自作小説の主人公の「技」について その4
二次創作というものは最初から「目的」や「設定」はある程度は原作から引っ張る事で理由付けできる。
オリジナルでは当然ながらそれを自分で描く必要がある。
自作小説でも「夢」があれば「目的」を描くのも容易いだろうが自分にはない。
ファンタジー世界においてであったとしても「最低限」の「生きるため」なら「最強ヒーロー」にならずとも食っていける。
そんな思考の人間に「強くなるための理由付け」を持たせるにはそれだけの理由が無くてはならない。
「強くなる必要性がある」
その必要性のためにゼロ魔SSで「魔闘技」という設定を作った。
しかしゼロ魔の世界では「魔法」が絶対的である。
そのためそれを脅かす「科学」などは異端視されている、という世界観。
勿論、様々な科学が「研究」こそされるもののその多くの成果は一般人の生活向上に役立てられる事はなく、その成果を封印して忘却されてしまったり、もしくは上流階級の一握りの人間が私腹を肥やすだけに使われる。
勿論、魔法技術も同じである。
「国のため」、「国民のため」、「自分の研究欲を満たす為」、様々な理由で新技術の研究、開発に力を注ぐが結局のところは上層部の保身の為、貴族という社会のシステムを壊さないように殆どの新しい魔法やその運用方法が凍結される。
そうした理屈があるから自分のゼロ魔SSにおける「魔闘技」という技術も「仲間」にしか伝えていなかった。
その世界において満を持して「魔闘技」を一般公開した時には既に主人公とその仲間は「技」から超越した「魔人」となっており、主人公サイドとしては「過去の技術」として魔闘技は存在した。
「魔人」とは即ち、原作において指標となった魔法使いの4段階のランクから逸脱した存在。
「魔闘技」はあくまで「杖無しで魔法を使える」だけ。
魔法には「杖」の他に「呪文の詠唱」が必要となる。
「魔闘技」を「スマホ」とした。
それ一つあれば様々な事が出来る。
だが結局のところ「入力」しなければならない。
「キーワード検索」、「コマンド入力」、「プログラムの起動」。
「言語化」したり、選出された選択肢から「選ぶ」。
「オフ」から「オン」にするために必要な事は3つ。
「杖」という「物質」的な要素。
「呪文」という「言語」的な要素。
そして「意思」。
「魔闘技」とは「意思」に「物質」を紐づける事。
そしてさらに魔闘技から進んだ「魔人」になるという事は「言語」を「意思」に紐づける事。
自分の「意思」が最速、最短で「言葉」を選び「身体」から射出する。
感情が行動に直結する、即ち「赤ん坊」のようであり、「老人」のようでもある。
「喜」と「楽」が直結して「怒」と「哀」が抜け落ちる。
いずれは「魔闘技」は節目そのものとなる。
そして何度目かの「土用」を迎えて魔闘技は「死」を迎える。
そのため主人公が修行する対象が「魔闘技」から「魔人」となった時点で「魔闘技」は主人公の中で死に、過去のものとなる。
ゼロ魔の世界は4属性で4段階。
それとは別に始祖と極一部の人間にしか使えない「伝説の魔法」がある。
恐らく4つの属性の概念自体は西洋の四元素に絡めているのだろうが東洋の五行説に当てはめると土用に「伝説の魔法」が当てはまる。
「起承転結」、「喜怒哀楽」、「春夏秋冬」。
「魔闘技」という「物語」を4つの章で構成する。
「杖無しで魔法を使う」→「魔闘技」という新しい技術の概念の確立
「より強い魔法をより燃費を抑えて使えるようにする」→技術の強度、効率化。
「多重詠唱や詠唱省略できるようにする」→技術の応用、転用。
「魔法を自在に操る。」→技術の完成。次の段階である「魔人」へ。
結局のところ、この「魔闘技」の物語を書いたところで満足したから二次創作続けられなかったし、恐らくその後に書いたオリジナル小説も同じ事。
「物語」の変化とともに「技術」を変化を書きたかった。
けど「物語の序盤」に「技術」を完成させてしまった。
だから「仲間」が「主人公」と「ヒロイン」しか存在しない。
「魔人となった今、今更その魔闘技程度の習得で自分達が脅かされる事はない」という考えと「今なら技術的に停滞している世界観を構築している宗教や政治に対して武力で跳ね除ける事ができる」という考えから「田舎貴族の偏屈者」から「改革者」として転身する意味合いの「独占技術の公開」であった。
この手の「新技術の力でねじ伏せる」類の話については「昔」からフィクションだけではなく現実社会でも存在しているし、何なら「多くを語らず、実力を示す」というヒーロー的な在り方として好まれてすらいる。
自分もかつてはそうしたヒーロー像に「憧れ」を持った事もある。
そしてこうした成り上がり方を「唯一の正しいもの」として解釈した結果が現代社会における事と同様に結局「伝える能力」が消失に繋がると感じている。
「意思」と「言葉」と「身体」、全ての統合する事が目的ではあるがそれは「自分」にのみ当てはまる。
旧来の価値観にしがみつく者、それが正しいと思う者を蔑ろにする。
自己投影した主人公として活躍させたい、という思いは自分の「弱者」としての過去を払拭して現実逃避のために主人公に「強者」の姿を形作らせる。
そして強者として争いを始めるという事は「弱者」を作るという事だ。
そこに他人を蹴落としてでもどうしても叶えたい「夢」があれば無視出来るのだろうが、自分にはない。
ゼロ魔SSを書いていた時は「ヒロイン」を探すという目的と、その目的の障害となる「宗教」や「政治」に打ち勝つための「魔闘技」という力。
だがオリジナルの小説に゙なるとその目的はなくなる。
あくまで自己投影したキャラが自分の作品の主人公なのだ。
だから「新しい力を持った強者」によって蹴散らされる「古い力に゙縋る弱者」が気になってしかたない。
強者の踏み台にされる者、普通という言葉に振り回される者、多数派と違うというだけで馬鹿にされる者。そうした「弱者」は自分自身でもある。
「強者」となりたい、というのは嘘ではない。
だが「弱者」の気持ちが分かるからどうしても弱者が救われるように意識を向けてしまう。
本筋の話が先に進まない。
最初から「伝える意思」がないなら良いのだろうが「伝える意思」を持ってしまう。
「◯◯:side」と外伝を挟み、強者の振る舞いに振り回される弱者が救われるエピソードを描かなければ弱者として存在している現実の自分が架空の自分に殺される。
「最新」という武器を掲げて「旧来」の物を問答無用で斬り捨てれば歪みがでる。
「旧来」の社会で弱者だった自分がいる。
だから「最新」の社会で強者として成り上がる。
そこまではいいとしても「強者」がいれば「弱者」も出来上がる。
「弱者で居たくなかった」
その気持ちこそが主人公を「強者」に押し上げる。
だからこそ物語の中で立場が違っても「弱者」は仲間でもある。
しかもその弱者というのは主人公の武器「最新」の力で「旧来」の力を蹴散らした事で生まれた、主人公が「生み出した存在」だ。
単純な「戦闘」の勝負の結果として生まれる「強者」と「弱者」ならともかく、ゼロ魔SSにおける「新旧」の価値観のそれは「貴族」や「社会」という世界観の崩壊へ繋がる。
「原作崩壊」という事に「罪悪感」と「後悔」が脳裏をよぎる。
その後悔と罪悪感から逃れるためにオリジナル小説を書き始める。
だが結局同じだ。
「主人公」と「ヒロイン」しかいない。
「弱み」を見せられないから「仲間」が増えない。
だから「自分達」で「魔闘技」の開発、改良を進めていく。
序盤の街でスキルレベルを上げきってしまう。
だから安心感がある。そして伸び代は消え、一か八かの冒険は出来なくなる。
安心安全な旅。それはもう旅行でしかない。
価値観の異なる「他者」を蔑ろにしていけば「伝える能力」が衰え、自分と同じ価値観を有する仲間以外への「察する能力」も衰えていく。
「魔人」として「意思」と「言葉」と「身体」が噛み合い、時代の流れに乗り続ける事が出来れば、「生涯現役」で最前線に立ち続けられるのであればそれも有りだ。
しかし「意思」に反して「身体」は錆びつく。
時代遅れの「言葉」を使う。
老化してドンドン「魔人」としての綻びが見え始める。
そうなった時、魔人は時代を自分の動きに留めようと足を引っ張る「悪魔」に変わる。
「魔物を倒すヒーロー」が旅をするから「冒険譚」となる。
しかし「現地のルールを無視するお客様」は「侵略行為」だ。
「ヒーロー」として冒険譚を描くつもりはあっても「お客様気分」で侵略行為を描きたくはない。
「魔人」になるつもりはあっても「悪魔」になるつもりはない。
そうやって考えていくと「魔闘技」とは物語の進行に合わせなければならない。
主人公に予め備えさせて「強み」にしてはいけない。
「弱み」を冒険の中でその都度発見して「克服」していく事が自分が設定すべきだった「魔闘技」という主人公の技。
行き着く先の「魔人」とは物語の途中で到達してはならない。
魔人になった後はその力を強者として思いのままに振るえば弱者を生み、やがて「悪魔」と成り果てる。
主人公が作品の中で鍛え続けた技術が魔人となり、技術の役目を終える。
人から魔人への道筋、それが「作品」となる。
「魔闘技」の小説を最後まで書きたかったが、自分の中で自己完結させてしまった。
代わりに今度は「人から魔人」になるのとは逆、「魔物」を見るようになった。
それまでの自分の作品においては主人公に「狩られる側」の存在。
「強者」から「弱者」の立場になる。
「主人公」が「人」から「魔物」になった。




