自作小説の主人公その5
やっぱり自分が書いていた主人公の話を書くと熱が入って長くなる。
ステータスを強みにするためにサクセスの育成形式をスキルとして主人公に設定したが結果として成熟までにあまりに時間がかかった。
前回のエッセイでは成熟までの時間がかかったという結果だけを伝えたが何故そうなったかと言えば「神の加護」系の力を得ようとしていたからだ。
神に限らず精霊だとかの「加護」系の能力。
昔から小説家のなろうでは「上位存在から認められた証」として「能力」を本来の力にブーストをかけたり、強力な技を与えられたりする「選ばれし存在」、「勇者」的な者の証としてステータスの一つの項目に゙スキルなどとは別枠で描かれていた。
とはいえ自分はよくわからない理由、例えば「神や精霊に好かれる体質」などでその当たりを片付けたくなかった。
そこでグローランサーシリーズの「苦行者の首飾り」と「◯◯成長促進」である。
「加護」を得るにはそれを認めさせるための「試練」が必要だと考えた。
そこでステータスを司る神から加護を得るための試練として「対応ステータス-100」というハンデと「試練開始時より100以上を対応ステータスを上げる」という試練クリア条件を組み込んだ。
人間という種族の設定でレベルアップ時、ステータスは「0〜5」の枠で成長する、という事から「+5」を重ね続けても試練をクリアするには20レベルが必要。
また、対応ステータスとある通り1種のステータスだけではなく、ほぼ全てのステータスに対応する試練を与えて何重苦ともいえる能力にした。
紙装甲、というよりワンパンで死ぬレベルの虚弱体質。
それを守るための魔物使いの能力。
実際は「主人公のレベルに見合った魔物を召喚するアクセサリ」というものであったため、魔物使いでもないが。
極力安全かつ低レベルで試練を終わらせるためにゲーム的に言えば「最初の村」でひたすら序盤の雑魚モンスターとして定番のゴブリンやスライム等を狩っていった。
「ひたすら我慢する」のは得意、というより慣れている。
そういう意味でも強みであり、自己投影ができる。
そしてそうやって書いた小説での主人公の活躍の場合が極少数しかなく、ステータスを一次ステータスと二次ステータスを分ける事にした。
ステータスを分ける、とは言ったもののでは実際にどうするのか。
それは「一次ステータス」を作り上げるための「キャラメイク、サクセス用の異世界」と「二次ステータス」が適応される「実際に冒険する世界」
という2つの世界、異世界転生前の世界と合わせて3つの世界を作る事になった。
3つの世界、とはいうが「複数の世界を渡り歩く」的な物も昔からジャンルとして存在しているし、渡り歩くだけなら別に目新しいものでもない。
自分の場合は「キャラメイク、サクセス用の異世界」を「転生前の世界で主人公がプレイしていた育成ゲーム」とした事だ。
「異世界転生、異世界トリップ」が昔から存在するように「ゲームやアニメ」の世界に迷い込むのも存在している。
基本的に「異世界チート物」は他人の作品ならともかく、自分で書くのは続かないのは目に見えている。
それがかけるのであればハーレム物だって書けるだろうし、いちいち「ステータス重視主人公」などに゙拘りを持つ必要もない。
自分は「理由のない最強やチート」に自己投影は出来ない。
厄介な拘りだがどうしようもない。
かといって「既プレイの知り尽くしたゲームの世界に転生」するのも何か違う。
確かに「強さの理由」は「頭の中に入っている攻略情報」というものがあるが、「無双」させたり、「原作で救えないキャラを救う」というそれも出来るのだがそれが「自分オリジナルのゲーム世界」だとしてもやはり「二次創作」の域を出ない。
エヴァやゼロ魔の二次創作を見たり、そして書いたりしてきた自分としては原作に沿って「無双」しているうちは楽だが直ぐに飽きてくる。
やはり主人公という異分子が介入した事による「予想外」の事態を引き起こした盛り上がりに欠ける事も容易に想像がつく。
「原作の強み」を持つゆえの弱点となる「予想外」の事態と強みを活かすための「原作通り」のシナリオを行ったり来たりを繰り返す必要がある。
やがてその「予想外」と「原作」が交わっていき結びついていくと整合性をもたせる「オリジナルの展開」も考える必要があるという中々面倒な事になる。
どのみち二次創作とはいえ「創作」である以上、オリジナルの展開は描かなければならないがその「原作」すらも「オリジナル作品」なら予め容易しておく必要がある。
「原作」という台本と「予想外」の展開、そして「オリジナル」の展開。
ある意味で3つの小説を描く必要があるとも言える。
そこで最初に゙1次と2次の2つのステータス、2つの世界に分けた時はそのままサクセスを1次ステータスのための世界に゙適応させた。
実際は本家「実況パワフルプロ野球」ではなく、携帯ゲーム機への派生シリーズでファンタジー要素もある「パワプロクンポケットシリーズ」を参考にしたわけだが。
投手能力としての球速、コントロール、スタミナ、各種変化球とその総変化量。
野手能力としてのミート、パワー、走力、肩力、守備力、エラー率。
各種攻略サイトを見ながら主人公なりの最強選手を育成した後にその育成したキャラの能力が「実際に冒険する世界」の2次ステータスに変換される。
具体的には投手能力が魔法的な才能、野手能力が肉体的な才能。
野球ゲームとしての特殊能力も異世界ファンタジーの能力に変換した。
そうして「転生前」 と「転生後」の間に「育成」の世界を作る事を考えたはいいが、結局キャラメイク、サクセスとしての野球ゲームをどこまで掘り下げるか、という事でコレもすぐに行き詰まったが異世界へ向かう前に「育成専用の世界」を作るというのはその後も自作小説で練る事になった。
こうした「育成専用の世界」は「本筋となる世界」とは別枠と解釈した事でRPGにおいて本筋とはシステムが異なる「ミニゲーム」として結び付ける解釈も出来る。
そのためストーリーをある程度進めた時点で「2次ステータスにおけるレベルアップによる実力」とは別に「一次ステータスを鍛え直す」という名目で再度「育成専用の世界」に向かう展開としてミニゲーム的な新たな育成をしていく。
とはいえミニゲームはミニゲーム。
本筋のRPGとしての世界を遊び尽くすというやりこみ要素の意味合いでのミニゲームである。
本当に音ゲー、レースゲー、格ゲーなど別のジャンルをやりたいのであればRPGのミニゲームなどではなく、ソレ専門のゲームを買うわけである。
あくまでミニゲームはミニゲームの要素として、そして「一次ステータスの世界」と「2次ステータスの世界」は分断する必要がある。
正直なところRPGゲームにおいて全くシステムの異なる音ゲーやレースゲームなどが本筋に組み込まれたり、最強装備のために必須となる場合もうんざりする。
とはいえ前回のエッセイでも語ったように「冒険」と「教育」の共通点があるとしてミニゲームへの見方を変えるとある意味で「違う価値観」を知る、という意味ではある意味では必要な事だ。
現実世界においては「体験学習」だとか「社会見学」のような意味合いに通じるかもしれない。
ある程度の年齢になれば「アルバイト」もその一つの経験として加わるかもしれない。
もっともゲームはあくまで「娯楽」として存在するものであるため、ミニゲームとは言えないレベルの難易度ではストレスが溜まるだけでそれはそれで問題でもある。
この「ミニゲームとしては高すぎる難易度」も「体験学習」や「社会見学」のレベルで実際に仕事の一部を体験させたりする事はあっても1から10まで全ての仕事内容をさせたり、シンドい事をさせるものでもない事が共通点だ。
「アルバイト」の場合は仕事とはいえ、「正社員」の仕事と同等以上の仕事をやらされるべきではない。
立場と給料が違う。
「アルバイトとはいえ仕事だから」は正しい。
しかし「仕事だから正社員と同等の仕事をしろ」は間違いだ。
アルバイトはアルバイトの、正社員は正社員の、そして正社員にも部署だとか役割があるようにそれぞれの仕事がある。
立場と給料を無視して「仕事だから」という側面だけで均一化をいい出せば「アルバイト」を「正社員」と同等の仕事内容を与えるのであれば「正社員」は「社長」と同じ仕事をしならなければ筋が通らない。
実際何年か前から「起業意識」だとか「リーダーマインド」みたいなものを全ての人間に持たせようとしたりするが、仮に皆が「社長」になれば皆が困る。
「農家」や「漁師」はそれぞれが個人事業主であり、社長なのだ。
その上で「皆が社長」になれば「皆が幸福」になるというのなら「人口減少」「人材流出」「過疎化」「高齢化」で悩む必要はない筈であるが現実として田舎でそうなっている。
現実を見れば見るほどバランスを無視した「過剰な上昇志向」もまた問題だ。
言い換えれば「皆が社長」になろうとするから寂れて「田舎」になるとも言える。
勿論、寂れる理由はそれだけではないが一つの要素として確実にその要素があり、その反動が「責任逃れ」や「サイコパス化」、「治安の悪化」にも繋がる。
「受け身」が「悪い」とは最近よく聞く話だが、「何故受け身が悪いのか」を探っていけば「生来の気質」より過度な「積極性の強要」と「競争意識」を身に受けてきた環境が原因となる。
「受け身」が悪いのでも「積極性」が悪いのでもない。
「過度」である事が悪いのだ。
振り子の振れ幅が大きければ大きい程「返し」も大きくなる。
「返し」を与え続ければ捻じれ、歪み、折れる。
こうした事から考えると「一次ステータス」と「二次ステータス」を分けたのは現実社会における「プライベート」と「仕事」の線引きをすることに似ている。
仕事をプライベートのようにダラダラやれば能率は下がるし、クオリティも下がる。
だがプライベートに仕事を持ち込めばそれは同じ事と言える。
「教育」という視点で見るならば「家」と「学校」だ。
「学校の問題」を持ち込めば確かに家族の幸福度は下がるかもしれないが子供には他に処理出来ない。
だから子供を「支える」、そして「守る」ための「家」が必要だ。
そして「家」の問題を「学校」に持ち込めはそれは主に「イジメ」となって現れる。
「被害者」と「加害者」、どちらの立場でも基本的に「家」に゙問題がある。
あくまで学校でのイジメは「出力」されただけであり、原因は家で「入力」されて子供の中でそれが「処理」された。
そしてその家で入力するのは「親」である。
その親が「仕事」と「プライベート」を分けられないなら「自分が稼いで食わせてやっているんだから黙って従え」と言うだろう。
あるいは「勝手にやれ」と突き放すか。
それをどう受け取るか、どう処理するかは子供の精神性次第だが、その精神性も5年、10年と暮らせば生まれ持った「心根」がどれほど優しさに溢れたものでも時間をかければ腐る。脆くなる。
そしてそうした者が「アウトロー」として「不良」となり、それがファッション的にカッコいいと持て囃された。
結果としてそうした「不良達」が「仲間を守る事」に対して体を張ったり、ドラマ性があるから美化されたりするがその裏には「仲間を守る」名目で「仲間以外」を排斥する。
そして「仲間」であることを確認し合うために「プライベート」が侵食される。
そうしたネガティブな側面を自覚しないまま大人となる。
それが若者や子供達に受け継がれてきたわけだが現代に゙おいて「同じ価値観の仲間以外」が存在して遭遇するのは当たり前の常識である。
「仲間以外がいるのが当たり前の世代」と「仲間以外とは関係性を持たない世代」がぶつかれば当然分断される。
だから「余所者に伝わらない」。
そして「余所者へ伝える機会」と「余所者へ伝える能力」が消失する。
大人が伝える機会と能力がなくなる以上、子供や若者は「仲間となる」か「そのグループを消す」と言う両極端な方向に向かいやすくなるのは普通の事。
普通とは最低限ということ。
大人が「楽」な道を選んだ以上、子供も「楽」な道を選ぶ。
「親の責任」は処理能力が未熟な子供は「鏡」となってそのまま写し出す。
「異世界転生」においてもそこがファンタジー世界で仮に「有利な能力」を持っていたとしても「社会」に出る以上はやはり「家」が必要なのだ。
実戦で練られる能力は確かに「実績」がある。
「信頼」に足る「実績」だ。
しかし必殺技が強ければ強い程に「依存」する。
新たな「必殺技」、新たな「戦法」、新たな「武器」は「家」で開発と改良を重ねるしかない。
「戦闘の中で成長している」という描写に憧れがないわけではないが、そんな天才に自分みたいな「凡人」は自己投影は難しい。
「付け焼き刃」を何度も繰り返してバージョンアップして「本物」にする。
そのために「ミニゲーム」をこなして「多様性」を得なければ「本筋のRPG」で活躍させる主人公の一次ステータスを競争する「アイデア」に繋がらない。
「一次ステータス重視」を際立たせるための「サクセス」のスキルとは本筋の能力とは無関係の「ミニゲーム集」であり、それはつまり多様な「社会体験学習ツアー」のスキル化であり、「充実したプライベート」の理想像とも言える。
そして最初のミニゲームが「キャラメイク」。
本筋とは関係ないがストーリー上、必ずやらなくてはならないミニゲームだ。
本筋に組み込まれている「ミニゲーム」はクリアさせるために基本的に難易度が低い。
しかしキャラメイクはほぼ「クリア条件」はない。
プレイヤーが「納得するかどうか」だ。
「他人」からの評価ではなく、「自分」が評価する。
「クリア条件」が低くても高くても自分さえ良ければ「クリア」である。
一次ステータスが低くても装備やジョブ、スキルといった「二次ステータス」がカバーしてくれる。
一次ステータスが低くても「仲間」がカバーしてくれる。
一次ステータスが低くても「プレイヤースキル」でカバーできる。
だが「未熟」なまま「孤立」してしまったら「一人で生きる」しかない。
そして未熟なまま一人で生きるには「他人から奪う」しかない。
「奪う」のは獣の証。
例え未熟でも「人間」に拘り続けるために「一次ステータス」とその「キャラメイク」が重要であり、「家」と「ミニゲーム」が必要なのだ。
思いの外「キャラメイク」と「一次ステータス」の話が長くなった。
最終的には自分の主人公は「魔物使い」なのでそちらも書きたかったが自作主人公とは別のタイトルで書くか。




