罪悪感その4
罪悪感は「感覚」であり、それを鋭くするには何をするべきか。
かといって考えなしにその罪悪感の感覚を鋭くし過ぎれば自分のように「過敏」に罪悪感を覚える事になる。
「過敏」では責任を発生させる事柄そのものから逃げる。
「鈍感」なら勿論責任感は育たない。
鈍感〜普通〜敏感〜過敏の間であれば「普通〜敏感」であるべきである。
鈍感な相手に対しては他人はもっと明確に罪悪感を突きつけなければならない。
過敏な相手に対しては他人はもっと罪悪感をぼかす、というより気にせずに行動できるように配慮する必要がある。
「何で鈍感な奴や過敏な奴にアレコレ考えなければならないんだ」
という人もいるだろう。
だがそうした事を語る「普通」の人自身が「喜び」の季節、つまり子どもの頃において周りの人間、特に周りの大人から時に罪悪感をぼかされ、時に突きつけられてきた。
おかげて大人となり「怒り」の季節において「普通〜敏感」の間に収まる事が出来ている。
そして「他人」に期待しないのであればそうした「鈍感」も「過敏」も切り捨てれば良い。
だが出来ない。
「鈍感」な人間は無責任だから能力以上のものに手を出して「運」が良ければ「旨い話」のおこぼれを得られる。
「過敏」な人間は他人が受ける罪悪感にも敏感だから他人が困った様子を見て見ぬふりができない。
だから「手助け」してもらえる。
「普通〜敏感」である人間は両極端の感覚の持ち主の恩恵を知らず知らず受け、そして内心は見下している。
罪悪感に限らず「自称・普通」の連中の意見はネットを探せばいくらでも出てくる。
罪悪感に鈍感な奴は能力以上のリターンを得る可能性が大きい一方で躓けばその分失う物も大きい。
一般人の手のひら返しはいつもの事。
また過敏な奴はつけいる隙があるから責任を押し付けるのに適している。
過敏な人の前で弱いフリ、被害者のフリをする、そうやって罪悪感の感覚を刺激して自分の責任をサボる。
こんな演技に引っかかって馬鹿な奴、と思っているのかもしれない。
だが罪悪感で心が張り裂けそうになるより、馬鹿と思われてもやったほうが過敏な人間からするとマシなのだ。
そうやって本来「普通〜敏感」でいた筈の人間は「多数派」「普通」という概念の盾に守られて25〜50才の「怒り」の期間を過ごせば「鈍感」になって「哀しみ」の季節を迎える。
「生粋の鈍感」ほどやみくもな挑戦はしてこなかった。
かといって「過敏」ほど人の気持ちに対して振り回されるわけでもない。
「それが普通だから。」
「それが上手い生き方だから」
それを言い訳にするたびに「怒り」の25年という期間で緩やかに罪悪感と後悔を目を背け続け、「哀しみ」に突入する時、「責任感」ではなく「鈍感」を手にする事になる。
そして「他人」に無関心になり、「仲間」以外を攻撃する排他的な存在になる。
「多数派」や「普通」というもの都合よく盾にせず、適度な鈍さで可能性に挑戦し、適度な敏感さで人に寄り添う。
そうやって「普通〜敏感」を保ち続ける事でまともな「責任感」を「哀しみ」の季節の時に手にする。
その「普通」や「多数派」という区分にいながら、それを盾にしない。
「普通」を盾にし続けた者と盾にしなかった者の25年という月日が「罪悪感」の蓄積量に差を生む。
適度な「鈍さ」が察しの悪さとなり、結果的に他人とコミュニケーションを取らざるを得なくなる。
「理解してもらえないから理解してもらえるように伝える努力をする」
結果として「今の自分」の表現力では相手に理解して貰えないから「次」に向けてより分かりやすい表現力を得ようとする。
適度な「鋭さ」が未知の事に対して察するとっかかりとなり、結果的に新たなコミュニティが開かれる。
「自分のそれまで生きた価値観と異なるから完全な理解は出来ないけれど、置き換えれば気持ちが分かる気がする」
中途半端に分かるという事が逆に罪悪感を加速させ、それを解消しようと「未知」の世界に踏み出す「理由付け」となる。
いつまでも罪悪感を抱えたままでは気持ちが悪い。
けれど実際はこうした51〜75才の価値観は「少数派」だ。
「哀しみ」の期間に入った人間が排他的になるのは「老いたから」ではない。
「罪悪感」から逃げてきたから。
「普通」を盾にし続けてきたから。
だから「このくらい察しろ」と他人に努力をさせようとする。
だから「こんな事に時間をかけても無意味だ」と他人の価値観を否定する。
「多数派」「普通」だけを備えていれば間違いない。
時代の価値観や自分の能力が変わらないならそれはそれで結構。
だが現実として価値観も能力も年単位で変化する以上、「言い訳」にしかならない。
「普通」である事に正義を見出し、それを絶対視してきたから「普通である事」に「誓い」を立ててそれを言葉にすることで「盾」にする。
だからこそ「次世代」で新たな「普通」を社会が示した時「捨てる」事が出来ない。
「普通」の盾に守られ続けた事で「鈍感」で居られた。
だからその盾の下で守られ続けた感覚が剥き出しにされれば「過敏」となって苦痛に悩まされる。
「生来の鈍感な人間」が50年かけてやみくもに挑戦し続けてきた事で技術も心も徐々に研ぎ澄まされていく。
「過敏な人間」が50年かけて感覚に伝わる刺激に慣れて「感覚の鋭さ」を維持したまま、「限度」と「対処方法」を学ぶ。
「普通の盾」に頼らなかった「普通の人」は順当に「責任感」を纏う。
「普通の盾」に頼った「普通だった人」が「鈍感」な上っ面と「過敏」な内面になる。それが所謂「老害」。
「罪悪感から逃れる事」を25年、いや50年間続けてきた。
もう「正当化」するしか方法が分からない。
「最初の一歩を踏み出す勇気」というが「勇気」が問題なのではない、「踏み出し方」が分からないのだ。
一歩間違えば「無敵の人」になる。
そういう所だけは「罪悪感」が過敏に反応する。
自分の「恥」になるからだ。
50年かけて「自分のため」の踏み出し方は分かっていても「他人のため」の踏み出し方は教わっていないのだ。
だけどそのとっかかりならいくらでもあった。
「他人」とのコミュニケーションを捨て、「同類」とのやりとりしかしてこなかった。
50年の間に人生の分岐点となるような場面で「勇気」は出してきただろう。
例えば、受験、就職、あるいはプロポーズ。
それら「喜び」と「怒り」の季節に必要とされる「勇気」と「哀しみ」の季節に必要とされる「勇気」は別物だ。
過去の勇気は失敗しても「帰る処」がある。
そして明確に成功すれば「報酬」がある。
「自分のための勇気」。
だが哀しみの季節に必要とされる「他人のため」の勇気には「帰る処」も明確な「報酬」もない。
自分が他人の「帰る処」になる。
自分が明確な「報酬」を提示する側になる。
「他人のための勇気」。
本来なら自分のような弱者ではなく「普通の50代」ならそれまでの50年でトレーニングを積む機会はある。
「親として子どもを育てる」
「先輩として後輩に指示する」
「上司として部下を指導する」
哀しみの季節に向けた備えるための機会も、道具も、方法もある。
けれど戦後直後のように「自分のため」に勇気を振り絞ることで他人の事を見て見ぬふりをしてきたからいざ50代となって「他人のため」に勇気を出せない。
「他人のため」の言語化も出来ない。
「他人のため」に行動も出来ない。
そうしたものが日本の人手不足の根幹に当たる「人材育成能力の欠如」に繋がる。
結局、「最近の若者は甘えている」という言葉自体が現代という時代が急速に変化している以上は「罪悪感」に向き合っていれば出てこない台詞だ。
そしてそうした者が「結婚」し、「子ども」を作っている。
それが「正当化」に拍車をかけている。
「正解」した者だけが次世代に子どもを残せるならそんな言葉はそもそも出てこない。
「間違えている者も子どもを残せる」
何故なら「普通の枠」以外の部分に「魅力」があるからだ。
結婚や恋愛を考えた際に年収、見た目、年齢、病気の有無、前科の有無。
就職や受験でも同じ事だが見える部分は確かに重要だ。
だが、普通の枠として前提条件として可視化されているという事は「隠す」に値する物という事でもある。
それ以外の隠す必要のない部分は「剥き出し」でそこに魅力を感じるから「普通」に至らなくても「次」にいける。
だからこそ、可視化されて「普通」という基準に至らないという事に罪悪感を感じる。
女の「剥き出し」にされている魅力を男が認める。
男の「普通」という基準を女が評価する。
だがそれが男女平等となり、お互いに「普通以上、+αの魅力」が必要としてしまった。
なら両者ともに「罪悪感」を感じてそれをお互いに「許す」必要がある。
哀しみの季節に持たなければならない「他人のための勇気」とは「他人の罪悪感を許す」事。
けど、誰も「許さない」。
裏返せばそれだけ「余裕」がない。
罪悪感を受け入れる事を否定してきた、罪悪感を感じる事自体を「悪」としてきた。
罪悪感を感じてしまえば「被害者」でいられないから。
けどきっとそれが「現代」において「普通」に生きる「上手い生き方」。
だから失敗できない、人材も育たない、挑戦も出来ない。
「罪悪感を感じる事」から逃げるからそれを肩代わりしてくれる「必要悪」を肯定せざるを得ない。
そして被害者意識を持った多数派を守るために本当の「被害者」が増えていく。
そしてだから「弱肉強食」が、「必要悪」が正当化されていく。




