罪悪感その3
雪目がシンドくてスマホ見ルノが辛い。
「罪悪感」とは生き物が生きる為に発した「音」を「心」が無視しようとした時に感じるもの。
だから暴れても大きな音が聞こえない害虫を殺しても罪悪感は生まれにくい。
だが哺乳類のようにもがき苦しむ鳴き声や暴れ回る音の大きな害獣を殺す時、例えそれに手を触れていなくても「音」が罪悪感となってまとわりつく。
結論、と改めていうことでもないが物理的に「音」さえ遠ざければ「罪悪感」もまた薄まり、消え去る。
技術の発展で消えた物の中で恐らく最も大きなものの一つは「距離」だ。
高速で動ける乗り物、遠くの人に言葉や気持ちを伝えるシステム。
隣町に行く事すら今なら車や電車など数分でいける。
しかし徒歩ではかなり時間がかかる。
だが昔の人間達はごく一部を除き、大部分はわざわざ「遠く」に行かなくてもその土地で暮らせたわけだし、異なる土地の人間に意思疎通を図る意味も必要性もなかった。
だがそれを現代では普通の人間なら簡単に移動できる。
場合によってはそれが必要ですらある。
だからこそ、様々な土地の情報を知る事で比較対象の選択肢が大量にある。
よくSNSの影響で「他人」と比較する事が不幸を感じる原因と言われたりする。
自分はSNSではそうした感覚に陥った事はない。
だが子どもの頃はいつも比較された妹に向けられる「親の甘さ」や「親の愛情」というものが自分のそれと異なるように感じていた。
だから「本来なら自分が受ける筈の親の愛情を奪われた」という感覚が「不幸」を感じさせた。
比較する者に「幸福」があり、自分にはそれがない。
結局はただそれだけ。
「相手に加算された」「自分には加算されない」
俯瞰してみれば別に自分から奪われた物はない。
プラスではないがマイナスでもない
だから「自分に幸福が与えられなかったから不幸を感じる」のではない。
「自分のものが奪われたから不幸」という感覚に近いのだと思う。
「相手にプラスされた幸福は自分の幸福だったはず」
という「根拠のない確信」。
そしてそれは「被害者意識」ともいう。
自分は「不幸」を感じるようになった、つまり「被害者意識」があるおかげで消えた感覚というものが「罪悪感」だと考えるようになった。
そしてその「不幸を感じるようになった」「罪悪感を感じなくなった」という影響を受けやすいと思われるのは別に統計やデータを取ったわけではないがイメージとしては男女で分けると「女」側であり陰陽で分けると「陽キャラ」側である。
昔の「女」というのはよほどの家柄でなければ基本的には後回しにされた存在だ。
「生まれ育った地元」しか選択肢のなかった昔では「罪悪感」を受け入れなければ女は「結婚」して貰えなかった。
そして女は結婚しなければ生きていけないからだ。
男なら売りとばされて「労働力」として働くことになっても大人になるまで生き延びさえすればある程度の地位が与えられたり、仕事の内容や能力次第では独立も可能だったという。
だが女は労働力としては男と比べて体力がない。
パソコンやスマホもない時代に並の女では男と同じようにはいかない。
だから結婚するしかなく、女は「選ばれる」側だった。
しかし移動手段が発達して行動範囲の枠が「地元の町」から「県」となり、「日本」となり「海外」まで広がった。
勿論、技術の発達とともに価値観や文化も変わってきた。
かつては「近場の男」に「選ばれる側」だった女。
「田舎」を見れば「男を立てる女」というのは珍しくもない。
ソレは現代の価値観から言えば「横暴な男」と「卑屈な女」に見える。
それは「男に頼るしかない」という「罪悪感」が「女」を卑屈にさせたのかもしれない。
だがそんな「卑屈な女」を「横暴な男」が投げ出さない。
というより「投げ出せない」。
自分の嫁を馬鹿にしたり、こき使ったりする。
だが結局一緒にいる。
見方によっては「素直じゃない爺さん」と「尽くす婆さん」というものかもしれない。
だが「罪悪感」という見方をした場合、そんな微笑ましい老夫婦ではない。
お互いに何十年と連れ添ったからやる事為すこと全ての「罪悪感」が伝えずとも伝わり、察しようとしなくても察する「阿吽の呼吸」であり、「共依存」関係だと自分は思う。
そしてそれは「遠く」に行く事ができない事によって「外界」を知らないからだ。
勿論、昔だって「世捨て人」になれば「この場所より遠く」に行けるが「戻ってくる場所」はない。「行ったら行きっぱなし」。
「時間」や「若さ」と同じで一方通行。
「戻る場所がなくなる」事に怖気づく「臆病者」かもしれない。
だが少なくとも「若さ」に踏みとどまろうとする「若作りをする者達」は同類でそれを笑う資格はない。
そして「比較対象」がないからこそ「諦観」からくる処世術であり、いうなればアダルトチルドレンと同じだ。
「そうするしか生きる術がなかった」からそれに適応するための「罪悪感」の放棄とそれを正当化するための「共依存」。
しかし、残念ながら現代は「選択肢」もある。「外界」も見えている。
「選ぶ事」が出来るという肉体と精神で環境的にも選択肢がある。
「不幸」になりたくないから「外」の比較対象と比べてより「希望通り」の方へ。
「被害者」となりたくないから「より良い選択肢」を選ぶ。
だからその選択肢を選んで不幸になるという事はつまり「自分の選択肢が間違えていた事」を認めなければならない。
だが認めたくない。
だから自分は被害者である、不幸であると訴える。
自分の間違いを認めるのは辛い。
だから自分は開き直って「ひたすら他人や環境のせい」にした。
「アレはアイツが悪い」
「コレはあの連中が悪い」
そうやって分類していって残った物、削ぎ落とされ「自分だけの間違い」をようやく認められた。
「自分の意志を押し殺した事」という罪悪感。
他でもない自分自身がトドメを刺していた。
罪悪感を認めるのが辛いのは全部の責任を押し付けられるから。
陰キャで男、「独りで静かにいたい」と思っている自分ですら自分に関連する罪悪感を受け止めるのは辛いのだ。
陽キャで女、「皆と繋がり、皆から支持されたい」と思うような人間が受け止める罪悪感は自分の感じる数十倍、数百倍だろう。
だがそれは「自分と紐づけられている罪悪感全て」を考えた時の話である。
自分自身の罪悪感は陰キャも陽キャも同じ人間、同じ日本人である以上そこまで大きな差はない。
「自分が選択して選んだ事に責任を感じる」。
そしてその選択肢を選んだ事で不幸になったら自分が「被害者」ではなく「罪」なのだ。
そしてその「罰」を受ける。
「報い」を受けさせる。
罪には罰を、仕事には報酬を。
女は男や父親から可愛がられてきた、「価値」を与えられてきた以上、今度はその報いを「返す」必要がある。
陽キャラは陰キャラを隅に追いやり、自分の価値を誇示してきたならそれを今度は周りに「還元」する必要がある。
100与えられたら100返す。
60与えられたら60返す。
与えられたものと同等、等価でいい。
「自分が悪い事をした」
「感謝を感じている」
そんな時に同等以上、高価な物を贈る。
「気にしていない」
「ついでだから」
そんな時に遠慮する。
凄くシンプルなのに、過剰な「察する能力」があらゆる状況で過剰に贈る。
だから「遠慮」ができなくなる、「期待値」が上がる。
「与えられた幸せ」に「報いる」事で「罪悪感」を『怒り」のエピソードに変えられる。
陽キャラは陰を知り大人となる。
女は男を知り母親となる。
そして陽キャラから還元された陽を受け取り陰キャラも陰陽を知り、大人となる。
そして男は女から報いられる事で父親となる。
それぞれの役割があり、負担があり、幸せがあり、不幸がある。
「察する」だけでは理解できない。
「伝える」だけでは理解されない。
両方をしなければ「罪悪感」もまた感じる事はできない。
その「察する」「伝える」には「意志」のやり取りのための「距離」を把握しなければならない。
もしも相手が「ナイフ」を突きつけてきたとしてその距離が手を伸ばせば届く距離で相手の言葉をちゃんと理解出来る人は何人居るか。
よほど肝の座った人間やその手の相手に慣れた警察官などでなければ言葉よりナイフに気を取られるだろう。
逆に例え10mも離れていれば距離を保ちながら落ち着いて会話も成立する。
そして逆も然り。
距離は近すぎても遠すぎても会話にならない。
そして両者とも動かずに距離を調整するには間に「障害」「障壁」が用いられる。
「ナイフ」という障害が意識の距離を近づけるから話よりその障害に意識が向かう。
「壁」という障壁が距離を遠ざけるから話が他人事となる。
技術の発達で人間は簡単に「障害」、「障壁」を用いる事が可能となった。
だからこそ「罪悪感」が薄れ、「被害者意識」が増長し、「報いる」をしなくなった。
ネットを断つ、SNSを止める、そうした方法を取る事で一時的な対処はできるが根本的な解決にはならない。
いくら障害、障壁があっても社会がネット、SNSを重要視している。
社会に対応して罪悪感に報いる事でしか幸福は感じられない。
罪悪感を感じないでいようとする陽キャラ、女はドンドン過激になり、やがて破滅する。
罪悪感に押しつぶされる陰キャラ、男はドンドン嫌悪感を増していずれ無関心になる。
適切な罪悪感、適切な責任感。適切な報い。
適切ならどんな罪悪感も責任感も報いも「ちょっと辛い」程度で済む。
自分は男か女か、陰か陽か。
偏らない能力を得るために「罪悪感」の「取捨選択」。
重いなら捨て、軽いなら背負う。
早いならスピードを落とし、遅いなら上げる。
罪悪感の偏りを払拭しきれないなら、他人を笑うべきではない。
そして払拭すれば他人を嘲笑できなくなる。
それがまともな罪悪感の在り方、と思う。




