをえない。

それで裏切られた事と意識した日頃の感謝と本能的な好意。

それでプラスマイナス0にしている。

だから小さい頃、小学生の頃から自分は自殺が選択肢にあった。

どう頑張っても心の底から母親を許せない。

けど、母親の事は好きだ。

好きな母親のことを許さないといけない。

自分はなんて情け無いのだろう。

罪悪感で埋め尽くされる。

罪悪感でいっぱいの自分はさながら「罪人」だ。


自分は母子家庭というものに偏見と言うのは無い。

理由は「両親が揃った家でも自分のように罪人として生まれて育つ」という事実を身をもって体験し証明している以上、「母子家庭だから」というのは無い。

ただ、「女嫌い」になっただけ。

「女に無関心」になっただけ。


母子家庭の偏見を無くす。

それは結局のところ、母子家庭のみならず日本中の子どもが自分の母親を自慢の出来るようになる事から始まる。

動物的、本能的な親子の間に発生する「好意」。

育ててもらった恩から来る「罪悪感」。

この二つの下駄を履かせた上で「母親に対する不満」を相殺した「子ども」の立場から見た「トータル」での評価ではない。

例え「血の繋がった親子」でなくても、「育ててもらった恩」がなくても一人の「人間」として自慢できる女性が自分の「母親」。

「人間として自慢できる母親」に経済的な物、あるいは美醜など単なる付加価値であり関係ない。

子どもの自分を母親自身の付属品、奴隷として扱わず、「一人の人間」として礼儀を尽くしてくれるかどうか。

そうした「母親像」が「一般家庭」で育った人間の中にあったなら他人の母子家庭という環境も「何か事情があったに違いない」と心を向けられる。


だが自分の母親像が他人に自慢できるモノでなかったなら。

「血の繋がり」と「育てて貰ってきた恩」以外の母親自身に「人間としての魅力」がないものが「母親像」となってしまっていたなら他人の家庭の母親も「そういうもの」という下地が出来上がってしまう。

その場合、母子家庭の母親というのは「母親としてもダメ、加えて妻としてもダメ」な「未熟な女」。

その「未熟な女」が「未熟な子ども」を一人で育てるなどほぼ無理な話、だから「母子家庭はダメ」という認識が生まれてしまう。


この「母子家庭に偏見を持つ者はその人自身の母親が問題がある」という自分の思う理屈は別に母子家庭への偏見に限った事ではなく、

「いじめ加害者自身が家庭環境がおかしい」

だとか結局「蛙の子は蛙」「ブーメラン」的な話と一緒の話である。

貧困家庭への偏見も偏見をする者自身の経験が「親の愛」というものに対して有り難みを感じていたのが「愛」というモノを構成する3つの要素のうち、主に「金」しか感じていない。

そして「動物的な親への好意」、「育てもらってきた恩」、そして現状の「ある程度満たされた状況」があるからこそ、その不満を無視している。

そして「親とはそういうもの」として「普通」の定義づけを行っている。

そして自分を含めた「現状が満たされない者」の「毒親」とかそうしたネガティブなワードは「負け犬の遠吠え」と言った具合に否定して自己責任だの努力不足だのと語る。


そうして「負け犬の遠吠え」として「母親への不満」を語る人間の言葉、陰キャラの言葉を「雑音」にする事で「聴く耳持たない」まま、「陽キャラ」として男は女を得るために甘やかし、精神的な母親への成長を止めさせる。

女は子どもを産んでも尚、母親にならず、女としての社会に求められようと若さを求め続ける。

問題は陽キャラで有り続けようと支え続けてくれる若者は少子高齢化で少なくなっており、陽キャラにスポットライトを当てる陰キャラ達、女を求める男達が少なくなっている。


母子家庭、あるいは貧困など少数派、弱者は存在し続ける。

だが偏見は無くす事、少なくとも減らす事は出来る。

そしてその偏見は少数派、弱者側の問題をいくら解決しようとも結局は多数派、普通の側にも存在する。

偏見がある、と自覚するのは難しい事かもしれない。

だが何かのきっかけで「相手を見下す」事を自覚して自分に偏見があると理解した時、問題があるのは「向こう側」だけでなく、「コチラ側」にもまた「母親への不満」のように下駄を履かせて強引にねじ伏せた不満がある。

その不満を持つ事自体は普通の事かもしれない。

だからこそその不満に蓋をせず、言語化する。

それが恐らく、勝っただけの「勝者」を「賢者」にする方法。

女から母親に、男から父親に、陽キャラから大人に成れる。

そうすれば陰キャラに光を当てて同じように母親に、父親に、大人として仲間にできる。

味方が増える。

子どもを大人へ成長させる教育と同じ。

「始まり」は「女」から。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ