勘という力
「察する力」、「伝える力」をそれぞれやってきたが日本のそれが「察する力」に偏っているのは「勘の良さ」頼みの文化といえる。
「勘が良さ」というのは現状の日本の文化で求められるものだ。
例えば「アレ持って来い」と言えば『アレ』に対応する意図通りのものを持ってきてくれる。
所謂「阿吽の呼吸」なんて言い方もされたりする。
つまり日本の文化は結局のところ社会の皆が「阿吽の呼吸」を目指す文化だ。
最近は聞かなくなった傾向があるがコロナ禍による海外の往来が解禁された直後あたりは日本の「お通し」が話題に上がっていた事もある。
「食店に入ると突然頼んでもいない物が出され、サービスだと思ったらしっかり代金に含まれていた」
と海外にはない文化でそれに戸惑う。
勿論、この文化そのものは悪いわけではない。
食事の前に酒を飲むためのツマミとして出すものとして生まれたあくまで「善意」の文化だ。
しかしその文化を知らない人間からすると強引に食べ物が出されてその代金を払え、というもの。
知らない環境、知らない文化に触れれば普段と勝手が異なり、恥をかく。
それ自体は利用者、客の立場の責任だ。
お通し文化にしても、そして日本の文化全体としても「それが文化」とか「マナー」という風にしてしまえば確かにソレはそうかもしれない。
その一方で日本国内でもそうした日本独自の文化に不満の声が上がっていたり、一部の人しか分からない似非マナーや独自マナーを作って金を稼ぐ似非マナー講師などがいるのは話題にもなった。
そんなトラブルが何故発生するのだろう?
「無知な奴が悪い」
「騙される奴が悪い」
確かに一理ある。
なら「お通し」や「日本文化」のそれも疑ってかからなきゃならない。
「善意からくる文化」とやらも甚だ怪しいものだ。
「善意の文化」として生まれたかもしれないがそれが「似非」なのかどうかは精査する必要が生まれる。
「無知な奴」として「騙されない」ためには必要な事だ。
こうした事を言えば「そんなに日本を信じられないなら日本から出ていけ」とこれまた使い古された反論がくる。
つまらない反論だ。
けど、正しい反論だ。
正しくて面白みにかける反論、「最低限」の思考で反射的な反論など馬鹿な自分でも出来る。だから自分に「こんな反論されるだろう」と想定できる。
その反論を想定できるから自分はそんな反論を口から出した人間そのものもある程度どんな人間なのか想定できる。
正確には「自分に対しての関心があるのかどうか」である。
「やる前からそんな事を勝手に決めるな」
「人間誰しも自分第一だ、自分の事を棚に上げるな」
こうした次の反論が想像できる。
その答えは「普通」の範囲内だからだ。
「察しが良い」から「欲求」を聞いただけで「要求」「交渉」「成立」をすっ飛ばして「結果」を導きだす。
そしてその「結果」を相手にさし出せば「自分に何が返ってくるのか」という「リターン」まで計算できる事が「勘の良さ」である。
そして「欲求」から「リターン」に直結する能力が「女の勘」と言える。
「女の勘は鋭い」というのはよく言われる話だが不思議に思った事はないか。
女という性別が「勘の良さ」に秀でたとして、何故「万能」ではないのか。
「女の勘」が使われる話は常に「女自身の損得」に関わる事だ。
「パートナーが浮気しているのではないか」「相手が隠し事しているのではないか」
常に「自分のため」に「損」をしないように、「得」を得られるかどうかだ。
「仕事場」という環境で「どう立ち回るのが自分に取って得なのか」というものを「女の勘」で察知はできる。
一方で「仕事内容」そのものは「女の勘」は働かない。
あくまで身につけた能力に相応の力しか出ない。
「女の勘」が万能であれば欧米化よりとっくの昔に女が社会進出していてもおかしくない。
「女侍」「女将軍」など当たり前だった筈だ。
結局、「女の勘」も女の持つ超能力などではなく普通の「勘」と同様に「文化」や「経験」に則したもの。
「浮気に勘づく」「隠し事に勘づく」
全て「自分も同類」だから気づける。
「自分が同じ立場なら」
と置き換える事もなく、答えが出る。
「察する能力」が「欲求」からどの段階まで予測できるか。
「要求」か、「交渉」か、「成立」か、「結果」か。
「勘の良さ」とはその「結果」から先の「リターン」までの導き出し方だ。
「結果」を用意するための「コスト」、用意したものを渡す際に効果を高めるための「態度」、かけたコストと態度によって高まる相手の「満足度」、そこから導かれる「リターン」。
そしてコストとリターンを天秤にかけた時の「結論」が「行動」となる。
「欲求」から実に10の段階を踏まえて本来なら「行動」となる。
複雑な工程だが慣れれば反射で行える。
だからその反射にそぐわない「選択肢」となる多様性は「勘の良さ」、つまり「欲求から行動までの早さ」を自分の能力の高さとして誇る人間からすると害悪なのだ。
「勘の良さ」が通用しない。
「言語化」と「理解」と「やり取り」が相互に必要となる。
相手の年齢、立場、経歴、そんなもの関係なく同じ土俵に上がらなければならない。
理屈で言えば「勘の良さ」に応じて「考える力」も備わっている筈、「置き換える処理能力」も備わっている筈。
けど実際には備わっていないのが日本の現状だ。
だから「老害」といった前の世代の人間を罵る言葉が生まれる。
それは老人が若者の「土俵から逃げる」からだ。
だから「親ガチャ」という親の教育を非難する言葉が生まれる。
それは「置き換える処理能力」が若者と親が同レベルだからだ。
だから「弱者男性」といった理解できない相手を罵る言葉が生まれる。
それは「一般人」に未経験のもの、その価値を「考える能力」がないからだ。
結論としては「察する能力」と「勘の良さ」だけでは「女の勘」と同じ、「同類」に対してを想定した「スピード勝負」にしかならない。
RTAみたいなものか。
けれどRTAはそれ自体に競技性や面白さがあるのに対していくら勘を働かせても、いくらスピードを早くしても楽しいと感じる者はいない。
だからストレスを感じる。
あくまでも「報酬」があるから勘を働かせている。
極論ではあるが狩猟時代にはその「勘の良さ」は重要な能力だった。
また生きる上で選択肢が狭い「旧世代」においてもまだまだ大きなウエイトを占めていた。
だからこそ最近の熊などの野生動物からの被害にはスピードが要求される。流暢にアレコレ迷っていられない。
だが「現代社会」の普通の生活において「勘の良さ」とはもはや自分の立場を「よく魅せる」以外に使い道がない。
自分の「勘の良さ」を誇るのは勿論、他人にそれを求めるのも。
「必要がない」とは言わない。
野性から離れたとはいえ、人間も自然の影響下にある一種の動物だ。
だが「生きる為」としての重要性は下がっている。
「他者の事を自分の事に置き換える力」を伝える力で置き換えれば「例え話」となる。
つまり「遠い未来」の話だ。
「未経験の価値を考える」を伝える力で置き換えれば「選択肢の提案」となる。
つまり「近い未来」の話だ。
「勘の良さ」を伝える力で出力すれは「危険信号、警報」となる。
つまり「差し迫った未来」の話だ。
「勘の良さ」は後手に゙回る。
「最短、最速」のつもりが実は大局として見た場合、結果的に遅い。
「いざという時」のために必要ではあるが、「いざという時」を避けるべきだ。
「勘の良さ」に頼っていれば「女の勘」にいきつく。
「どれだけのものが取り戻せるか」
「どれだけの被害で抑えられるか」
「手遅れ」に対する「軽減」と「回復」。
「察してもらう」だけでは「危険」は避けられない。
「勘づく」だけでは「危険」はそこに在り続ける。
「伝えなくてはならない」
「言語化しなくてはならない」
「勘の良さ」で踏み飛ばしてきた工程に゙「価値」を見出さなければならない。
そうでなければ選択肢は「死ぬ」か「逃げるか」。
勘が良いから真っ向から闘わずに避けてきた。
「察する」から「伝える」という行動に「勘の良さ」の方向性を変えなければずっと逃げる羽目になる。
この結論は自分の経験論。
自分の「勘」だ。




