責任感と罪悪感
罪悪感と似た感じで使われるのが「責任感」だ。
もしかしたら自分のエッセイの中でもそれを混同して使ってきたかもしれない。
だが今回罪悪感のエッセイを書くにあたって改めて考えた。
結局のところ、「責任感」などという「感覚」はない。
何かを選択して行動したらそこには「感覚」ではなく「責任」がある。
だが「罪悪感」という感覚は確かにある。
罪悪感のあるかないか、とは「感じ取る能力」の有る無しである。
そして他の能力と同じように感じるレベルの個人差もあるし、能力がない者もいる。
100の罪を侵しても舌を出しながら何も悪びれる事もない者もいる。
一方で罪になるかどうか微妙な行動に対して、あるいは他人が善意で行った行動にすら過剰に反応して謝罪する感覚の持ち主もいる。
責任というのは「自己責任」や「他責思考」などがあるわけだがつまり「自分」と「自分以外」に責任がある。
そして「責任逃れ」や「責任転嫁」という言葉がある。
結局のところ責任とは「他人からどう見られるか」である。
責任感がある、とはつまり「他人から良く見られたい」、あるいは「他人に馬鹿にされたくない」というものであり、矜持、誇り、あるいは拘りに近い。
果たしてそれらは「感覚」か?
自分はそれは「感覚」ではなく「意志」だと考える。
仮に「責任感」だとしても「感覚」ではなく「感情」である。
「責任感」が「感覚」ではなく「感情」であるとするならば喜怒哀楽のどの感情か?
となると「怒り」の感情である。
つまり自分のエッセイの理屈であるが25〜50歳の中で形成されていく感情であり、その「責任感」という感情が完成するのは50を超えてから。
つまり「哀しみ」の季節になって怒りと共に次のステージに辿り着ける事で完全となる感情だ。
勿論、個人差があるから若者でも責任感を持つ者、レベルが高い者はいる。
けれどそれは「若くても既に持っている人間」が特殊なのであり責任感のレベルが低くても別に馬鹿にする事ではない。
一方で「罪悪感」は感情ではなく「感覚」だ。
触覚、嗅覚、聴覚、そうした物と同列。
罪悪感は責任感のように「他人から良く見られたい」というものではない。
ただ「不快感」がある。
それは責任のように「逃れる」事も「転嫁」する事も゙出来ない。
「感情」は伝染する。
笑顔になれば相手も笑顔になる。
怒り顔になれば相手もストレスがたまる。
だが「感覚」というものは伝わらない。
「足から血が出ていて痛そう」
「外は雪が降っていて寒そう」
そんな風に「察する事」は可能だがそれを察したからといって同じように足から血が出てくる事も痛む事もない。
屋内に雪が降ってきて寒さを感じることもない。
そして「感覚」だからこそ、「子ども」でも「若くても」でも感じる事ができるし、だからこそ喜怒哀楽の「怒り」の季節に必要な感覚だ。
感覚だから「子ども」でも「若者」でも感じる事が出来る、としたが先ほども書いたように「個人差」がある。
視力が悪い、耳が悪い。
そして生まれ持ったものだけではなく変化もある。
「テレビやスマホの見過ぎで目が悪くなった」
「工場で騒音の中で働いていたら難聴になった」
そして感覚の変化の多くは一度悪化したらそこで維持する事は可能でも簡単に回復は出来ない。
「子どもは残酷」と言う。
虫の羽や脚を千切ったりして遊ぶ。
ソレに対して笑うことすらある。
だがそれを「罪悪感」として捉えれば罪悪感を感じる「感覚器官」が発達していないからとも言える。
そしてこの罪悪感に対して未発達な段階で強引に「罪悪感」を叩き込もうとすればそれが「トラウマ」となる。
一部の意地の悪い大人はよけいなお世話をして「子どもに現実を教えてやる」というがその必要はない。
何故なら子どもが大人になれば嫌でも現実を知るから。
「何故子どもにそんな事をする必要があるのか?」
と問えば「社会勉強」や「成長のため」などと言い訳するだろうが根っこはその大人が「喜び」の季節に悔いがあるからだ。
「怒り」の季節に向き合おうとしない、あるいは向き合って挫折した。
その大人自身が持て余した「怒り」の感情から逃れるための逃避行動。
成長しなければならないのは子どもにトラウマを植え付けようとした大人自身。
仮に本当にそうした行動が善意から来るものだとしても「大人」と「子ども」という立場の強弱を考えた場合、あまりにも「無責任」である。
まともな「罪悪感」を持つなら他人に、それも子どもにトラウマを植え付けるような行動は例えそれが不可抗力の事故だったとしても謝罪するのが「普通」なのだから。
子どもに現実を見せて成長させてやる、という事を「大人の責任」だと正当性があると思うその「罪悪感を感じる能力」の状態をまず改める必要がその大人にはある。
その大人の罪悪感の能力が子どもと同じように「未発達」なのか、あるいはその大人自身もまた「トラウマ」を持っているからなのか。
それは自分しか分からない。
何故なら感覚だから。
そしてその罪悪感という感覚を消すには「忘れる」しか不可能だ。
「時間の経過」で忘れる。
「慣れる」という事で忘れる。
「距離」を置く事で忘れる。
だがそれはあくまで「忘れる」であり、直面すればまたトラウマが蘇る。
だから「次に備える」のが重要である。
そして自然災害への備えと同様に
「定期的」にその「備え」を確認したり、使って動作を覚えたり。
罪悪感に対する備えとは「謝罪」であり、「感謝」だ。
「感謝」ができない人間、「謝罪」できない人間とは「罪悪感」に備えていない。
その罪悪感の代わりに「被害者意識」があるから。
何故「被害者意識」があると感謝や謝罪が出来ないかと言えばそれは謝罪するという事や感謝するべき「手助け」をで「罪悪感」を感じた。
つまり相手から「罪悪感」を叩きつけられた「被害者」だからである。
罪悪感を感じるという事、謝罪をするにしても感謝するにしてもそれは相手に「弱み」を握られたことに等しい。
「助けられた」とか「迷惑をかけた」とかではない。
極端にな話になるが「これをネタに脅される」と論理が飛躍する。
コレは自分が同じように他人を脅す「同類」か、
あるいは過去にそうやって脅された「トラウマ」を持っているか。
あるいはその両方か。
どちらにしろ「感情」ではなく「感覚」で
論理の飛躍、反射的に結論に至る。
その人の中にそれしか答えがない、だから罪悪感を感じて「感謝の言葉を伝えるべきか」「謝罪するべきか」と悩む事を通り越して被害者意識となる。
「女」的な「捨てる」性質の日本はその「選択肢のないスタートからゴールまで最速最短に至る能力」を「察する能力」としてきた。
だから「感謝や謝罪ができない人」とはある意味では「日本文化」そのものと言える。
そしてそれが「察する能力」に特化した弊害の一つでもある。
勿論この弊害は「何にでもすぐに謝罪する人間」だったりもそれだ。
一方でそのゴールにあるものが「感謝」なら「どんな些細な事にも感謝できる人間」にもなる。
違いは「他の答え」を知らないというだけ。
そして「被害者意識」があるからそれ以上答えを探そうとしない。
誰も他のゴールを「伝えてくれない」まま「大人」になってしまった。
だから「察する」能力に頼り、答えを出力してさっさとその場から逃げる。
罪悪感を早く遠ざけるために。
被害者とは色んな事が雁字搦めにこんがらがって罪悪感を感じとれない、心神喪失状態。
立ち直るには時間がかかる、だが立ち直ろうとしなければどれだけ時間をかけても被害者意識は消えない。
だからかつての自分は徹底的に憎む事を選んだ。
「憎む」事もまた「怒り」の感情に関連する行為だ。
心神喪失状態とは感情が、喜怒哀楽がない。
だが快、不快の感覚はある。
0か1か。
感覚から得た情報を二択で振り分けるのは子どもでも可能だ。
その振り分けゲームの内容が子どもの「喜び」ではなく年齢に対応する「怒り」に変わっただけ。
自分の罪悪感、自分で感じ取るしか「価値観」は作り上げられない。
一度まとめよう。
責任感→他人の視線に対する感情。だから他人の視線がなければその責任感は薄れる。
罪悪感→自分の誓いへの不快感。他人に対して新しく罪悪感を生じさせる事は可能だが、元々ある自分の罪悪感は他人に押し付ける事はできない。
払拭、忘れる事でしか無くせない、
まず快、不快の感覚である「罪悪感」が先にある。
その上で感情としての「責任感」がある。
罪悪感と責任感は近い所にあるため混同しがちだが別物。
罪悪感に対して敏感であると責任というものから過剰な罪悪感を感じとる。
だからこそ例えばそれが「仕事」などであればそれを遠ざける。
一方で罪悪感に鈍感であれば責任を背負う事に罪悪感を感じ取れない。
だから「仕事」に手をつけてこなす。
ここまで語ると「罪悪感」に対して敏感なのは悪であり、鈍感の方が良いように思うかもしれない。
だがそれは仕事を全うできれば、という前提がある。
罪悪感に鈍く、ホイホイ仕事を受けて責任を負う。
それ自体は悪くないが罪悪感を過小評価すると自分の能力を超えた仕事も深く考えずに受ける。
勿論、それは「運良く」こなす事ができればリターンは大きい。
だができなければ「逃げる」。
何故なら責任を背負う事に対して罪悪感を感じ取れないなら同じように逃げる事にも罪悪感を感じ取れないから。
そして逃げた人間の責任を背負うのは別の「誰か」である。
そして本来なら逃げた人間が背負うべき罪悪感を引き受ける人間は「自分が嫌な思いをした」という感情が残る。
だから「逃げる」事について「他人にそんな思いはさせられない」という罪悪感が生まれる。
こうした流れは親子関係だとか会社の上司と部下、あるいは男と女。そして昔ならガキ大将と舎弟にそれぞれある。
嫌な事を下に押し付ける。
それに対して下の者は不満を抱くが「いざ」という時に「上」の者が体を張る、責任を取る。
だからこそ「下」の者は「上」に不満を持ちつつも、肯定し、あるいは「憧れ」を向ける。
例えば昔の事を振り返ると「ヤクザは必要悪だった」という話があるがアレも警察などが治安維持の力として弱いという前提があっての話であり、現代にそれを当てはまるのは間違いだ。
「いざ」という時に「殿」として盾になってくれるから普段の不満も薄れる。
「いざ」という時に「殿様」気分でさっさと逃げ出す奴は「不快」だ。
だから不快感をさらに増加させるだけの「殿様」には憧れない。
現状の日本の若者は「無責任」だとか言われるが自分はそうは思わない。
「罪悪感」を敏感に感じている。
それが感覚が鋭いのか、あるいはトラウマで過敏なのかは個々の人格を見ていく必要があるが昔に比べて「戦後の被害者」としての意識から脱却しようとしているのだと思える。
そうした意味では「就職氷河期世代」というのは「継承するべきもの」が断たれたという側面ばかりが目を向けられるが「悪しき慣習」を断つ事にもなった。
あまり一括りにはしたくないが氷河期世代は「不幸」だったかもしれない。
だが氷河期世代に不幸以外の「意味」を見出すならその辺があるだろう。
責任感という感情の完成は「喜び」と「怒り」という自分自身のエピソードを完成させた後に訪れる「哀しみの季節」に現れる。
その責任感を作り上げるために必要な罪悪感という感覚は年齢と共に徐々に感覚が鋭くなる。
一度その不快感から心を守る「鈍感さ」が剥ぎ取られるという事は「皮」が剥がれ中の「肉」や「骨」が剥き出しである事と等しい。
罪悪感を「鋭く」していかなければならない。
だが必要以上に「削ぎ落とす」事は罪悪感を感じさせる責任を、そして責任を発生させる仕事そのものを遠ざける。
自分の罪悪感を他人に押し付ける事はできない。
罪悪感を他人に発生させたところで自分の罪悪感は消えない。
影帽子の如く罪悪感は自分に付き纏う。
罪悪感と責任感を混同して罪悪感の種を振り撒いた所で永遠と自分の中の罪悪感はあり続ける。
だからこそ、他人から生じた罪悪感を自分から切り離し、自分の罪悪感の処理に意識を向ける。
他人に対して不用意に罪悪感を発生させず、教訓を与えて罪悪感を相手自身の心から湧き上がるのを促進させる。
そういう人が「人の上」に立てる人であり、立つべき人。
罪悪感を感じ取る鋭い感覚を持つ人こそが責任感がある。
金を稼ぐ能力からは金を稼ぐ嗅覚を養われるが罪悪感は育たず、いずれ老いて嗅覚で感じ取った金の在処にたどり着く前に横取りされて這いつくばる。
けれど誰もそんな罪悪感を感じ取れない、無責任な獣を助けてくれない。
若いなら責任感など分からなくても良い。
ただ罪悪感を感じ取れない、そんな獣には成らないでほしい。




