許すべき言い訳、許すべきではない言い訳
「言い訳ぐらい許せ」
と前回の最後を締めたのだけど、早速訂正だ。
全ての言い訳を許す必要はない。
そしてその判断基準は言い訳を受け取る当事者の気持ち次第ではなく、別の判断基準が必要だ。
その時の気分の判断で許す、許さないの基準がブレるのは人間である以上、少なからずあるだろう。
しかし、気分そのものが基準になってはいけない。
気分そのものが基準になるとタイミング次第で白が黒になり、黒が白になる。
だから基準を気分にしていると人からナメられる。
問題があるものでも機嫌さえ良ければ許す。
問題がないのに機嫌が悪ければイチャモンをつけて許さない。
言っている事が二転三転して信用できない。
その一方でそれを逆手に取れば面倒事を擦り付ける事も難しくない。
基準は何か、といえばこれまでの罪悪感の流れの通り。
つまりは「罪」を認識しているかどうか。
そして罪を認識しているかどうかなんて他人には分からない。
「自分が罪を認識している」事を他人に伝えるのはシンプルに「謝罪」するかどうか。
この「謝罪」と「言い訳」と「許す」という事をどう繋げるのか。
結論としては「許すべき言い訳」というのは「何故自分が謝罪しているのか」という事について言及している言い訳だ。
そして「許すべきではない言い訳」というのは「自分が何故謝罪しないのか」という事についての言い訳である。
同僚、友人、恋人、家族、色々と人間関係はあるが「価値観」が全く同じ人間などいない。
どれだけ近い関係でも何処かで異なる。
何故ならどこまでいっても「他人」だから。
立場が違う、性別が違う、能力が違う、趣味が違う。
だから「同じ価値観」なんてものは存在しない。
そして価値観が異なれば出来る事も異なる。
最初に「求める物」があり、それを相手に「伝える行為」がある。
この「伝える行為」を読み解く上で自分と相手の間にズレが出れば「求める物」は返ってこない。
それは「受け手」側が勘違いする事もある。
勘違いによって求めたものとは別のものが返ってくる事がある。
一方で「発信」側が勘違いする事もある。
「受け手」の能力を勘違いして「出来るだろう」と考えて伝えたのに出来ない、という事も当然ある。
よく「人に期待しなければ良い」という極論があるがこれは発信する側と受け手側のズレを考慮した場合、どちらにも責任がある。
受け手が「出来ない理由」を言い訳すると言う事はつまり、お互いの「価値観のズレの言語化」という事になる。
それでもその「出来ない事」、「期待に沿えない事」に対して罪の意識を持ち「謝罪」したのなら「今後」を考えた時に「許す必要」がある。
勿論、「今後」がないなら謝罪を受け入れる必要はないが同時に今後は発信側としても「求める行為」もあってはならない。
その一方で「許すべきではない言い訳」とは「謝罪をしない理由」を言い訳する場合。
まず大前提として「許す」「許さない」は「交渉」の後の責任問題、「過去」の「行動」に対して行われる。
そのためその交渉の段階で「無理」と言う事が判明した場合、当然ながら「謝罪」する責任というのは「受け手」には発生していない。
しかし一度交渉で「受託」した場合、それは「責任」が発生する。
「許すべきではない言い訳」とは「交渉」して「受託」した後、「責任」がある段階では謝罪しなければならない。
謝罪したくない、責任をおいたくないなら「交渉」の段階でもっと価値観のズレを無くすようにしなければならない。
にも関わらず交渉の段階でそれをせずに受託した責任が受け手側にはある。
つまり「許すべきではない言い訳」の論点としては「求められた事ができるか出来ないか」ではなく、「交渉した時に受託したという事に責任を感じているかどうか」である。
こうして「許すべき言い訳」と「許すべきではない言い訳」を書き出したわけだが結論はシンプルで当たり前。
「普通」と言ってしまえば「普通」の事。
だが自分が納得するように言語化し、細かく語ればそれなりに長い。
それと同様に「言い訳」をするという事、「価値観のズレ」の言語化という事をお互いに理解するように言語化した場合、話は長くなる。
つまりは「面倒くさい」。
だからこそ「阿吽の呼吸」で面倒なやり取りを省いて「察する能力」を求められるのだがトータルで見た時に「交渉」の段階で価値観のズレを無くしておけば「コストパフォーマンス」としては余計なコストをかけずに済む。
最初の「交渉時」に「価値観のズレ」を確認するために時間を取るか。
全てが終わって後になって「謝罪」と「言い訳」をするか。
勿論、やって見なくちゃ分からない事もあるから「交渉時」に全てを照らし合わせる事は難しい。
しかし、だからといって交渉の段階で必要な擦り合わせをしなければコストが高くなる。
だからある程度の「予想」が重要になる。
「予想」とはつまり「未来」の話になるがそのためには「経験」が必要、「過去」が必要になる。
だから若者、未熟な者、子どもといった者の「今後」を期待するなら「許す事」が重要になる。
その許すの基準が「交渉」をして「受託」した事に「罪悪感」を感じているかどうか。
けれど「許す」事を判断する者が「気分」で決めていれば「何」が正しいか、「何を謝罪すべきなのか」が分からなくなる。
虫の居所が悪くていくら謝罪しても許さなかったり、逆に気分が良いから酷く罪悪感を抱え込んで謝罪をしたのに何の問題にも捉えなかったり。
かと思えば時間が経ってから蒸し返して恨み節を語ったり。
経験論にはなるが結局、許すかどうかを気分で決めるような人間は都合が悪い時は全て「普通」という盾で相手の反論をシャットアウトする。
この場合の「普通」には交渉相手とは別の相手を持ち出したりして「比較対象」を作る事で自分の主張を「多数派」にする事も意味する。
「普通なら許さない」
という言葉を一つクッションを置くことで自分は「多数派」にいる事を提示する。
その後に
「普通は許さないが心が広い自分は許してやる」
というスタンスを取る。
だから「自分が判断して許す、許さない事を決める」という自覚がない。
あくまで「厚意」であり、「善意」である。
それを「許される」事を選んだのはあくまで「お前」。
「自分」が望んだわけではない。「お前」が願ったから仕方なく。
だから当然「その選択をした責任を取る」事もない。
当然、その人自身が謝罪する事の意味を理解していない。
その時の「気分の良し悪し」を自覚して「判断がブレる」事について罪悪感を感じていない。
自分の判断の仕方の「自覚」がない以上、「許す理由」も「許さない理由」も言語化出来るわけがない。
だから終わった話を蒸し返す。
求める条件を後出しにする。
報酬をケチる。
「交渉」の時と「今」の「気分」が違うから。
だから「気分次第」という事は裏を返せば「どうでも良い事」だ。
だから「どうでも良い事」について「謝罪される」状況というのは基本的に「面倒臭い」という事が分かり切っているため、本質的に他人の謝罪を許さない。
どの道許さないという結論が決まっている以上、そもそも「関心がない」。
だから目先に「エサ」が出されれば食いつき、「許す」ようになる。
エサ次第で許すかどうかを決めるようになればいずれは「アイツは煽てればなんでも許す」とナメられる。
そのうちそうやって「エサ」を出される事が常態化すれば「自分に価値がある」と勘違いして更に「エサ」を釣り上げるように要求していき、やがて他の誰かに乗り換えられたりして相手にされなくなる。
結局、どう足掻こうが「謝罪」する、もしくはされる状況になるというのは「面倒臭い」のだ。
交渉時にそれを避けるために価値観を擦り合わせることを後回しにする、結果として謝罪する、あるいはされる。
そしてメンタル的な罪悪感だけでなく、立場として実際に「責任」を取らされる事になれば余計に面倒になる。
罪悪感があれば「責任を取る」という意識になるが被害者意識しかないため「責任を取らされる」という意識になり不貞腐れる。
だから「逃げる」という選択肢が生まれる。
裏を返せば「逃げる」という事が選択肢に生まれる事というのは誰にとっても「どうでもいい事」である。
排除しても問題ない。
「弱肉強食」の「自然」の摂理、「生きるか死ぬか」の道理に沿えば。
だからこそそれで逃げるという事は「獣」と「人間」の判別と言える。
「生きるか死ぬか」
という「最低限」のラインの線引きではなく人間として「普通」のラインというのはその「どうでもいい事」に対して「最低限」のラインと同じように「生きるか死ぬか」という「逃げる」という選択肢を排除する「覚悟」を持てるかどうか。
「怒り」の季節が終わる前に罪悪感でそのラインを押し上げる。
「逃げれば他の人に迷惑がかかるから踏み止まる覚悟」
もしも逃げるという選択肢をとるならば
「自分が逃げた事で生じた犠牲者より一人でも多くを救うだけの事を成し遂げる覚悟」が必要となる。
「許す」とは他人の「覚悟」を肯定する事。
「逃げ」を見逃す事ではない。




