自作小説の主人公の「技」について その3
最終的に「魔闘技」というものはそれの常態化。
「魔人」という自身そのものを「魔闘技」と融合化するのが最終目的、言い換えれば魔人となるのが技を超えた「夢」だ。
自分の場合、二次創作を書いていた時は「目的」が存在していてあくまでも「魔闘技」とは「技」であり、道具に過ぎなかった。
それは「魔人」となっても変わらない。
あくまで目的達成のために必要だというだけに゙過ぎなかった。
ところがこれがオリジナル小説となり「手段と目的」が入れ替わり、そしてそれに気付かなかった。
「魔人」に゙なる事、「魔闘技」を描く事が目的となった。
そのための手段に「異世界転生」などを描く。
ということは魔闘技の設定を生み出したゼロ魔の世界観となる「杖が無ければ魔法が使えない」という設定に近い何らかの理由がなければ説得力がない。
ゼロ魔の世界観は「杖」そのものが「信仰」「権威」「貴族」の象徴であり、「杖を持つこと」に単なる「道具」以上の意味があった。
それはつまり「杖」に「心」があったという事になる。
二次創作での主人公はあくまでも別の「目的」があり、「貴族」である事には「魔法使い」以上の意味がない。
転生前は格闘家という事で「強さ」の象徴としても「杖」以外の別の物が既にあった。
「信仰」という意味でも神のために身を捨てる事は出来ないが「ヒロイン」のために捨て身の覚悟を取れるキャラとして主人公を作った。
「杖」に主人公の心は向けられていない。
だから信仰や権威、貴族といった様々な要素を備えている杖を「杖を持たない」という選択を取らせる事が出来た。
この「杖を持たない」という事は現代に置き換えるなら「スマホ」等の電子機器を持たない事や「インターネット」に触れない事に等しい。
もっと正確には「現実社会」と「ネット社会」を分ける事と言える。
10年前、20年前ならまだしも現代において様々なものがスマホに紐づけられている。
「お金」関係は勿論、「情報」、「娯楽」。
そうした様々なものが紐づけられて便利である一方でそれに依存する問題もある。
何故「依存」するのか。
スマホやパソコン、インターネットを介して「人間」と繋がれるからだ。
単なる「計算機」を発展させたものでしかなかったコンピュータだ。
だがそれがこれほど身近になったのはその「計算機」を通じて向かうにいる「人間」と繋がる事ができる。
逆に言えばその「人間」に価値を見出さなければ現代のスマホ、SNS依存は断ち切る事は可能だと思う。
そして様々なものが紐づけられて便利になっているが現時点では「人間」そのものを紐づけられる事は出来ていない。
機械と人間が紐づけられるものの一端としては先天的、後天的な理由から不自由な身体を義手義足など人工の物に置き換えたりもされている。
マイクロチップを人体に埋め込む手術なども行われているようだ。
そうした物理的な利便性の向上の先にあるのは今のスマホが担っている精神的な利便性の「依存」である。
精神的な利便性、つまり感情のコントロールだ。
気分の落ち込み、逆に過剰な興奮、劣等感、怒り。
それを機械がコントロールしてくれたらどれ程「楽」か。
「我慢」を「我慢」として考える事もない。
「不幸」を「不幸」と考える事もない。
「些細なこと」を「幸せ」としてコスパ良く生きられる。
「大きなショック」に心を揺さぶられる事なく冷静でいられる。
コレらは「宗教」や武道などの「道」の修行の先に得られる物として存在していた。
その「悟り」を手軽に得る事が出来るようになる。
しかしスマホより以前はそのような依存はなかったのか、といえばそんな筈はない。
スマホ、SNS依存とはつまり「人間」への依存、「他者」への依存である。
日本人は宗教には無頓着故に「宗教的」という言葉をネガティブな意味として使うが一方で武道、書道という一般的なものから仕事の業種、職種、あるいは製品などの名前をつけて「◯◯道」としたりするが大抵の場合、宗教地味ている事には変わりない。
日本における「依存症」をポジティブに捉えた時に「◯◯道」とされ、ネガティブなや捉えた時に「宗教的」と言われる。
リターンがあれば「道」であり、搾取されれば「宗教的」。
スマホ、SNSに依存していようがそこに見返りがあれば「SNS道」であり、搾取されるだけであれば「SNS宗教」と言える。
そんな「宗教」であるが、昔から神事、祭事、イベント、あの類のものが何故連綿と受け継がれてきた。
「宗教」をネガティブに捉える日本人が何故それらを受け継いできたのか。
SNSと同じように「人間」同士が結びつくからだ。
そして主にそれらは「陽キャラ」と言われる存在が率先する。
そしてSNS依存の人間はそのSNSやインターネットでどう振る舞うだろうか。
現実の自分自身がどのような人間であってもそのSNSという場では「スポットライトを浴びて輝く陽キャラ」となろうとする筈だ。
何故そんな必要があるのか。
「自分が価値のある存在だ」とチヤホヤされたい、承認欲求からだろう。
だがそれは逆の見方をすると「他人」に「価値」を見出しているからだ。
友人や恋人、家族という「近い存在」以外の「赤の他人」にも自分が価値を見出している。
「人間」に価値を見出しているから「赤の他人」から価値を得ようとする。
例えばだが友人が10ポイント、恋人が100ポイント、家族が50ポイント、赤の他人が1ポイント。
友人1人を作るのと赤の他人10人に認知されるのが同程度の価値がある。
友人5人分と家族1人、家族2人と恋人1人。
そうして同じ「人間」として平等に価値を見出している。
何故そんなふうに換算出来るのか。
「人間」として扱われてきたから「人間」に価値を見出す。
「人間」とは価値のある存在、「人間」として扱われてきた自分の正当化だ。
逆に言えば自分のような人間は「SNS」などに依存はしない。
「人間」に価値を感じない。人間が嫌いで人間をネガティブに捉えている。
「人間」に価値を感じないからイベント、祭り事も嫌いだ。
自分が価値を感じているのは「自分を大切にしてくれた人」「自分を救ってくれたもの」だけだ。
自分からイベントや祭りに行く事はない。
人間と繋がろうとすることに意味を感じられないからだ。
だが「自分を大切にしてくれた人」「自分を救ってくれたもの」はそこにあるだけで価値がある。
所謂「トロッコ問題」に似ている。
トロッコが迫る「世界的な知名度の有名人」と「親友1人」、どちらかが死なずに済むボタンがあるなら自分は親友1人を救う。
「世界的な知名度の有名人」が何故有名なのかという理由にもよるが基本的に有名だろうがなんだろうが「赤の他人」である以上は自分が価値を感じない「人間」という存在でしかない。
「ゴキブリ」よりは「カブト虫」の方が好きだ。
だからといってカブト虫に特別な思い入れがあるわけでもない。
「赤の他人」である以上、有名人だとしても「ゴキブリよりカブト虫」程度の興味しか向けられない。
自分が作り上げた「魔闘技」という設定は現代でいうところの「スマホ」だ。
「杖」という古から伝わる現実世界の文化、祭事に相当する。
同じように「人間」が使う。
しかし「古き祭り」とそれに価値を見いだす「人間」に対し、 自分が創り出し、自己投影した「主人公」は価値を感じていない。
主人公が価値を感じる存在とは「ヒロイン」、そして主人公の「魔闘技」を認めた「価値観を共有」できるヒロイン以外の「大切な人」。
「魔闘技」とは二次創作小説で主人公を活躍させるために創り出した「技術」であると同時に新たに生まれた「新しい場所」でもある。
仮に主人公に「俺TUEEE!」させたいだけならば原作の中の技術だけで十分だった。
わざわざ「転生前の格闘技」と「転生後の魔法」の融合をさせるという面倒な事をする必要もない。
何故それが必要だったのか。
「過去」と「現在」の融合。
「ヒロイン」に求めたものと本質的には同じだ。
「過去の選択の肯定」と「現在の行動の後押し」。
「新技術」を生み出す事を通じて「ヒロイン以外の主人公にとって大切な人々」を描く事が「魔闘技」という原作にはないオリジナル技術を作り出す意味だったと言える。




