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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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自作小説の主人公の「技」について その2

ゼロ魔SSで「魔闘技」という技を主人公の技としてその後のオリジナル小説にも多用していった。

「格闘家」という設定の主人公と魔法を組み合わせるために創り出した物だったために武器や装備の類は必要としなかった。

というより杖という魔法使いにとっての武器を無くした時の「備え」から創り出した設定なので「素手」なのは当たり前だった。


魔闘技という設定そのものは突き詰めるとそれ自体は「通常攻撃」となる。

「杖がなければ魔法を唱えられない世界」において「杖無しでも魔法を唱えられる技術」というだけ。

つまり「便利かどうか」である。

パソコン、スマホ、家電、様々なものが便利になった社会だがそれも「便利かどうか」で自然淘汰が行われてきたわけだ。

書籍として実物を持っていなければ読めなかったものが電子書籍としてスマホ1つもっていればいくらでも読める。

書籍については紙に拘る人もまだまだいるが映像や音楽などはあえてDVDやCDなどを購入する人は明らかに少なくなった。

不必要な物は捨て「より軽く」「より便利に」。

それと魔闘技は同じ理屈だ。


とはいえやはり「ロマン」がない。

「便利さ」「備え」として生み出した魔闘技という設定は「杖がなければ魔法は使えない世界」において「杖無しで魔法が撃てる技術」の開発でしかない。

言い換えれば紙の本で読むか電子書籍としてスマホやタブレット等で読むか。

本の内容そのものは変わらない。

だが「拘り」や「ロマン」は違う。


あくまで自分のゼロ魔SSの主人公の目的は「ヒロインと結ばれる事」であり、そのためには「強くなる必要性」がある。

「目的」のための「必要性」。

そして「必要性」から考案した「手段」として生まれたもの。

つまり「道具」でしかない。

コレが「強くなる事」が目的なら「手段」をより洗練すること、研究する事に向けられる。

それは技術そのものの改良となっていく。

「より簡単に」

「より速く」

「より安定性を」

この技術が洗練が進めると無駄が削ぎ落とされ、非常に効率的に先駆者の「後追い」が出来る。

しかし創始者、先駆者が10年かけた事を1年で習得できる程に技術が洗練されたとしてもそれだけでは永遠に「先駆者」に゙はなれない。


60点になるのは誰でも出来る。

80点も頑張れば誰でも出来る。

だがその81点から先は「拘り」「ロマン」「信仰」の類、「夢」を持たなければどうやっても辿り着けない。

「魔闘技」という設定を「誰でもできる技術」としてしまった。

だから80点という「通過点」でしかないのだ。


「魔闘技」の習得条件を「魔法とともに身体を鍛え上げる事」にしたために「仲間」もまた強くし過ぎたわけだが、これは当に「田舎化」と同じ辿り方だ。

物語を「ほのぼの日常」に切り替えるならまだしも「冒険」を主軸として書き続けるためには敵とコチラの戦闘力が均衡していなければならず結果としてインフレさせていくしか道がなく、際限がない。


オリジナル小説でも「魔闘技」を流用した弊害は大きく、「強くなる」モチベーション維持のための要素が減ったのだ。

「魔闘技」の設定が強すぎた。

「強くなる」要素として「身体を鍛える」事に゙のみ意識が向かった。

つまり「主人公キャラ」自身にしか意識が向かわないのだ。

「装備」や「必殺技」「仲間」といったRPGなどなら当たり前にある「強くなる要素」を必要とせずに強くなる。


RPGに限らず、様々なゲームでもダンジョンなどの「ギミック」がある筈だ。

謎解きが必要だったり、必要なアイテム、そうしたものに違和感を覚えた人もいる筈だ。

「地形を破壊出来る程の強い力を持つ勇者達が鍵がかかっただけのドアをこじ開ける事ができない」

「ほんの少し無茶をすれば遠回りをせずにショートカットできるのに律儀に道に従って進まなければならない」

映画やアニメなどなら強引にこじ開けたり、無茶なやり方で進むのは当たり前。

だがゲームではどんなにレベルを上げても無理なものは無理。

イベントやアイテムなど何かのフラグを立てなければならない。

何故なら「ゴリ押し」では「つまらない」からだ。


自分の「魔闘技」という設定と「一次ステータス重視」というそれはその「ゴリ押し」と「つまらない」方向に゙簡単に向かわせる。

ゲームなら「謎解き」や「イベント」をこなす必要があるという「不自由さ」を「強化された能力」で強引にぶち壊す。

かといってそれができるだけの力を持ちながら素直に謎解きをこなすのはあまりにお行儀が良く、「ナメてる感じ」出てしまう。

そのゴリ押しの力が通用しないような特殊な「枷」、「魔法」や「肉体」の強さとは別のベクトルの「枷」を敷くと説得力は生まれるには生まれるがそれを多用すると一向に主人公の強みは発揮されず活躍できずに飼い殺しとなる。


戦力を拮抗している状態、あるいは味方側が劣勢、そこからの逆転劇などがやはり「読者」としては見ていて面白いし、そんな作品を書きたい。

だが自分の小説の主人公はあぐまで自己投影した「自分」。

「ハラハラドキドキ」は他人事だから楽しめる。

自分の身に降りかかる事ならばトラブルを未然に防ぎ、備えは十分、相手の情報もしっかり手元にあり、万が一を何パターンも想定する。

万全を期してその備えがある「通常」の状態。

そこから繰り出される「攻撃」。

相手からの攻撃を受けても即座に「通常」の状態に戻る事ができる「防御」の構え。

技術として洗練されるという事は常態化であり、「1次ステータス」に組み込まれる事と同じ。

「スキル」が「システム」に組み込まれる。

「スキルを使う」のではなく「システムのオンオフの切り替え」をするようになる。


「一次ステータス」という能力の基礎が上昇、拡張されるという事は「下限」が上がるという事。

現実の人間の発展の在り方として正しいと思う。

そこから更に開拓、発展を続ける。

そして発展したらそれを安定化させて常態化。そして不平不満を見つけ出し、そこからさらに開拓、発展、と繋がる。

間違えれば死ぬ。

だがフィクションでは危険を侵さないことほどつまらない「強み」も゙ない。


結局のところ、二次創作で生み出した魔闘技という「手段」は二次創作という原作、「目的が与えられている状態」であったからこそ「手段」として効果を発揮した。

だが「自由」なオリジナルの小説では「目的」は用意されていない。

「夢」を自分が持たせなければならない。

そして自分にはその「夢」がない。

だから序盤という明確に「弱い主人公」と「強くならなければならない」

という目標がある状況ではドンドン書き続ける事が出来る。

序盤を超え、「どうしても強くならなければいけない理由」が無くなる時に「夢」を失い自分は小説を続けられなくなる。

「夢」のために「必要性」。

序盤はこの「夢」と「必要性」が一緒だからそこに至るまでの「手段」として自分が考えた設定である「魔闘技」の習得、習熟が行動の指針となる。


ハーレムを書きたい、モテたいとも強く思わない。

食っていけるなら最強になる必要性も感じられない。

そもそもとして生きていく必要性が曖昧だ。

「技」の習得は生きていく上で重要だ。

しかし「心技体」で構成されているとするなら「技」に特化するのは間違いだ。

ロマンを感じる「心」が「技」を必要とし、「技」を「体」に備えさせる。

「技」を発展させるには「体」の不具合を自覚して対処法を考えたり自分の個性にあった使用法を模索する事が必要だ。

「技」には心、意思もなければ体の本能も存在しない。

便利かどうか。

技に引っ張られるから心が消え、体が脆弱に゙なる。


自分が小説を書けないのは魔闘技という「技」を書こうとしていたからだ。

「手段が目的」となっていた事に気づいていなかった。

だから「心」を書き出しているエッセイはそれなりに長い事続いている。

「カッコよく自分を見せたい」なんて思っていればエッセイに弱音や愚痴みたいなネガティブな物は書いていないし、自分の考え方なども書いていない。

「我慢してきた自分の心を吐き出したい」という目的が続けさせる。

同じように「体」を鍛える筋トレも長い事続いている。

「カッコよくなりたい」と思っていれば筋トレは続かない。勿論、筋トレを始めるきっかけはそれだった。

しかしそれが目的ならある程度の体型になった後は服装や髪型だとか別の事に切り替える。

「重い物を持ち上げる事が楽しい」だとか、「トレーニングの動作が気持ちいい」という体の持つ本能的な喜びを見いだしたから自分は続けている。

または体が変わる事で連動して「カッコいいの定義」が変わるという「心」の変化でもそれは続けられる。

どちらにしろ継続のために必要なのは「心」、そして「体(本能)」。

技は一番最後。

技に囚われる事なく、心を吐き出し、体を鍛える。


「目的」が変わる、「夢」が移る、「目標」がズレる。

全然構わない。

だが「目的と手段が入れ替わる」となると「結果有りき」のものとなる。

忍耐力の無さは心技体のバランスの崩壊。

心が引っ張るわけでもなく、体に任せるわけでもない。

技に依存するから起きる。

心とはコスパを度外視して100点を目指す事。

技とはコスパを重要視して80点を目指す事。

体とは必要最低限の60点。

そして100点を求めるのは男。無駄を捨てて60点を維持するのは女。

男が「技」を求めた時点で「夢」を捨てる事になる。

だが女は「技」を求めてやっと「夢」を意識し始める。

「技」を重要視するというのは「60点〜80点」に価値を置く。

即ち60点から80点に向かおうとする「女」を優遇する事に他ならない。


何の為の女の優遇か。

「母親」となった時のための「備え」である。

子供に「伝える」ため、男を「察する」ため。

女が備えていない「周りの意見やコスパを度外視した100点を求める」という男や子供の「夢」に寄り添い、支えるため。

その「母親」という役割が女にしか出来ないからこそ優遇する。

だが母親になるつもりがないなら優遇する必要性がない。

「女が母親になる」、その大前提となる目的があるから「男」は夢を切り捨て、「子供」は我慢してきた。

その大前提が「女の自由のため」という理由で崩れた。

だから男は女を無視して夢を求める。

子供は女の言葉を聞かずに我慢しない。

そして優遇してくれない事に腹を立てる女が自分に価値がある事を示すために弱者を攻撃する。

そして弱者に攻撃するような男からも子供からも相手にされなくなった「老いた女」は構ってもらえる「若い女」に嫉妬し、争う。

技も、機械も同じ。


いくら便利な技術、道具でも「手段」でしかない。

ドンドン新しい技術を生み出し、そして捨てていく。

使い続けていくには技術や道具に「心」を向け、不具合の出た「体」にメンテナンスをしなければ使い続けられない。

自分は「魔闘技」という設定を二次創作で主人公の「技」として生み出した。

だが「魔闘技」をオリジナル小説の主人公のオリジナルの強みとして流用し、それを描こうとした。

であるならば「魔闘技」を「心」として、目標、夢という最終的な結果として描く必要があった。

「強さ」が「必要」だから魔闘技を描くのではなく、

「強くなりたい」という「夢」のために魔闘技を描く。

心技体、あるいは100点、80点、60点,

何処に「魔闘技」を置くかでそれは「道具」から「夢」にも「本能」にも変化する。

そして夢で無ければ「伝える」事がないのだ。

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