謝罪と罪悪感その1
今年暖冬だけどそれでも雪はあるし、雪焼けがシンドい。
「怒り」の季節における「罪悪感」を「哀しみ」の季節に「責任感」に成長させる。
そのトレーニングにおいて「感謝」と「謝罪」が重要な要素となる。
さて漢字の話になるが「感謝」と「謝罪」の両方にある「謝」の漢字。
この漢字を分けると「言」と「射」。
シンプルに言えば「謝る」とは「言う」という動作を「射つ」事と言える。
どんなイメージを持つか、といえば個人のイメージではあるが弓矢をコレから構えるのではなく、限界まで引き絞り、後は手を話して射るだけの状態。
あるいは拳銃の引き金に指をかけた状態。
剣を振り上げ、後は下ろすだけの状態。
つまり、構えはおろか、目標も見据えてあとはワンアクションて放たれる。
その放たれる物が矢や弾ではなく「言葉」。
それが「謝る」という事だと自分は思う。
それを踏まえて「感謝」と「謝罪」。
それぞれの漢字の関係性を考えていく。
まず「感謝」について。
「感じる」→何について?→「謝る事」
何故「言葉」を射出してしまったのか。
「言葉」を思わず射出してしまった「原因」が何か感じる事、そして「原因」が分かったら何故その言葉が射出されたのか考える事が「感謝」の本質だと思う。
では「謝罪」とは何か。
「謝る」→何について?→「冒した罪」
つまり、罪を冒した場合、それに反射的に口に出してしまう言葉、あるいは態度が「謝罪」の本質だと思う。
「若者は我慢が足りない」と年配の人間が語る。
このとき「我慢する事」を忍耐力、精神力と誤解している節がある。
そしてそれらのメンタル的な耐性をつけるために自分達の世代に行われてきた体罰が必要であるという答えを正当化したりする。
その中身はかつての自分達が親や教師、先輩、あるいは上司、取引先などに対して「謝罪」という物が根本的なコミュニケーションの取り方であるからだと自分は思う。
「とにもかくにも謝罪しろ、頭を下げろ」
「社会は厳しいんだ、理不尽でも頭を下げろ」
考えるより早く頭を下げ、感じ取る前に謝罪の言葉を口にしろ。
それが「躾」とされてきた。
自分がした「罪」に反射的に「謝罪」する。
それが「躾」として繰り返されれば「罪」ではなく些細な「罪悪感」を感じただけで大袈裟に「謝罪」するようになる。
何故なら反射で謝罪の言葉を言わなければ「怒られる」。
「罪」に対して「謝罪」する。
けれど「気持ちが入っていない」と言われ、何度も繰り返す事を要求する。
「罪悪感」と言うのは「感覚」だ。
何度も刺激されれば慣れて「疑問」が浮かぶ。
「気持ちが入った謝罪」とは何か?
「何回も謝罪しているのに認めてくれない」のは何故か。
そうした様々な疑問が増えていき、まとめて「何故謝らなければならないのか」と言う疑問を子どもは口にする。
「何故謝らなければならないのか」と口にすれば未熟な母親、「女」は子どもの察しの悪さに不機嫌になる。
未熟な父親、「男」は怒鳴りつけ、不機嫌な母親、「女」の姿を見て「機嫌が治るまで」の間の面倒臭さに対する怒りも混ざり、子どもが口答えした事にも罰を与える。
「何故」と問う事も許されず、理由も教えてくれない。
問えば余計に罰を与えられ、得る物はない。
だから「何故?」と問う事を止め、反射的に謝罪の言葉を口にする。
何も教えてくれない、かといって自分で考えても答えは出ない。
考えるだけ無駄である、そんな風に「躾」られてしまう。
考えるだけ無駄、それどころかその考える素振りすら「反抗的」とされてしまいかねない。
反抗するつもりはない。ただ「理由」を知りたいだけなのだ。
そしてそれを有耶無耶にするのは「考えるより行動」が正しいとする世の中に溢れる「成功者の説法」。
その成功者を真似るために自分自身に「考えるより謝る」と言い聞かせて反射的に謝る事、謝るフリだけ上手くなる。
罪に対して「反省」する事より強者に対する「ご機嫌伺い」が上手くなる。
果たしてそれは「躾」か?
「躾」とは?と調べれば「礼儀作法を教える事」というのが出て来る。
「礼儀」とは何か。
礼→社会に定められた形式の一つ。法。
儀→法を真似る事。手本。
「礼儀」とは「社会の法」を「手本」にすること。
「躾」とは親が「礼」を示し、子どもに「真似させる」事。
確かに「真似る事」はしている。
ただそれが「礼」を真似ているのか、「礼のフリ」を真似ているのか。
「悪い事をしたら謝罪する」
「助けて貰ったら感謝を伝える」
当たり前の「礼儀」で、日本人の多くは小さな頃からそう言われて育ってきた。
礼儀作法を教える事が「躾」なら、その躾をする親の「礼」を子どもが「真似る」。
「謝罪」する事だけ、「罪に対して言葉を反射的に口に出す」事だけを教え込めば「口だけ」の「礼儀作法」となる。
「謝っている体裁は整っている」というだけであり、「気持ち」はこもっていない。
「気持ちのこもった謝罪」の「礼儀作法」を教えられていないから。
先ほどと書いたので再放送になる。
子どもの冒した罪に対して親は何度も「躾」する。
「もっと気持ちを込めて謝罪しろ」
それに対して子どもは「気持ちを込めた謝罪って何?」と疑問を親に投げかける。
当たり前に出てくる疑問に逆上して親は納得するまで子どもに「謝罪」をさせ続ける。
「意味が分からないがとりあえず謝る」
なんて誰もやりたくないし、「罪」が分からない以上、「罪悪感」も持てない。
だから何度繰り返しても反省する事もなく、何より「謝罪」をしたくない、と感じる。
それは「罪」に対して「罪悪感」を感じるのとは別の「嫌悪感」である。
「罪」に対して「罪悪感」は湧かないが「謝罪」することについては「嫌悪感」がある。
「罪悪感」ではなく「謝罪をする事に対しての嫌悪感」が「罪を冒さない」という事にはなる。
「パブロフの犬」のような条件反射を刷り込ませただけであり、逆に言えば刷り込みに失敗、もしくは刷り込みが薄れれば「謝罪」する事に対して嫌悪感が薄れる。
謝罪に嫌悪感がなくなれば平然と罪を冒す。
明るみに出れば「謝罪」すれば良い。
けれどそう簡単にはいかない。
「謝罪」する事は嫌悪感の塊。トラウマだ。
長期間の間、「謝罪」をしていないからその嫌悪感を忘れる。
だが直前になって「親が納得するまで無意味に謝罪が出来るまでさせられた記憶」が蘇る。
罪悪感ではなく嫌悪感が謝罪をする事を拒絶する。
だから「金」を持ち出す。あるいは「今後の関係」を持ち出す。
「今後の関係があるのでコレで」といって金を払う。
謝っているようで謝っていない。
コレが予め「こうした問題が発生した場合、◯◯円支払う」などと契約を結んでいたならその規約に従えば良いがそうではない限り、あくまで「加害者」と「被害者」。
「今後の関係」をチラつかせる権利を持つのは本来なら「加害者側」ではなく「被害者側」である。
だから被害者は見限って「謝罪は結構、今後は二度と干渉しないでくれ」と言う権利もある。
「今後も関係を続けたいと思うなら謝罪しろ」と言う権利もある。
被害者に「謝罪を受ける気持ちがある」と言う段階でようやく「どうすれば謝罪となるのか」と言う話になり、「金ならこの金額」という交渉になる。
同時に被害者は一度謝罪を受け入れたらその後は「さらなる謝罪」を求める事は認められない。
あくまで「謝罪を受けるか否か」は「被害者」の選択肢であり、「今後の関係」をどうするかも「被害者」の選択肢。
だが一度それで納得、清算したなら「対等」になる。
一度清算した事を蒸し返し、被害者ヅラをして何度も相手の罪悪感を煽って「金銭の要求」をする事は例え過去に被害者だったとしても単なる「乞食」となる。
「過去の自分」と「今の自分」の気持ちが別物であるように「過去の他人」と「今の他人」も別物。
「加害者側」が「今後の関係」を提案すれば「被害者」の気持ちは延々と「被害者」のまま。
だから「今後の関係」については「被害者」がしっかり決め、「加害者」は罪悪感を感じ、しっかり「謝罪」しなければ「区切り」をつける事が不可能で「加害者と被害者」の関係は終わらない。
「謝罪」に「嫌悪感」が紐づけられるというのは「罪悪感」を遠ざけて「金銭」での解決を行いやすくなる。
一方で「被害者ヅラの乞食」になる人間も根っこは同じ。
被害者側にも「謝罪」に「嫌悪感」がある。
それはそうした「躾」を受けてきたのかもしれないし、過去に謝罪を受けて貰えなかったのかもしれない。
だから「謝罪」と「嫌悪感」が紐づけられて「罪悪感」を感じ取る感覚が欠如している。
「罪悪感」に鈍感だから「自分の乞食行動」にも罪悪感を感じない。
「何時までも満たされない」事を自分の問題と捉える事ができず、相手の所為にする。
だから「清算の条件に合意した」と言う「責任感」もない。
「謝罪」とは反射的なものであり、「罪悪感」も視覚や聴覚のような自身の「感覚」と言うのが自分の考え方である。
一方で「嫌悪感」とは他者からもたらされる「感情」である。
そして「責任感」も同じように「感情」である。
「謝罪」は「罪悪感」に基づく行動であるべきものであり、「罪悪感」から「責任感」になる。
だが過去の経験、多くが「親からの躾」によってこの正当な謝罪の紐づけに失敗した場合、「謝罪」が「嫌悪感」と紐づけられ、それはつまり「行動」と「感情」の間に「被害者意識」が挟まっていると言える。
「躾」 と言うものは「謝罪」の反復練習が目的ではない。
謝罪と罪悪感の紐づけ、その法則を学ぶこと。
「罪」と「罰」の連結こそが「礼」であり、それを社会で生きる上での模範、手本が「礼儀」。
その法則の習得に「躾」の本質がある。




