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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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罪悪感の分断

小説を書くシステムの変化で投稿が遅れるかも、と前の話で書いたものの、2週間くらい投稿できずにいた主な理由は暖冬の影響で色々と仕事が前倒し、加えて体調不良と色々重なったから。

読者の人も季節の変わり目、体調に気をつけて。

結局のところ「時代」の全ての責任は数の多い「普通」の人間の行動である。

国の一部の上流階級でもなければ「足を引っ張る」と形容されるような底辺にもその時代の決定権はない。

「上流階級に憧れる普通の人間」がいるから「上流階級」に良いようにされる。

そして上ばかり見上げて足元が留守だから底辺ごときに足を引っ張られて致命傷になる。


多数派は行動の自覚がない。数が多いから罪悪感と責任が曖昧になる。

「自分」が悪いのではなく、「皆」が悪い。

確かにそうだ。

しかし「皆」というものはそれぞれの「自分」と言う個が幾つも重なり合う事で作られる。

責任は軽くなるような気はするが無くなりはしない。


「自己責任」と言う言葉。

コレを考える時に一つの「世代」として投げかけられるのは所謂「就職氷河期世代」だ。

就職難の世代であり、今の「出生率の低さ」などもこの世代が起点となっている。

とはいえ、この世代に責任があるか、と言われればそうではない。

高校、大学を出たばかりの人間に日本の経済や文化の変化、出生率などについて責任を取れるわけもない。

そもそも責任をとるような事を「何もしていない」わけである。

あるとするなら間違いなく氷河期より上の世代のバブル期の世代の責任である。


この氷河期世代に対しての支援だとかがちょくちょく話題に上がる。

それに対して氷河期世代の前後それぞれの世代から色々言われ、落胆される状態にある氷河期世代だが一番の問題は氷河期世代自身が生み出していたりする。


氷河期世代に投げかけられる「自己責任」という責める言葉。

そうした「失敗した者」に投げかける者達はどの層が多いのか、といえば「氷河期世代」自身であるらしい。

同じ氷河期世代にありながら何とか「成功」したものから「失敗」した者に対して最も攻撃的な意志を向けられる。

「生き残るため」

「勝ち上がるため」

そうした理由を盾にして失敗した者は「努力不足」だと叩く。


何故同世代が最も叩くのか、と考えると「叩く事」も含めて「就職の戦い」である。

「叩く事」を見せる相手というのは勿論、雇い主となる「上の世代」に向けて。

生き残るため、というシンプルな理由だ。

仲間を売る事で自分だけは助かる。

仲間と見なされないようにするため、誰よりも強く敗者に向けて石を投げつけ、誰より早く火を点ける。


自分だけが生き残るため。

そうした行動の結果、格差が広がった。

何故か。

「上の世代」に取り入って生き残るために「仲間を切り捨てること」を躊躇しない罪悪感に「鈍感」な者、そしてそれに前へ倣えで真似をして成功した「普通」の者が生き残ったおかげで「前の時代」が「移り変わらなかった」。

4から3へ移り変わらなかった。

「新しい時代」の席に座るべき「次世代」の総数が「1」となり得なかった。


結局、「氷河期世代」の成功者も失敗した者も上の世代から謝罪を受けず、自己責任で押し切られて自分達の選択は許されなかった。

「古い時代に迎合するか、死ぬか」

何故迎合しなければならないのか、といえば「数」が足りないからだ。

「旧世代の普通」に成り代わるための「新しい普通」になるための数が。

そしてそんな生きるか死ぬかという二択は実質選択肢がないと言って良い。

生きなければその後の選択肢も存在しないのだから。


氷河期世代というものが生まれた事で先述したものを含めて3つの問題がある。

1.結婚や出生率の低下の起点となった。

2.氷河期を堺に上と下で分断した。

そして3番目。

それは罪悪感に対して「鈍感であり続ける事」の正当化。


1と2は良くも悪くも人間社会のみならず自然において「特異点」としてないわけではない。

偶然に偶然が重なれば「そうした事もある」というだけである。

幸も不幸も終わりがないわけではない。

渦中にいる人間からすると不幸ではあるがどうとでもなる。

しかし、実際はそうはならない。

その理由が3の罪悪感に対して鈍感である事を正当化である。


言うなれば「ノアの方舟」方式。

「大洪水を乗り切って次の時代に種を残す為にそれぞれの動物のオスとメスを方舟に乗せる」

動物なら「オスとメス」で充分かもしれない。

しかし人間はそうはいかない。

「陰陽」がある。

それは生殖期ではなく、性質。

人間が人間足り得るためには「本能」だけでは社会は成り立たない。

行動する者のために受け入れるために待機する者が必要であり、行動のために考える者も必要。

今行う選択のために経験が必要であり、なんために選択するのかという夢も必要。

探究心も必要だが周りの事を見る、聴く事も必要であり、その結果として諦めも必要。

人間が社会を成り立たせるために色々な物が必要であり、そしてその結果として色んなものが生産されてきた。


しかし氷河期によってそれが失われた。

氷河期世代自体は被害者だ。

しかし方舟に「陽キャラ」のオスとメスしかのせなかった。

それが「正しい」選択だとしてしまった。

勿論、「弱肉強食」の獣の理屈ならそれは「強い者」である以上、正しい。

しかし結果として「正しい」以外の事ができなくなった。

「選択肢」に「迷い」「悩み」「選ぶ」。

人間なら当たり前の行動だが、それらを「捨てる」事を「正解」であると言う事にしてしまった。

迷いを持たないためにはどうするべきか。

悩まないためにはどうするべきか。

選んで責任を負わないための方法は。

どうすれば「選択肢」に向き合うことなく、生きられるか。


それはつまり「楽」に生きるにはどうするべきか。

喜怒哀楽の最後の季節。

人生100年なら75から100歳の期間の生き方を探る行為。

「喜び」の季節から一気に50年飛び越えて「楽しみ」の季節に向かうのを人生の「成功」、「勝者」としてしまった。

男女ともに「陽キャラ」を「人間のあるべき姿」としてしまった。


「陽キャラ」の本質は男女で言えば「女」である。

スポットライトを当てた場所に群がる虫。

日の当たる場所、他人が認めたものにしか価値を感じない。

60点〜80点の間にしか価値を感じられず、80点を超える「強い拘り」には嫌悪感を示す。

最近で言えば「発達障害」だとかそうした名称も当てられているがその「拘り」が許されるのは「金」を産む時だけ。

逆に言えば「金にならない拘り」は「悪」であり、「間違い」であり、「陽キャラ」という「女」の性質によって「切り捨てられる事」が正義として執行される。


あくまで男の性質はオタク的な「陰キャラ」だ。

誰にも見つけられていない未だ「価値」を与えられていないものに価値を与える。

80点より先の「拘り」の先にある「可能性」を見出す。

とはいえ、「喜び」の期間というのは若く、大部分の期間は「子ども」として過ごす。

男でもなければ女でもない。

陽キャラでもなければ陰キャラでもない。

あるいはその両方、どちらも備えているとも言える。

にも関わらず「陽キャラ」になるのが正解、正義とされてしまえば男の性質が強いほどに切り捨てられる部分が多くなり、心は我慢を強いられる。

皆が女になり、若さを求め、「迷い」「悩み」「選ぶ」というすべての諸悪の根源たる「選択肢」は消え失せて「義務」だけが生まれる。


話を戻して「氷河期世代」の「成功者」はそれより上の世代、バブル期の世代からすると「若いメス」と言える。

「失敗」した者達は「旧世代」の自分達の価値観を絶対視せず、異なる価値観を持ち出す事で旧世代を否定しかねない「オス」といえる。

と言えば「多様性」が言われて久しい「日本」において自分の考えは見当違いと思うかもしれないが、それは「外国」と「日本」というものがあるからに過ぎない。

「外国」からスポットライトを向けられたから「多様性」というものに飛びついたに過ぎない。

あくまで「選択肢」を増やしたわけではなく、「多様性」という人気のジャンルを得るために他を切り捨てただけ。

事実、様々な所で弊害が起きている。

それは勿論、多様性の出所となった外国でも似たような状況ではあるが。


時代の決定権はその時代の「多数派」にある。

しかし、氷河期世代は大洪水を凌ぐための方舟に「陽キャラ」しか乗せなかった。

結果として多数派が陽キャラとなり、女となった。

この時代を作り上げたのは陽キャラであり、女である。

にも関わらず、この時代を「生き辛い」と感じるなら罪悪感を感じ、責任を負う必要があるのは「陰キャラ」を切り捨て「男」を切り捨ててきた事。


SNSなどにある

「本当に強い人が日常生活できている事10選」

「生きる上で重要な事8選」といった物。

コレらの事を見れば多くは「当たり前」の事である。

しかし「出来ない人」もいるが「やっているのに成功者になれない」というパターンの方が圧倒的に多い。

実際、「20%の人間にしか出来ない事」だとか「ごく一部の成功者」にしか出来ない事、と「憧れ」させる装飾が付け加えられている。


何故「出来ないのか」、何故「やっているのに結果に結びつかないのか」

それを「自分で考えろ」というのだろうが、問題の本質はそこではない。

こうした当たり前の事の「意味」を考えない女が形だけを繕って「価値」を売り、「結婚」して「子ども」を産み、動物的、あるいは法律上の母親にはなっても精神的には女のままである事。

男の場合でも同じ。

「意味」を考えようとすればどうしたって「言語化」せざるを得ない。

それを次の世代に伝えれば良い。

それをしない。出来ない。

形だけの感謝、謝罪、形だけの礼儀。

だから躾として身につかない。


「伝える事」は他人、若者を「甘やかす」事ではない。

「伝えない事」が自分を「甘やかす」事になる。

「伝える」というのは感情のままに喚き散らす事でも正論パンチでもない。


指導者が指導相手に対して「考える前にとにかくやれ」という。

しかしその裏を考えた時、何故「やる前に考えてしまうのか」を考えた時に必ず「成功しなければ許されない」「100点を取らなければいけない」という強迫観念があるからだ。

そしてその強迫観念が相手に生まれているのは指導者自身の普段の行いにある。

信頼されていない、信用されていない。

いくら指導者として実績があっても結局、指導者の成功とは「指導した相手の成功」に他ならない。

指導者の実績とは「過去の指導相手の成功」ではなく

「今の指導相手との関係性」である。


「氷河期世代」はその指導者、先輩、親となる上の世代の失敗の被害者だ。

しかしそれでも生き残るためには加害者の下につくしかなかった。

勿論、それを「自然」な形で加害者、上の世代と同じ価値観に沿う者もいただろう。

それが悪いわけではない。

悪いわけではないが、逆にいえば違う選択肢を見つけたからといって悪いわけでもない。

そして違う選択肢に進んだからといって上の世代が「応援しなくて良い理由」はなく、ましてや「攻撃したり否定したりする理由」にはならない。

若者と同じ世代、同じように未熟で、同じように余裕がないからこそ自分の事で精一杯で「応援できない」「許容できない」というだけであり、未熟ゆえにそれが「許された」だけに過ぎない。

年齢が離れる程、そして年齢で尊敬されたいのであれば「応援」と「許容」は必須の能力。

3年、5年、10年、20年、30年、そうやって先に生まれた人間ほど本来ならその能力が洗練されていなければならない。


男も女も関係ない。

10歳の子どもからみれば30歳の大人は男も女も関係なく、力が強い加害者足り得る力がある。

また20代、30代の若年層からすれば50代、60代もまたやはり、経済的、あるいは役職、立場としても加害者足り得る力がある場合が殆どだ。

だからこそ年齢が上の人間でありながら「伝える能力がない」「違う道に進む他人を応援できない」「自分とは異なる選択肢を許容できない」というのは「情けない」。

「 若くない」のに「受身」になれない。

受身となって相手の意を汲み、指針を授けられない。


何かといえば「自己責任」「自分で考えろ」「自分の人生だ」。

だけど自分の事になれば自分の言葉がすっぽりと抜け落ちる。

「お前のせいだ」「誠意を見せろ」「お前のためを思ってやったこと」。

「ツンデレヒロイン」だとかそうしたキャラならそれも魅力かもしれないが、30代、40代、あるいはそれ以上、もっと上の世代がそうしている。

「イタい」

勿論、それは自分も含めてだ。


そしてそれが「失敗」であった、「間違い」であったと自分は判断している。

「罪悪感」を感じている。

だからこそ、それを「許す」必要がある。

だが失敗や間違いを認めないまま、罪悪感を感じないままでは「許す」事はできない。

そのために相手に失敗や間違いを認めさせるためにはコチラ側が「謝罪」し、「感謝」を示す必要がある。

罪悪感を示す手本になる必要がある。


ネットには「自分が変わる」というメッセージが溢れている。

だが溢れているという事はそれだけそのメッセージが伝わっていない、という事に等しい。

「反射」という身に馴染んだ「楽」な方法、技術を備えた人間がそれを備えていない人間に「プライドを捨てろ」、「変えろ」と言っても響かない。

先に変わる必要があるのは常に「先」を行く者。「指導者」の方。

「先をいくプライド」、「持っている物の豊富さ」、そうした様々な「拘り」。

「方舟」に乗った「陽キャラ」、「女」が方舟に乗せられなかった者達に罪悪感を感じない限り、「陽キャラ」は「大人」になれず、「女」は「母親」になれない。

キラキラした場所に立つ者ほど、そこに「価値」ではなく、「罪悪感」を感じなければ生き残れない。

自らが踏み台にしてきた者達、スポットライトを当ててくれる者達。

「陽キャラ」は「成功しやすい」。

「女」は「難易度が低い」

けれど「成功した」となるのは常に「大人」。

「報われる」のは常に「母親」。

最終的に「大成」するのは「拘り」のある「陰キャラ」であり、「男」の「オタク的性質」を持たなければならない。

でなければ「自分の求める物」が分からず、欲を渇望して満たされないまま間違いを犯す。

子どもの悪戯では済まされない、けれど実際には良い歳の大人が子どもみたいな間違いを起こしている。


「立ち止まるな」「後ろを振り返るな」「前だけ見て進め」

カッコいい台詞回し、憧れる。

だが「憧れ」 をもった時点で心は子どもとなる。

心が浮足立つ。

足元が掬われかねない。

「立ち止まる」のは「許す」。

「振り返る」のも「許す」。

しかし、その行動の「理由」を教えてくれ。

そのために「理由」を考えてくれ。

その「理由」に「嘘」はつかないでくれ。

「氷河期世代」が世代を分断した結果、「許す事」が出来る大人が少なくなった。

だからこそ、若い世代は尚更「許す事」の意味とその方法を時代に合せてそれぞれ考える必要を求められる、と思う。

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