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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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罪悪感その2


本来なら過去の日本、昭和の男達はこの「罪悪感を感じて欲しい」という言葉を女達に伝える必要があった。

しかしその「伝える必要性」を理解していなかった。

何故ならその「昭和以前の男達」が「伝える」までもなかった事だからだ。

昭和以前はさらに「男尊女卑」であり男が社会的に強い力を持っており、女は逆に立場が弱かった。

一方で「男は外で仕事、女は家を守る」という事から女は「家庭内」ではその立場が逆転した。

逆に言えばそれぞれに「罪悪感」を感じていた、という事だ。

「男が外で稼ぐ」事に「罪悪感」を感じるから「女は家を守る」

「女が家を守る」事に「罪悪感」を感じるから「男は外で稼ぐ」。


このバランスを崩したのが若い男を排除する事になった「戦争」とその後の「戦後」であり、そのバランスを崩したまま、「罪悪感」の代わりにそこにあるのが「被害者意識」である。

全ての始まりは「戦争」であり、「被害者」だ。

しかしその後は生き残って日本を引っ張っていく事になった「母親」が加害者となる。「罪悪感」を感じていては何もできない。戦争に消えた「男」の役目を肩代わりするためにそれは必要だった。

そんな「罪悪感」を無視しなければ成らなかった母親の犠牲になったのは「息子」が被害者。

そしてその息子が成長し、「大人の男」となり、罪悪感を払拭するために加害者として「若い女」が被害者となる。

そして「若い女」が「母親」となり加害者となるループ。


「女嫌い」のエッセイでも語ったが「女嫌い」を作る一番最初の原因とは「母親」が主犯、「父親」が共犯。

「女嫌いの男と同世代の女」は「女嫌いな男」からすると直接的に自分に害を成した目に見える加害者だが末端の存在であり、組織的な犯罪にとっての「受け子」のようなもの。

加害者であると同時に被害者でもある。


若い女は「親」や「男」から可愛がられて「罪悪感」を感じる事が少ない。

だか結婚をしていずれ「母親」になるのであれば「罪悪感」を感じてくれなければパートナーの男からすると困る。

かといって「自分が稼いでやるからそれに罪悪感を感じて家事をやれ」と直接的に言えばプロポーズが失敗するのは目に見えている。

「幸せ」になりたいから「結婚」する。

「結婚」するためには「プロポーズ」を成功させなければ話にならない。

だからプロポーズを過剰に飾り付け、「罪悪感を感じろ」という本当に伝えたい言葉を隠す。


「何もしなくていいよ」といった夫の言葉を真に受けて「罪悪感」を感じないまま本当に何もしないような女。

そんな女が親として知識も肉体的にも未熟で自分の気持ちの言語化も満足にできない「子ども」を守る事、生かす事、育てる事など不可能だ。

「何もしなくていいって向こうから言ってきたのに嘘をつかれた。」

そしてそんな「罪悪感」を感じない人間は自分の不幸は「他人の所為」だ。

「自分が何もしない事」に対して罪悪感を覚えないまま「契約」に嘘をついたパートナーに対する評価の点数を下げていく。

だから未熟なまま母親となった女は子供に「何もするな」と我慢させる。


「夫に騙された」から「自分が不幸になった」。

だから自分は「嘘をつかずに自分の気持ちに正直に伝える」という事を正当化して「自分の手を煩わせるな」「何もするな」と自分の我儘を通すために子どもを我慢させる。

そして子どもが母親に気を使って何もしないから、問題が起きない。だから「躾」をしない。

だからいざ「外」に出て問題が発生した時に「怒鳴る」「放置する」「手を上げる」という立場の「力の強弱」に頼る。

最近では妊娠中や自我もない赤ん坊の頃から「障害を持っていかどうか」を知る事も可能となった。

しかしそれ受けて「ハンデがあるから早い段階から備えさせよう」とする親と「ハンデのある子が生まれるなんて、私は何故不幸なのか」と考える親がいる。

これも結局は「罪悪感」を感じるかどうか。


そんな「罪悪感を持たない女」、そしてそんな女に「本心を伝えられない男」。

「何もしなくていいと言われたから本当に何もしない」事を正当化し、男の所為にする女。

そこには「自分がその男のプロポーズを受け入れた」という「責任感」はない。

「何もしなくていい」と言ってそのまま「罪悪感を感じない女」の「不幸な私」という様を家族として身近にいながら気づかないフリをして、あるいは本当に気づかない男も「責任感」がない。

本心を隠したまま「幸せにする」と大見得を切って、それに対して「謝罪」もないし、我慢してくれる事に「感謝」もない。

お互いに「伝えない」から「察する義理」もない。

お互いに「察しない」から「伝える必要性」もない。

「罪悪感」がないのはお互い様。


そして「罪悪感」のない大人の男女の「無責任さ」のとばっちりが「子ども」に向かう。

そして「子どもの頃から罪悪感を課せられてきた子ども」は「夢」を持つ事に「罪悪感」を覚える。

だからその子どももまた大人に成長したとき「罪悪感」から逃れる。

「夢」を持つ事が出来ないから「そこまでの道筋」を描けない。

だから「未来」について「考える」事ができない。

だから「他人」の「立場」に立って考える事も出来ない。


そうして「都合の良い言葉を真に受ける女」と「本心を語らない男」が再生産される。

それを正当化するための「嘘つきは泥棒の始まり」だとか「口ではなく手を動かせ」といった言葉や概念はいくらでも出てくる。

「正論」だ。

だが「正論」を振りかざす事にもやはり「罪悪感」を覚えなければ「脳死」でしかない。

「脳死」、つまり「思考」しないということは「本能」で行動する獣だ。

「獣」は他の存在を殺す事に「罪悪感」を覚えない。

「自然界」で生きるのにそんな事を考えてはいられない。


最近では「ヴィーガン」だとかが話題になるが「食べ物」に「罪悪感」を感じている人間はどのくらいいるのか。

正直、食べ物を目にする時、自分は考えていない。

金を出せば買える。生き物を殺した感覚がない。

ゴキブリなどの害虫を殺す事にも罪悪感は感じない。

だがネズミなどが「ネズミ取り」に引っかかり、そこから抜け出そうともがいていたり、鳴き声を上げているのをみると「罪悪感」を覚える。

そのネズミ取りを処分するために袋などに入れて視界から消しても「鳴き声」と「暴れる音」が耳に残る。

ネズミに愛着はないし、嫌悪感の方が強い。

だがそんな相手でも「罪悪感」を感じ、後に引く。

肉でも魚でも「死体」をいくら切り裂いた所で罪悪感は感じない。

「生きた相手」が出した断末魔や助けを求める声、「生きる為に発した音」を伝える事、それを「無視」しようとする「人の心」に罪悪感を掻き立てる。

「罪悪感」が獣を人間に変える。

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