最近バズったあの動画とワードについて その2
正直猫ミームの勢いが強すぎて既に影が薄い気はする。
彼の動画は「正論パンチ」だ。
正論パンチはその正論以外の人間の神経を逆撫でする。
神経、というより自分が最近書いていたテーマの「罪悪感」といった方が近い。
「正論」という言葉に沿わない人間は「悪」である、そんな風に叩く。
自分はこの正論パンチが悪質だと思うのは、この正論パンチを行っている人間自身には「罪悪感」や「責任感」などないという事。
というより「鈍い」という事だ。
それでいて、「思考停止」で許される。
理由は「正論」だからだ。
彼は「危機感」というワードがイメージとして先行している状態であるが実際のところは「ダサい」とか「気持ち悪い」という「自分」の主観を語っているだけである。
勿論、あの「動画」だけの情報から感じられるものであり、もしかしたら何か理屈などがあるのかもしれない。
でもあの動画の内容だけでは「思考停止」で「自分の我儘」を「正論」にすり替えて他者から「攻撃」を受けず、一方的に相手を殴りつける、そんなイメージを彼に抱いた。
実際に、彼の動画に対する反論のようなコメントに対しては彼本人ではなく、他の人間から陰キャやオタク認定、レッテル張りをされる。
「正論」だから「多数」の人間がそれを正しいと思っている。
だからこそ、あの動画に反論した場合、「彼」への反論ではなく、「多数」への反論となる。
それを当人が想定済みかどうかは分からないが当人も「正論」だけでレッテル張りで赤の他人を「ダサい」「キモイ」とレッテル張りをする人間であることには変わりはない。
なら同じ土俵に上がってコチラもレッテル張りをするならハッキリ言えば「彼の言葉は信用ならない」というだけである。
話がアチコチに行くが「多数派」というのはただ「多数派」であるというだけで価値がある。
だから「理由」などない。
勿論、深堀りしていけば理由はあるのだがそれを「自覚」して「言語化」するのは「多数派」の人間がするべきである。
自分が信用できないのはその「理由」さえも「正論」というものを使っており「自分の意志」がないからだ。
彼自身の意志として感じられるのは「正論に沿わない者は侮辱していい」というもの。
この時代において、そして自分自身が性役割について嫌な感情を持っているため極力なら語りたくないが敢えて使わせてもらう。
「男らしくない男はダサい」と言う彼のやり方と言うのは「厳しい言葉」というよりも「女らしいやり方」でしかない。
「普通」や「正論」、そうした「多数派」の力を武器にしていれば罪悪感が薄れる。
そして罪悪感を感じないままでは責任感もなくなる。
「男磨きのアドバイザー」と言いつつも「女らしい」。
別に「女らしさ」自体を侮辱するつもりはない。
自分も過去に「男は女の性質を、女は男の性質、双方それぞれ手にする」というエッセイを書いた。
「選択肢を集める」という男の性質。
「集めた選択肢から必要なものを選び、不要なものを捨てる」という女の性質。
だから男として「集めた選択肢」から「取捨選択」をするというのは正しくて、彼の「正論」はそこまでは正しい。
だがそこから先、他人に向けて正論に沿わせようとする「ダサい」や「キモい」という「言葉選び」が「女らしさ」として行き過ぎている。
彼の動画に反応した筋トレ界隈の動画投稿者が私見を述べていた。
結論だけで言えば「危機感」の人と同じ「正論」だ。
罪悪感を刺激される厳しい言葉もある。
しかしそこには「ダサい」とか「キモい」という言葉はなく、自分の体験や考え方をもとに教訓を交えながらのメッセージであった。
同じ結論、同じ正論、しかし「やり方」が異なる。
体験を語る、考え方を語る、教訓を語る。
全て「個人」の考えであり、その人しか持ち得ないものだ。
過去のエピソード、辛かった事を交えて語っていたがそれは即ち、自分の中の感情を押し込めて表に出さず自分が考えたから出てくる言葉だ。
何故押し込めていたのか。
「恥ずかしい」からだ。
だから他人に打ち明ける事ができず、自分一人でどうにかするしかない。
それを悶々としながら、ウジウジと考えたから「記憶」に残っている。
そしてそれが既に解決して「過去の事」として残っているからもう「恥ずかしくない」。
少なくとも他人に打ち明けられなかった程に追い込まれていたほどに余裕のなかったあの頃と比べて。
勿論、「過去の事」とは言え恥は恥。そう好き好んでベラベラ語る必要性もない。
だが「他人」が「正論」から外れそうな時、あるいは外れている時に「他人」に「正論を説く」のであればそうした「過去の恥」を語る必要性がある。
何故なら「正論」から人が外れようとしている時は間違いなく「恥」を晒しているからだ。
「恥晒し」に正論をぶつけても「聞く耳を持たない」。
だから同じ「恥」をぶつける。
「過去の恥」、そして教訓。
「自慢」は必要ない。個人の能力、環境、状況が違う以上、何の意味もない。
だから「他人の恥」を正そうとするなら思考停止に正論パンチをしたり、「勇気」や「根性」というものの前にまず、「自分の恥」を晒して自分もダメージを負う。
同じように「恥晒し」となる。
だが「恥晒し」として「先行」する。
そして「間違い」の前に立ち塞がってから「正論」を告げ、そこから勇気や根性を語る。
それが筋トレ界隈の動画投稿者を動画を見て感じた事だが、「危機感」の彼の動画にはそれはなかった。
勿論、その動画だけであり、もしかしたら他の彼の動画などではそうした「自分の恥部」を語っているのかもしれない。
だがそれなら尚の事、理解している筈だ。
安易に他人の行動に対して「正論パンチ」などはしても意味がない。
罪悪感を刺激して余計にひきこもり兼ねない。
その上で考えれば彼のやり方というのは「罪悪感」を刺激する事に重点が置かれており、「他人を正そう」という気持ちはない。
あくまで「自分の不快感」を正常にしようというものしか感じられない。
「自分のために相手を利用する」
という意志がある、という事を前提にして彼を見た場合、彼の動画の裏には「男らしさのアドバイザー」や「情報商材」などという彼自身の「ビジネス」の気配が強くなる。
実際、「危機感」という動画で初めて彼を知った人間は多く、自分もその一人だ。
そしてビジネスとして見た場合、彼のマーケティングとしては成功といえる。
知名度が上がり、自分とは無関係の界隈でも自分の動画ネタが擦られている。
その中には彼の動画チャンネルに登録したり、商売に貢献した客もいるだろう。
それが悪いとは言わない。
だが「ビジネス」のために他人の「罪悪感」を煽る行為に対して彼自身が「罪悪感」を感じていないのを「男らしい」とするなら単なる「正当化」だ。
何故こんなに自分が罪悪感を刺激され、反論しているのかといえば「毒親」から受けてきた手法そのものであり、「女嫌い」となる上で「同世代の女」から受けてきた手法でもある。
「正論パンチ」で「罪悪感」を煽られて「焦燥感」を感じて「思考」出来なくなる。
本を読んでも読んだ先から、ものを教えられても情報が頭から抜けていく。
集中できない、気が散る。そして失敗して怒られ、また焦燥感が強くなる。
それを繰り返して最後は「どうせ自分なんか」と無気力になる。
それでも煽った彼等、彼女達には責任がない。
全てが失敗した者の「自己責任」。
全てが今よりずっと彼の言う「男らしさ」に溢れた価値観の強かった時代とそれに影響されている者達が自分に出してきた答え。
昔の考え方で今でも通用する事はある。
だが通用しない事もある。
時代や環境が異なる状況で敢えて「昔」の考え方を持ち出すならそれやはり、それなりの理屈が必要だ。
男子だからといって坊主頭にする理屈は何処にあったのか?
仕事は3年は続けなきゃいけない理由は?
「男らしさ」が強く求められた時代にあった当事者は意味が分からないが何となく「そう言われてそれが普通だったから」という事柄に対して理屈をつけて言語化していかなければ現代においてその価値は根付かない。
「言わずとも察してくれ」
「若い女の子」じゃあるまいし、そんな「情けない」事を言わないでくれ、「男らしい」なら。
仮に「若い女の子」が「男らしさ」を引き合いにしたとしても「女嫌い」の自分は無視する。
vtuberを「ただの絵」と例える人がいるように、自分は若い女の子を「ただの肉袋」と例える。
お互いに「肉袋」。
「察してくれ」と言うだけじゃホラー、あるいはスプラッターな映画に出てきそうな音の出る肉。
こちらを「見る」
こちらに主張を「伝える」
こちらの話を「聴く」。
そうした行動を取り合う事でホラースプラッター映画の肉塊の怪物がお互いに人間の輪郭を帯びていく。




