反省とは2
前回の話で書いたQ&Aの工程が「反省」なら子どもでも分かる。
勿論、噛み砕いて理解しやすいように説明が必要であるし、理解させるために時間も労力もいる。
また挑戦するための物事のレベルは子どもと大人では次元が違う。
とはいえ子どもだって直面する問題に対して自力で改善くらいする。
遊びや勉強を通してより効率的に、より反射的に、より楽にできるようにする事くらいできる。
だからこそ、子どもの時点て充分に「体感」を通して「後悔」と「反省」の違いというのは充分理解できる筈だ。
だけど結局、最後は見守るべき者が「許す」という事をしないから何時までも反省が終わらない。
だから切り替えられずに「拘る」。
拘っても゙100点をとっても「許される」事はなく、次から次へと問題が追加されていく。
「あの時、ああすればよかったかもしれない」
そんな後ろ髪を引かれる思いのまま、「正解」か「不正解」かもわからない事を何時までも考えながら「次」の課題に取り掛かり、中途半端になる。
煮えきらないまま同じように後悔を続けながら終わった事を考えながらそれが癖になる。
本来なら拘る必要はないのに、罪悪感に駆られて100点で仕上げなきゃいけないという思考になる。
だから他の事に手をつけられない。
許しが出ないから優先順位をつけられない。
80点でも「もう十分頑張った」と言わない、許してくれない。
だからそれを許してもらうために100点を求める。
けど80点で許して貰えたなら「もっと褒めてもらおう」と「数」を求める。
1つの教科で褒められるより2つの教科、3つの教科。
そうやって「数」を求めて行けばまた何処かで頭打ちになる。
そうしたらまた「質」を高める時期になる。
もしくは「新たな道筋」として「自分のしたい事」に目を向ける時期かもしれない。
「量より質」とは言うが「数の暴力」なんて言葉もある。
どちらかを疎かにすれば結局全てが疎かになる。
両方必要である以上、「質」を高めたら「数」を求め、「数」が満たせたら「質」を高める。
その繰り返し。
ただ、好きなも゙のは優先し、嫌いなものは後回しになる。
嫌いなものが後回しになっても「数」を求めていればやらざるを得ない。
その「どの道やる」という事に慣れさえすれば「やらない」という発想自体が小さくなる。
100点を目指さず80点を目指す。
不真面目なつもりはない。ただ、エネルギーが足りない。
誰も認めてくれない、誰も許してくれない。
「働かざる者食うべからず」とは言うが食わなきゃ働けない。
肉体的エネルギーが減った状態では働けないのと同様に
精神的なエネルギーがない。
だから楽をする。
どうせ認めてくれない、どうせ許してくれないなら真面目にやるだけ損をする。
「正直者が馬鹿を見る」のは「卑怯者」が成果を上げるからではない。
「評価する側の人間」自身が評価する「基準」を持たずに無責任であり、「気分」で判断し、必要のない「プラスα」、つまりは本来の「基準」を超える「蛇足」を求めるケチ臭くて肥えた者だから。
とはいえいずれは自分を認め、許す「誰か」は大人なれば「自分自身」が行わなくてはならない。
だが若く未熟であればこそ、周りの大人がそれを導く必要がある。
若者に「挑戦」を求めるなら大人はその挑戦の結果を、それが成功でも失敗でも「許容」しなければならない。
だが「自分が許されなかった人間」というのは「他人を許す」という事が出来るわけがない。
それこそ自殺するほどに自分を否定する事で「過去」と「現在」の自分を切り分ける位に自分を分断しなければ。
しかし、それは基準が世間の「普通」ではなく「死」が基準になる。
だから60点を下回らなければ許す。
80点、100点と同じように許す。
それは楽だが無責任になる。
「最低限の生きるための価値」しか与えられない。
「キラキラした誰からも求められる価値」は与えられた事がない以上、知らない。
知らないから与えられない。
だがそれを予め知っていれば、「許されていた」なら100点に拘っていなかったかもしれない。
逆に「80点でも良いよ」と許されていたとしても100点に拘っていずれはさらに上のステージを目指していたかもしれない。
それは「たられば」でその状態にならなければわからない。
しかし「許された」以上、そこから先は自分の選択である事を自覚できる。
100点以外は価値がないと言われて100点を目指さなければならない状態は選択とは言えない。
「もしも許されていたなら」
「たられば」に逃げるのは情けないかもしれない。
だがそれを他人が否定する権利はあるだろうか。
仮に権利がある者がいるとしたら他人に「関心」と「許容」していた者だけが「たられば」に逃げる者を否定する権利がある。
そしてそうした権利がある者は簡単に否定はしない。
関心と許容、それを「たられば」に逃げる者に向けてから否定する。
その「たられば」は言い換えるなら「夢」であり、「可能性」だったから。
相手の「夢」を聞き、「可能性」を肯定する。
それを踏まえて「現状」に向き合わせる。
それは矛盾せず同居する事が出来る。
「情けない」と口に出す権利、相手を否定する権利を持つ者は「同情」できる者だけ。
それが出来ないから「放置」を選ぶのが賢い、なんて結論になる。
他人に「関心」を向けない、異なる者を「許容」しない。
それが「普通」。
その「普通」を盾にする事で結果として最後になって他責思考になる。
「賢い選択」ではなく、「楽な選択」であり、そもそも「選択」ですらない。
「皆がやってる」というなんてのは理由にならない。
理由のない選択など選択と言えない。
結局のところ、「経験」がない以上、他人を許す事が出来ない、他人に関心を向けないという結論なら「結婚」も「子育て」も矛盾している。
子どもを「愛の結晶」だとか「希望」とか「可能性」とか、自分は語るつもりはない。
それは「親」の立ち位置にいる「男女」の考えでしかない。
そして「親」というものは「女」が「母親」になる事から始まる。
であれば「女」は「反省」しなければ経験を得られず、「子ども」に「反省」する事を伝えられない。
そして女は「許されている」筈なのだ。
男より肉体的強度に劣る。
仕事については「決断」は早い。
しかし「普通」や「常識」の枠を越えた所から「新しい物」を見つけたり「価値が無い物」に「価値を与える」という部分においては何とも言えない。
また恋愛においても受け身の立ち位置でも良い空気がある。
勿論、「女同士」で比べられれば競争があるが「男女」で比べられれば「劣っていても、受け身であっても仕方ない」で許される。
それを男女不公平だと騒ぎたいのではない。
子育てから遡って結婚、性交渉。
性犯罪を除き、お互いがお互いに男女として「許す」事をしなければ「身体」を重ねる事はない。
「許されている」という経験がある以上、「他人を許す」事だってできないわけがない。
けど出来ない。
それは前回のQ &Aにおける最後の項目の「許す」以前の問題。
自分の行動、失敗に「罪悪感」を感じていないから。
「後悔」がないから。
先述した話であるし、自分のエッセイでも何度も語っているが女は「普通」の枠から出たがらない。
「普通」を盾にして生きてきた。
「正論」に沿って生きてきた。
だから「自分は悪くない」。
だから「罪悪感」がない。
だから何か不都合があれば「仕方ない」で済ませる。
「人間同士」でトラブルが起きれば比重は違えど必ず両者に責任がある。
例えそれが9:1で相手に重い責任があって、大部分で相手が悪いとしても1割は自分に責任があり、そして1割は自分が悪い。
ならその部分について「罪悪感」を感じ、「後悔」を感じていれば良い。
そして結論として「9:1」という責任の所在が明確に結果が出ているならその責任を全うすれば「許される」のがほぼ確定している。
「罪悪感」と「後悔」、そして「許し」。
「反省」に必要な物は出揃っている筈。
それを「仕方ない」で誤魔化す。
一気に「罪悪感」と「後悔」が消し飛ぶ。
「女だから仕方ない」
自分が昔から「男だから」と言われて育ってきて罪悪感に過敏になったように「女だから」という理由で「仕方ない」と罪悪感を削がれてきた女は「謝罪」をしない。
「◯◯だから仕方なかった」という。
「◯◯だからごめんなさい」と言えない。
自分の母親は「仕方なかった」とよくいう人だ。
例えば食事。
自分がまだ子どもの頃、手の込んだ料理というものを食べた事はほとんどなかった。
所謂「おふくろの味」なんてのは一つも記憶にない。
食事は作業でしかない。苦痛でしかない。
けど家は農家で忙しいのも知ってる。
だが「忙しくて簡単な物しか作ってやれなかった」の言い訳の後に罪悪感や後悔を感じているなら「ごめんなさい」しか子どもに言えない筈だ。
その言い訳が罪悪感と後悔の「逃げ道」となり、「だから仕方なかった。」と自分に責任はない、と訴える。
母親として作っていた簡単なものばかりの料理について最初に言われたのは中学の頃だった気もする。
今ほどこんな風に言語化も出来なかったが「忙しい」のは分かっていたからその言い訳は確かに「仕方ない」のは分かっていた。
「だから何?」という話であり、それをわざわざ何故言うのか。
その後も何度か事あるごとに料理についての「仕方なかった」と言う話をされていた。
恐らく、母親が求める答えを自分が与えなかったから何度も語ったのだろう。
恐らく「女らしく」、「共感」を求めたのだろうがそれが「男女」なら別に問題ない。
だが「親子」でそれをやっちゃいけない。
「謝罪」さえしてくれたら自分だって「忙しいのは分かっていたし、仕方ないよ」と言う答えは出せた。
けれど「忙しくて仕方なかった」と先に言われて、そこから先に子ども相手に何を欲しがる?
母親が求めているのは「許し」ですらなく、「報酬」だ。
「忙しいけど料理してやった」
「だから感謝しなさい」と言う所だろう。
確かに「感謝」も教育として重要だ。
だがその「感謝」にしたって親からまともに聞いたことはない。
家庭において「やって当たり前」と言われた事が学校では「君は配慮ができる」と言われた事もあった。
褒められた、のかもしれない。
だが特別な事をしたつもりもない。
怒られるのが嫌で身についた行動であり、自分は感謝されたいと思ってやった訳ではない。
だから褒められた気はない。
むしろ、自分と社会のズレを感じてよく分からない気持ちの悪さすら覚えた。
「やって当たり前」「普通」と刷り込まれたものが決して社会にとっての「常識」とは同じではなかった。
母親が言う「普通」、「当たり前」は自分が生きる時代、環境においては全然当てはまらない。
「社会」に出るために必要な事を学ぶ「学校」であり「家庭」でもある。
だけど「家庭」でしか通用しない事を押し付けられる。
父親から貰った小遣いを母親に適当な理由をつけて取られる事も定期的にあった。
勿論、自分が悪さをしたとかではなく、「母親」の都合でしかない。
子どもの小遣いなんて高が知れている。
だけど子どもにとってその少ない額でも「お金の価値」「お金の使い方」を知るうえでも重要な事だ。
父親には小遣いを取られた事を内緒にしろ、と脅される。
父親に小遣いが足りないといえば怒られるから言えない。
けど父親は妹は「女だから」と小遣いを追加で渡し、母親は父親が妹に甘いのを知っているからか、妹からは金を取らない。
何でもかんでも「仕方ない」で自分の言葉は届かない。
あちこちに話が飛んだ。
結局、「反省」と言う事が出来ない人間の背後には「親」が「許さない」からであり、「反省」すると言う事を経験出来ない。
そして親の始まりとなる「女」が「罪悪感」と「後悔」から逃げて「謝罪」する事を拒むから。
「女」が「反省出来ない環境」、あるいは「反省しなくても良い環境」がある。
そしてその「女」を甘やかしたのは女の「父親」であり「男」である。
自分は「反省」について自分なりの答えを出した。
だけど自分は「次世代」との繋がりを持つ事は許されない。
「許された者」同士が交わり、子を産み、次世代に伝える。
「許された者」達が「反省」し、「次世代」を「許す」と言う事をしなくちゃいけない。
自分にその権利も無ければ責任もない。
親は自分の行動について「仕方ない」と言って責任から逃げちゃいけない。
だけど親は自分の子どもの行動について未熟ゆえに「仕方ない」と許さなくちゃいけない。
そしてそれで子どもが他人に迷惑をかけることになったら責任を負わなきゃいけない。大変な事だ。
それの負担を減らすために色んな分野でAIやロボットになる。
だが「謝罪」する事と「責任」を取る事はAIやロボットは出来ないし、相手が納得しない。
どんなに効率化しても最後の「許可」は人間が出す。
「子ども」が、あるいは「AI」や「ロボット」が動いて問題が起きるのも、全てその「権限」を持つ者達。
「許す」から挑戦し、行動し、問題が生まれ、改善する。
その「許し」と言うものが如何に強い力を持っているか、それを「最初から許されている者」は理解しているのか。
立ち止まって「反省」しなければ「許された自分」と言う状況への感謝と「自分が冒した罪」への謝罪は出来ない。
人間だから犠牲を出す事に「罪悪感」がある。
人間だから犠牲を出した事に「後悔」する。
だからこそ、「許し」を乞う。
そして「大人」だから「許す」ことができる。
だから他人を許せる人は「強い」。
目が痛くてスマホの画面を長時間見ていられないから日を跨ぐおかげで話がバラけてしまう。
もうちょっと上手くまとめたかった。




