罪悪感その1.
ぶつ切り
以前、女嫌いのエッセイのどこかで少しネタにしたが
「自分がたくさん稼いで、苦労をさせません。貴方を幸せにします」
と言う古臭い昭和の恋愛ドラマのプロポーズのような男から女に向けた台詞。
あのエッセイではその台詞というものは男が自分に課した「誓いの言葉」である。
その誓いの言葉を未熟な女は「契約」として捉えて女自身が「幸せになる努力」も「満足して今が幸せ」だと納得する事もしない。
「幸せは与えられるもの」として女が捉える事で永遠に幸せになる事は出来ず、それどころかその幸せになれない事を相手のせいにして「男」を攻撃し、そのうち諦めてパートナーの男から鞍替えして「子供」から奪うようになる。
「若い女であり続けようとする未熟な女」の行く末を語る上で一つの例え話として出した台詞だった。
しかしプロポーズに限らず、この誓いの言葉を相手に向けて伝える時、同時に「察してほしい」事がある。
例えばだが「自分は今からダイエットする」と決意を表明するのは誓いの言葉だが、それを友人や恋人、親の前でいう場合、何を「察してほしい」と思って口にするのだろうか。
例えば
・自分の前でケーキやチョコなど甘いものを食べて誘惑しないで欲しい。
・自分のダイエットが終わるまで外食に誘ったりしないで欲しい。
他にも何らかの「察して欲しい」ものが誓いの言葉の裏側にある筈だ。
そして昭和の恋愛ドラマにでも出てきそうなプロポーズの台詞の裏側にある「察してほしい」所を言う側の男ではなく、とある女vtuberが明確に口にしていたのを切り抜き動画で見た。
事の発端はその女Vの配信で自分に対して向けられたガチ恋、あるいはネタか分からないがリスナーからの「結婚したい」と言うコメントを拾って深掘りしたのが始まりだ。
その女Vは大手事務所でvtuber以外に歌手としても活動していて、日常生活が乱れがちなvtuber界隈にいながら家事もしっかりこなせる。
「成熟した女」の基準としてあげた「自分で幸せを得られる人間」であると言ってもいい。
そんな「成熟した人間」故に結婚には「結婚する事」というステータスしかメリットを感じられない。
「成熟した人間」ではあっても「母親にはなりたくない」。
それは現代において一つの選択であるため未熟さには直結しない。
少なくとも「結婚して相手に養ってもらう」というのが前提の人間と比べてはまともだ。
だからこそ、コメントされた「自分がリスナーと結婚」と仮定した場合において昔の恋愛ドラマのプロポーズをした「男」と同様の立場から結婚を見ている。
そのため「自分が稼ぐし、家事も自分がやるから相手は結婚したら仕事を辞めても良い。家の事も何もしなくて良い」と発言した。
ここまででは昭和の恋愛ドラマの男の台詞と大差がない。
この言葉そのものは「誓い」でしかなく、「古い価値観」でしかない。
だがその女Vはさらに言葉を続けた。
「ただし、そんなヒモ男かペットみたいな生活を受け入れてなんの『罪悪感』も感じないのであれば結婚しても良いんじゃないか」
この言葉は「誓い」に属する言葉ではない。
相手に求める「察して欲しい言葉」である。
この女Vは「仮定の話」をしたが、本心としては現状は結婚する気はない。
それ故に飾り付けられた「誓い」の言葉の「裏側」を隠すつもりもない。だからその全容を曝け出した。
「自分の手で幸せを手にいれる事ができる成熟した女」
だからこそ「自分が結婚したなら」という「架空の未来」を想像できる。
それは「夢」を持ち、それに向けて「どうすれば実現できるのか」という道筋を組み上げる事ができるからだ。
そして「他人」の立場に立つ事で「自分」を見つめる事ができる。
「何でもしてあげるから何もしなくていい」という昭和的なプロポーズに対して「もしも自分がされたなら」を考える。
「何もしなくても良いと相手が言っている」だから「自分は何もしなくていい」のは確かにそうだ。
相手が言っているのだから。
だがそれは「ビジネス」的な考え方だ。
「ビジネス」としてやり取りするのであればちゃんと言わなかった相手が悪い。
だがプロポーズとは「ビジネスの取り引き相手になる行為」ではなく「家族」になる行為だ。
仮に自分が好きな男からそうプロポーズされたなら「何もしない事」に「罪悪感」を感じてしまう。
結婚する気がない女Vが俯瞰となって見つめ、曝け出したプロポーズの裏側にある「罪悪感を感じろ」こそが昭和の恋愛ドラマのプロポーズを発した男達からプロポーズを受ける女達へ向けられた言葉の裏側にある「察して欲しい事」だと自分は思う。




