罪悪感の感度
罪悪感の感度について4つ上げた。
「鈍感」「普通」「敏感」「過敏」。
しかし自分のエッセイでは「3分割」を一つのテーマというか、考え方でやってきている。
勿論、「選択肢」としてはそれ以上あっても問題ないというか基本的には実社会にら無数にある。
しかし区分、分け方としては3分割だ。
4を3にするには1を「削る」しかない。
そして実際に社会でも「削られる」側の感度の者達がいる。
その削られる側というのは罪悪感に「過敏」な者達である。
何を持って「削られる」とするのか、といえば「次の世代」の「受け渡し」役としてである。
基本的に「罪悪感」に鈍感ならギリギリまで踏み込めるからリターンが大きく、成功者になりやすい。
成功者になれば「モテる」だろうし、発信力もある。
一方で「普通」の人間はそれなりだ。
そして「敏感」な者は罪悪感を上手く利用する事で仕事などの成功者となるかどうかはともかく、人間として上手くやれるだろう。
では「過敏」な人間はどうか。
基本的な能力、スペック自体が変わらないとしても罪悪感を感じて踏み込めない。
全ての感度の者が同じ能力、80点を取れるポテンシャルがあるとした場合、
「鈍感な者」は罪悪感が薄いから卑怯な真似をして、例えばカンニングをしてでもバレなければ良いという精神で可能な限り自分の能力以上の点数を出そうとする。
他の人間は基本的に卑怯な事はしない。
だが鈍感な者の行いを後で知り「バレなきゃ問題ない」という理由を盾にして罪悪感が薄まる。
その薄まった罪悪感の状態で「アイツが良いなら自分も」と手を出すのが「普通を盾にする」という人間。
罪悪感が薄まっても「けど自分はしない」 といえる人間が「敏感」な人間。
けど「過敏」な奴は「やらない」とした上でさらにいらない事まで考える。
「もし万が一運良く90点とかとったら自分が疑られるかもしれない」
だから80点は取れるのに罪に問われないように敢えて「外す」。
結果、能力はあるのに実際は低い。
馬鹿みたいだけど、「バカな自分」を見せてピエロのように振る舞わないと生きていけない環境にいる。
そうやっているうちに次第に演技なのか本心なのか、あるいは本当の実力なのか、嘘の実力なのか分からなくなる。
自分の「未来」のために「上を目指す能力」と自分の「現在」を生き残るために「下に見せる能力」のダブルスタンダードを無意識に取っていく。
それが「楽」でもなければ「楽しい」わけでもない。
ただ「やらなきゃいけない」。
今生き延びなきゃ将来なんてないんだから。
その結果、
「鈍感」な者はズルをする所為で実力は上がらないが周りからの評価が上がる、もしくはバレて落ちる。
しかしどちらにしろ「時間」を別の事に当てられる。
「普通」な者は鈍感な者と同じだが、かといって「自分がズルをしてまでやりたい他の事」はない。
せっかく時間を得てもそれを活用できない。
「敏感」な者は順当に実力に加えて周りの評価も上げる。
「過敏」な者はダブルスタンダードで結果として本当の実力も現状維持がやっとであり、そして当然ながら敢えて外すなんて周りからは理解して貰えないから評価されない。
こうやって考えると周りから見れば「過敏」な者だけが周りからの評価が下がる。
例外としては「ズルがバレた人間」が過敏な者より下がるわけだが鈍感な者は「せいせいした」と大手を振って見切りをつける。
どうせここでは自分はしたい事もないし、何を言っても信用は得られない。だから別の環境で自分のしたい事をするだろう。
一方でズルがバレた「普通」の感度の人間は「アイツだってやってるのに」「なんで自分だけ」とグチグチと言い訳する。
「自分でズルをした」という自覚がなくて「周りに合わせただけ」と言う。
けれどその「皆がやっていた」と言う「証拠」がない。
そして「自分はハメられた」と言う被害者意識が生まれる。
自分がやった行動の罪悪感に耐えられないから被害者であるという事を主張して逃げる。
「子ども」のうちならやらかした事の程度によって取り返しはつかないでもないが「大人」になるとそうもいかない。
自分の心の中で「反省」だけしても「許してもらえない」。
別の環境で再スタートするのではなく、同じ環境で許してもらおうと思うなら「罰」を受けなければならない。
それは自分が見下して来た無能な「過敏」な者達のように常に何かに怯え、申し訳無さそうに生きていく事を意味する。
だから「金」を払ったりして見逃してもらおうとする。
コレの本質は「罰」自体は受けるつもりはある、解決法があるなら解決する意志はある。
けれど「罪悪感」だけは感じたくない、という話である。
「普通」という「多数派」の立場にいたからこそ、その強みと恐ろしさを体感している。
今まで馬鹿にして足蹴にしてきた連中と同じ、あるいはそれ以下に落ちぶれる事を恐る。
だから可能な限り減刑を求め、何とか自分の財産などで解決できるように頼み込む。
勿論それらは人権として保障されているものだし、場合によっては冤罪などもある。
同時に「解決方がある」ということは「反省」するしかない、という状況に追い込まれにくいという事も意味する。
。
4を3にするために「過敏」な人間が消える。
けれど1には足りない。何故なら「過敏」な者は少数派だから。
そして「失敗した普通」が次に消える。
「無能」と「下手」を打った者が消える。
残ったのは悪事が明るみにでなかった「鈍感」と「普通」、そして悪事に手を染めなかった「敏感」な者。
罪悪感に「鈍感」な者は口にする。
「社会はやった者勝ち。考えるより行動せよ」
罪悪感に「敏感」な者は口にする。
「社会には色んな人がいる。寄り添い、助け合えば社会はよくなる」
何故「口」に出すのか。
誰に「伝えている」のか。
全ては「普通」の人間に向けて。
何も口にしない、けれど数が多い「普通」の人間に向けられる。
政治家、芸能人やスポーツ選手がインタビューや対談の一部を切り抜き「名言」としてネットにはたくさん流れている。
例えば「体罰」絡みの話。
自分自身は「準備8割」で教育するのは前提である、という立場。
その教育をした上で体罰をしないといけない状況に陥ったならそれは躊躇する必要はない。
ただ、それは「準備8割」の教育の中に落とし込められなかった大人の側の落ち度であり、体罰に対して罪悪感を感じて子どもに謝罪しなければならない。
それが「責任」だ。
対しておかしな事を言っているつもりはない。
そして自分はそれを「150文字」以上の理屈があり、言語化している。
勿論、これでもまとめた方で深堀りしたり表現を変えればもっと文字数はかかる。
しかし政治家や芸能人が「体罰は必要だ」と言えばここぞとばかりに「賛成」の意を表明する。
だがそれらの多くの人が自分の「理屈」を語る事はない。
「自分の若い頃は〜」
「若者は根性がなくて」
つまりは彼らの「普通」を盾にして若者を責める。
自分が罪悪感を感じたくないから他人の罪悪感を煽って行動を支配しようとする。
前回までの話の「危機感の彼」と同様に「何も語っていない」に等しい。
「体罰」でも「モラハラ」でも何でもそれが「愛情」、それが「躾」と言うならやれば良い。
そしてその「責任」を取れば良い。
それが「相手のため」と本当に思っての行動ならできないわけがない、と言うかそれが「躾」であり、「教育」だ。
彼ら「普通」の者が欲しているのは体罰をする、モラハラをするための正当化の「口実」だ。
「あの御方がこうおっしゃっておられるのだから正しい」
何時代の何者が言ってるのか知らないが「普通」と言う概念が通用しないなら今度は「成功者」「有名人」を盾にする。
自分の考えた「理屈」の言語化に泊をつけるために有名人や芸能人の言葉を「引用」するのは良いだろう。
だが罪悪感を感じず、考えなくても良いように有名人の言葉を「使い回す」のは無責任だ。
そんな連中が語る体罰やモラハラの正当性は愛情にはなり得ない。
それで「アイツは許されているのに何故自分だけ責められる」と考えるのだろう。
そうした考え方も前回のエッセイで語ったように自分は「経験済み」だ。
それも自分の場合はそれを「子どもの時期」に「大人」に向かってやっていた。
そんな本来なら「子ども」のやることを「大人」が「若者」にやるわけだ。
「情けない」に尽きる。
成功者、有名人は行動のために罪悪感を排除する、あるいは受け入れて「理由」をつける。
理由も大抵の切り抜き動画を見ればご丁寧に語ってもいる。
ならその有名人が正当化している行動について賛同するならその理由も真似すれば良い。
けどしない。
勿論、ただコピーして同じように口に出す事はできる。
けど「真似」じゃない。
「謝罪のフリ」を「礼儀」だと教え込まれたように「理屈」が分からない。
謝罪と罪悪感を紐づけられていないように、体罰やハラスメントを正当化のする事とそれに伴う責任も紐づけられていないからだ。
「名言」ばかりに気を取られてその中身、「理屈」に目を向けない。
そちらに目を向ければ絶対に罪悪感が刺激を受ける言葉を告げている。
結局の所、行動の「理由」についての捉え方の問題だ。
都合が良ければ「正論」とされて引用される。
都合が悪ければ「言い訳」になる。
逆に言えば「言い訳」をする、と言うのは「相談」する、あるいは「議論」すると言う行為に等しい。
子どもや若者が言い訳をする、それは大人や先人に「相談」しようとしていることに他ならない。
けどソレに対して聞く耳を持たないなら「相談」も「議論」もない。
「言い訳せずにやれ!」
と言うのはカッコいいかもしれないが、カッコいいだけだ。
言い訳がない、つまりは行動に対して理由がない。
理由がない事を正当化する。
「皆そうしているから」
だから環境に左右されやすい、人に影響されやすい。
そうやって「普通」である事ばかりを気にして行動するからしたい事がない。
罪悪感に対して「過敏」な者がその無能さ故に次世代に伝える可能性が潰えて「引き継ぎ役」としての候補から消え、下手を打った「普通」の者も次世代に伝える候補
から消える。
生き残って「引き継ぎ役」になったのは悪事が明るみに出なかった「鈍感」と「普通」、そして悪事に手を染めなかった「敏感」な者。
けど、生き残った者同士で「次世代」とともに「次の時代」を生きる上で最初に消えるのは行動に対して自分なりの「理由」「理屈」を説明できない者。
行動の「責任」を取れない者。
最近は「若者の老害化」なんてのも言われているが本来ならそれこそが「若者」のあるべき姿だと自分は思う。
未熟ゆえに理由も理屈も分からない。
それを成長を通して見つけていく、言語化していく。
その過程の中で言語化のとっかかりを「言い訳」にする。
それを聞いた上で「整合性」がないなら不正解というのを叩きつければ良い。
その言い訳が「理屈」として成り立つなら応援すれば良い。
不正解を叩きつけた時にちゃんと理由があれば厳しい言葉だったとしてもモラハラにはならないだろう。
簡潔な応援だったとしても相手に不快感は与えない。
理不尽な事などない。
理屈を伝えないから理不尽で納得がつかない。
「相手が理解しないから伝えない」
それを「相手を見捨てた」と言う自覚はあるか。
その「見捨てる」と言う行動に対しての罪悪感にどう理屈をつけて正当化して言語化できるか。
他人から「見捨てられる」側に立った時、ソレは「自分が理解できないと思われている」と納得しなければならない。
それが「普通」を盾にする者が持たなければならない「普通」の覚悟。
まるで消耗品だが、消耗品がなくなったり機能しなくなれば新しいのを買う。
理由など特にない。
強いて言えば「ないから買う」のが理由だ。
だけどそこに理由があれば今後が変わる。
高級で質の良い物にアップデートするための「言い訳」、
もっと長続きさせるために使い方を変える「言い訳」、
もういっそのこと切り捨てると言う「言い訳」。
言い訳でも理由でも対して変わらない。
だが人に弁明する時はどんな理由、理屈も言い訳になる。
それが正論となるのはその他人が納得した時。
自分が変わる理由のために他人に言い訳する。
お互い様、それが「普通」。
だから「言い訳」ぐらい許せ。自分の「言い訳」を許してもらいたいなら。




