捨てる
何か、新しくなってやりづらい。
慣れるまで時間かかりそう。
一つ、今回の話に入るに当たって謝罪というか訂正から。
現在は「人生100年」と言われており、自分のエッセイでも100年を基準にして喜怒哀楽のエッセイなどを書いてきた。
しかし実際は「100歳まで生きる人も増えてきた」というレベルの話で平均寿命は男女ともにおよそ80歳というデータがある。
コレから始まるかもしれない「人生100年時代」と実際のデータとして存在する「平均寿命80歳」という異なる見方と数値だが、自分は前者の意味で100年を選びエッセイを書いたわけであり、平均寿命が100歳というわけではない、という事を改めて書いておく。
この80歳と言う平均寿命は男女ともに80歳前後くらいというのが2021年のデータがらしい。
しかしデータを結婚しているかどうかで男女別に見て行った場合、未婚の独身男性のみに限れば67歳ほど。
既婚者の男女、独身の女性は平均寿命から大きくそこまで変らないのに独身男性だけがそうなっている。
このデータを見た時に考える話がある。
結婚していない人間、結婚に意欲的でない人間に対して
「自分達が苦労して育てた子ども達が育児の苦労もしていない人間の介護をする事になったりして負担をかけられる事になるのは我慢ならない」
と言った主張をする人達。
まるで結婚しないことを犯罪者のような扱い方だ。
しかし男性の67歳といえば現代ならまだ現役、もしくは退いたばかりだ。
介護だとか年金だとかそうしたものを殆ど享受しないまま死んでいく計算になる。
ならその主張というのは少なくとも未婚のまま独身を貫いた男には何の罪もないし、責任もない。
むしろ「独身女性」がそうした意味では無責任。
「早く死ね」と言っているわけではなく、そうした「結婚していないこと」が罪であることのように多数派の人間が語るなら「独身女性」がそれに当てはまる。
けれどおかしい話で今でこそ男女平等が騒がれる時代だあるものの今の60〜80代の女性が若い頃というのは今よりずっと女性への差別が強い時代で稼ぐのもキツかった筈。
何らかの支援、優遇がなければ未婚女性が結婚している女性と同じくらい生き残るのは難しい。
同じ女性達が助け合う組織がある、というものがなくもない話ではあるがそんなものがあるならツイフェミがこぞって誇らしげに語るだろうがそんな話は流れてこない。
なら根本的には男から助けて貰えるから生き残れる。
極端な話、男が配偶者以外の女に金を落とさなければ未婚の女は生きて行けず、独身女性の平均寿命が下がれば「若者にかかる負担」という意味では減る筈。
非情な話だと言う事は分かっているがシンプルな足し算引き算で考えればそうなる。
そして「結婚していないこと」「子どもを作らない事」を「罪」であるかのようにするのならその「罪」を助長させているのは結婚している男、それを止めない女。
結局、なんだかんだと言いつつ「モテる男」とその男の周りにいる「序列の高い女」「序列の低い女」という3つの人間で構築した「ハーレム」という社会を形成している。
「モテない男」は蚊帳の外。
罪悪感の「鈍感」「普通」「敏感」「過敏」と同じ。
過敏が先に抜けるように、モテない男が抜けて4から3となる。
そして次世代がそこに生まれて「次の時代」は3から4になる。
自分のエッセイで書いた罪悪感の理屈でいけば次に消えなければならないのは「普通」を盾にする者。
「序列が低い女」が抜けなければならない。
そうしなければ「次世代」が育つための養分が足りなくなる。
けれどその「序列が低い女」、つまりは「独身女」が「配偶者有りの男女」と同じくらいに生き延びている。
それを生かしているのは紛れもなく「モテる男」であり、その結果として次世代に回すべき養分が無くなる。
「モテない男が動かない所為」にして、その後に「序列が低いのにモテない男で我慢できない女の所為」にする。
「自分達は結婚して子育てもした、責任は果たしている」と言って罪悪感と責任から逃れる。
こういう社会を望んだのは間違いなく「配偶者がいる男女」である。
なら「道を選んだ者」達が進んできた「現状」が答え。
「道を選んだ者」、即ち「多数派」の人間が選び続けた社会であり、「少数派」の言葉、「弱者」の訴えを無視してきた「多数派」が不満を持つのはおかしな話。
といえば「少数派の意見を聞いたからこんな事になった」という反論がされる。
見当違いも甚だしい。
「少数派の意見を選ぶ」という選択をしたのは「多数派」。
何故自分達の選択すらも自覚できないのか、といえば結局の所「理由」を説明できないから。
「普通」の事について「皆がしているから」以上の説明できない。
昔なら「皆が正しいから」という理由で少数派を否定した。
けど現代では多様性によって海外や世代の価値観の変化で絶対的な「皆」というものがない。
「否定する理由」がないからという「理由」
それは「選択肢の中に加える理由」になっても「選ぶ理由」にはならない。
「何故それを選ぶのか」という理由がない。
だから「欲」に勝てない。
結果、「他の価値観を持つ人間からも良く思われたい」という「欲求」が判断を鈍らせて「少数派」というものを「切り捨てる」選択肢を取れなくなる。
ハーレムというのは結局のところ「切り捨てる事が出来ない状態」である。
そして言い換えると「切り捨てる」「見捨てる」という事に対して「罪悪感」を感じたくない、自分が「捨てた」という選択において「責任」を負いたくないという現れと言える。
「捨てる」という事は「罪」である。
ゴミを道にポイ捨てする、ペットを捨てる。
どんなものでも適当に其の辺に捨てるのは周りの人間からすると「迷惑」である。
だから適切な場所に「廃棄」する。
「独身女性」の平均寿命が「独身男性」と同じぐらいになれば「次世代」の負担は減る。
シンプルな理屈であり、実際に「介護される側の性別」としては65歳未満では女が100人に対して男は105人程度、とやや男が多いが殆ど男女差はない。
しかし65歳以上では圧倒的に女100に対して男は75と大幅に男女差が生まれ、「女」が多い。
「自分達が育ててきた子ども達に負担をかけさせたくない」というのであれば「女」にそれをぶつける必要がある。
「モテない男」はそのまま「独身」を貫けば次世代に迷惑はかけない。
しかし「序列の低い女」はそのまま「独身」であれば次世代に迷惑をかける。
数字を振りかざすのは気が引けるが、それでも実際に平均寿命と介護される性差のデータがそう告げている。
このエッセイで男は「モテる・モテない」、女は「序列の高い、低い」で表してきた。
それは「モテない女」をハーレムの末席に加えて「序列の低い女」に変換したのは「モテる男」であり、
それ故に「モテる男」からも見捨てられた「モテない女」の叫びは「モテない男」以上に可視化されない。
何故なら同じ「モテない」であっても男はアイドルや趣味というものを見つける「オタク」であり、「モテる」のとは別の「仲間」がいる。
しかし、女は「オタク」になれない。
他人や物に興味がない。そして自分にも。
だから死ぬ。
「増やす性質」の男と「捨てる性質」の女。
田舎だとか古い物のコミュニティが「閉鎖的」になるのは「ハーレム」状態を良しとして「捨てられない」状態であり、「捨てる」という行動の罪悪感と責任から逃げているから。
「捨てる」という行動に対する「理由」をつけられない、考えつかない、というより考えようとしない。
だから結局「人目」 を伺って「捨てられない」。
もう使っていない「思い出の品」を「捨てられない」。
何故捨てられないのか。
「自分が正しい」と思っているから。
「自分の選択」を正当化している。
「正しいから集めた」「正しいから選んだ」「正しいから極めた」。
そうした「正しさ」を理由にしてきたから「捨てる」というのは「間違っている」という事に他ならない。
「正しいから許される」
「正しくないから許さない」
それは「正しいかどうか」は様々な状況で異なる。
また「許される」という他人に責任を押し付けようという他責思考でもある。
「理由があるから許せる」
「理由がないから許せない」。
「やむを得ない状況」というなんらかの理由、「過去」があるかどうかで「許せる」「許せない」という自分が取るべき「現在」の選択。
だから「未来」に「責任」を取る決意が固まる。
「理由」があるから選んだ物を残していく。
だから最後に捨てるのは「理由」がなく残っている己自身。
「捨て身」となる。
ずっと前のエッセイの通り、自己責任はやはりそうやって誰かに伝えられる言い訳という「理由」を取り除いた先にある。
理由なく動いたそれは「自分の感情」「生存本能」、「 欲求」に基づく混じりっ気のない自分の選択した行動。
だからこそその「理由なき行動」の「理由」を言語化出来た時、「過去」との決別。間違いを認められる。
「過去」を捨てる事ができる。




