謝罪と罪悪感その2
「親ガチャ」「毒親」そうした言葉は自分のエッセイでも扱ってきた。
一応、自分なりの理屈をつけているが世間一般の解釈で言えば「他責思考」のネガティブな、そして情けない人間の発する言葉である。
ここしばらく罪悪感というものを語ってきている。
そして罪悪感の「感度」というものについて「鈍感」「普通」「敏感」「過敏」と4種類に分けた。
そしてこの罪悪感というものについての末路、というか25歳〜50歳までの「怒り」の季節から51〜75歳の「哀しみ」の季節に移行する際にどんな「責任感」を得るのか。
勿論、自分はただの田舎の農家で正確なデータなどとってエッセイに書き出しているわけではない。
無責任といえば無責任だ。
あくまで「自分がそう感じた」、「そう考えている」ということ。
この辺の言わなくて良い「前置き」ってのが実に罪悪感というものに対して自分が「過敏」なのか、一つの現れ。
話が進まない。
「毒親」「親ガチャ」、この場合「親」への不満に焦点が当たっている。
人の所為にするということだが上記の4種のパターンの罪悪感に対する感度の違いではどの感度の者が言っているのだろうか?
他責思考なんだから「鈍感」な者が言っている?
自分は「鈍感」な者だけはないと思う。
勿論、「鈍感」な者もそうした親ならば内心では親を見下しているだろうがわざわざ「鈍感」な者が口にするメリットや必要性がないからだ。
何故なら「心の底から親を見下す」というもっとも罪悪感を感じる行為を既に受け入れており、口に出すまでもないし、出した所で変わらない。
むしろ心とは裏腹に「ウチの親は良い親だ」という事の方が社会を上手く生きる上での「技術」として習得していくだろう。
何が言いたいか、といえば「毒親」「親ガチャ」というネガティブな言葉をわざわざ「口に出す」のは相応のメリット、必要性がある。
勿論、ネガティブな言葉、そしてどこまでいっても他責思考のため「全ての責任」を他人に求めるのは正当化は許されない。
ただ「切り捨てる」という行為が必要でもある。
そのためには「自分」を「納得させる必要」がある。
やり方は間違っているかもしれないが、結局のところそれも他人がどうこう言う話ではない。
整形、ダイエット、酒、タバコ、ゲーム、薬物、恋愛そして仕事。
全てに「依存」という問題がついて回る。
それを解決するには外部から「止めろ」と言われてやめられるものではない。
「自分」が「止める」と言う意志を持たない限り不可能。
そのために「口に出す」事で自分を誤魔化す。
「親は害悪である」と言う事を口にする事で自分がその環境から消える決断を下すための「必要悪」。
人身御供、生贄、といった現代的価値観とはそぐわない物だし、当時の人間だって好き好んで「私が生贄になりたい」とやってきたわけではないだろう。
「覚悟」と言う「諦め」に対して自分を納得させる行為。
それの本質が「口減らし」だとしても「尊い犠牲」と言う事にして残された者は「感謝」しなければならない。
そのために「謝罪」しなければならない。
だが「犠牲」にならない相手に対して感謝もできないし、謝罪する責任もない。
このエッセイを見ている読者でもスマホや、パソコンといった「物」に対して毎日感謝しているか?
「今日もしっかり充電してくれてありがとう」
「今日もしっかりWi-Fiをキャッチしてくれてありがとう」
自分はそんな様子を見た事ないし、やった事もない。
その「物」を作ってくれた「会社」や「人」に感謝しているか?
自分の元に届けてくれた「人」には?
「全てのものに感謝」をしていたらキリがない。それだけで1日が終わる。
だから「感謝」するための「対象」を限定する。
明確に「犠牲」になった者にのみ、「感謝」と「謝罪」をする。
だから子どもが成長するために親を「犠牲」にする。
その「罪悪感」から「感謝」と「謝罪」が生まれる。
そうした意味で罪悪感に「鈍感」な者はむしろ内心とは逆に「感謝」の言葉、「謝罪」の言葉を言うメリットと必要性があるわけだ。
そしてそれを逆に考えると「親ガチャ」「毒親」と言う言葉を口にするメリットと必要性がある「感度」の持ち主とはどれになるのか。
それは自分は「普通」の感度と「過敏」な感度の持ち主と言える。
先に「過敏」な者から語らせてもらう。
自分は自身の事を罪悪感について「過敏」なものだと認識している。
しかしあくまで罪悪感とは「感覚」であり、視覚などの器官と同じ。
必要以上に感覚が強く、上記の「全てのものに感謝」と言う事をしていたら罪悪感が許容量を超える。
だから「動けない」。
そして特にそれを感じるのが「親」。
親自身から「親に感謝しろ」「誰のおかげで生きていけると思ったいる」「子どもの成果は親の支援があったから」と自分が「納得」して「感謝」を感じる前に先手をうって自覚させる。
だから親の視線、表情、一挙一動に「罪悪感」を覚える。
そしてその動向を察知しないままでは知らない内にまた「自分の犠牲」になっている。
「感謝しなくてはならない」
「謝罪しなくてはならない」
納得いっていない。けどしなくてはならない。
しなければ訳もわからないまま「怒られる」。
訪ねても「答え」はない。
何に対して感謝しているのか、何に対して謝罪しているのか分からなくなる。
「伝える」と言う事は重要である。それは自分のエッセイでも日本人に足りないものとして語ったこともある。
だが親子の関係、語彙力も経験も、力も上回る親の方が「自分にかけられた負担」を親が全て伝えれば「子ども自身が生まれてきた意味」が分からなくなる。
それも正確ではないか。
子どもの生まれてきた意味というのが先述の「親の生贄」として自覚せざるを得ない状況に陥る。
少しずつ、だが20年前後の教育によって「生贄」の覚悟を作り上げて自分の意志を殺していく。
子どもに対しては「自発的に伝える」より、子どもからの疑問に「応える」事の方が重要だ。
けれど「自分が正しい」「私の方が頑張っている」と言う「自分が伝える権利を持ち、相手はそれを聞き入れ、察しなければいけない」という「被害者意識」が強いからそれが出来ない。
だからこそ「過敏」な者にとって「毒親」と明確に口にする。
「自分が被害者である」「親の生贄にされてきた」という意識がなければ「自分の主張」すら出来ない。
「自分が悪い」という思いのせいで「分からないことを他人に聞く」「誰かに助けてもらう」という事すら出来ない。
そして「手遅れ」になる。
その「手遅れ」という事態は「過敏」な者が望んだものであり、当事者の問題という見方は出来る。
けどそれでは「親」はそれまでの「自分の犠牲」の末、望んだものが「子どもが手遅れになる事」であるという事を認めなければならない。
「親が子どもを追い詰めた」
鈍感な人間ならそれもどこ吹く風で生きていけるかもしれないが、それを除いた大抵の人間、罪悪感に対して「普通」の人間は「後悔」する。
そこで「後悔」をして「自分が悪かった」と「謝罪」して罪悪感を感じれば救いはあるが、「生存者バイアス」で「自分があんなに頑張ってきたのに、あんな事になるなんて」と「アイツが弱いからあんな事になったんだ!」と「罪悪感」から逃れ、「自分の行動」を正当化する。
自分は「普通だ!」
その言葉が既に「鈍感」である事の証明。
「若い内」ならそれも「未熟」で済むかもしれない。
だけど50を超えてそれを正当化すれば周りから見れば「哀れ」。
50年かけて「罪悪感」という「人間の持つ感覚」を持ち得なかった、というより自ら「捨てた」。
「哀れな50代」として見られているのではない。
「哀れな獣」として見られている。
しかも最初から罪悪感に「鈍感」であったのではない。
もとは「普通」だった。
だから「挑戦」も「失敗」も、「経験」も「能力」も人並み。
「罪悪感」がない者同士で比較されれば「同じ獣」なら「優秀な獣」は優遇されるが「ただの獣」は排除される。
罪悪感について「過敏」な者について語ってきたが、途中から「普通」の者の事について語ってしまった。
とはいえ結局の所そういう事。
「普通」というものを盾にし続けて「ただの獣」として「哀しみ」の季節を迎えるくらいなら敢えて「他責思考」となり、「鈍感」となって「若さ」を武器に挑戦し続ける。
そうして「優秀な獣」になって「排除されない道」もある。
ただその道は「獣の道」である以上、「弱肉強食」。
「人間の社会」には獣は「介助犬」のように躾けられた「社会に対応した優秀な獣」か「ペット」。
「優秀な獣」にも「ペット」にも成れない「獣」は「排除」される。
「俺は頑張ってきた!」「結果も出した!」
それは「手遅れ」になった「子ども」、あるいは「若者」も同じ事。
けどそれに対してその努力や結果を自分が「察する」事を拒んだ。
だから味方がいない。
結局、この「察する」事が罪悪感に対して「敏感」な者と「過敏」な者の力。
それは同じ価値観の「仲間」に対してではなく異なる価値観の「他人」に対して。
「過敏」な者は「犠牲者」を語る存在から「感謝しろ」「謝罪しろ」と言われてきたから全てに対して反応し、過敏にならざるをえない。
だから「毒親」と口にする事で「被害者である自分」という「意志」を持つ。
「そこから抜け出したい」という「意志」を持つ。
そうやって「自分の意志」を持ってようやく「行動」でき、「挑戦」できる。
そして月日が経って「振り返り」、かつての自分が発した言葉、「愚行」に後悔と罪悪感を「自覚」する。
それには普通の人より遥かに長い時間はかかる。
「過敏」だから普通の人が流してしまう事に一つ一つの罪悪感に囚われ、「余裕」を得るまで遠い。
そしてようやく自分の意志で親に対して「謝罪」と「感謝」 ができる。
それが「過敏」だが「敏感」な人は違う。
「毒親」とわざわざ口にする必要性がない。
それは「親」が「応えてくれる」から。
厳しい、だけど「理不尽」ではない。
「何故謝る必要があるの?」と問えばそれに応えてくれる。
「何が悪かったの?」問えば原因を応えてくれる。
「どうするべきだったの?」問えば応えてくれる。
だから未熟で語彙のない子どもでも自分にできる感情を伝えるために「ありがとう」と自分の意志で口にする事ができる。
それを繰り返し徐々に子ども自身に考えさせる。
より複雑な状況で、より困難な環境で、より大量の問題に。
「子ども」の「能力」を育てるのは「子どもが自分の手で行った」という「自覚」。
結局、それがないまま年齢が大人となり、結婚し、子どもが生まれても「親」の自覚がない。
「他人から責められて自覚のないまま罪悪感を背負ってきた人間」
「他人からものを与えられてその事に対して罪悪感を自覚しないまま大人となった人間」
日本の2極化が進んでいるのは「年齢」に応じた「罪悪感」への「自覚」。
その「自覚」のため、自ら納得して「謝罪」、「感謝」が必要である。
そのために「事実」を伝える事、子どもの疑問に応える事は必要だ。
しかし「事実」を伝えず、疑問に応えないまま「謝罪」や「感謝」を求める事だけを口にする。
そんな時は「事実」の代わりに「イメージ」や「感想」だけになりがちだ。
「それって貴方の感想ですよね?」
と論破の常套句になってしまった。
しかし「貴方の◯◯の行為の所為で損失が出たから謝罪を要求する」という事実と謝罪を求める事と
「お前の所為で気分が悪い、自分の気分を害したから謝れ」というのとでは明確に違いがある。
「謝罪」をするには「罪悪感」の「自覚」が必要。
「優秀な獣」ではなく例え平凡でも「人間」になりたいなら「罪悪感」を「察する努力」と察してもらうための「伝える努力」。
重要なのはあくまで「罪悪感」。
それに対して「敏感」であろう、とすれば「事実」と「感情」の紐づけが成功し「人間」になれる。




