伝える能力
前回の「察する能力」でその根底にあるのは「伝える能力」と一緒と結論を述べた。
何故なら自分が発した言葉で相手の価値観、経験や知識で置き換えて考える事が出来ず相手一人の処理能力に察する事で他の言い回しなどで伝える事ができるからだ。
たくさんの言語、知識、経験を持っていても相手の理解を放置していては何も伝わらない。
そうした事を言えば「甘えるな」と怒鳴られる。
「ビジネス」だとか「郷に入っては郷に従え」だとか「大人になれば分かる」とかそれは正論ではあるが、その正論を振りかざす事によって「察してもらう」。
そして「伝える」事をサボってきた。
自分達だけが分かる言い回しで、
自分達だけが知る知識を、
自分達だけが分かる価値観の元に、
自分達の気持ちを察してもらう。
だから自分達以外の相手に「伝える」のが難しい。
かといって変換しきれなかった事を察しようとして細かく説明していれば自分のエッセイのように話は長くなる。
価値観の異なる人へ「伝えよう」としても相手に゙「察しよう」という気持ちが無ければ、努力がなければ相手の知識や価値観の中にない「専門用語」は使えなくなる。
ドンドン次元は低くなり、「馬鹿でも分かる」言い回しにする他ない。
子供の成長、教育と同じで知識が無くても「察しよう」という気持ちがある相手なら時間をかければ「馬鹿でも分かる」から徐々に「専門用語」へ次元を高くしていける。
しかし相手が大人であり、能力や経験自体があったとしても察するというその気が無ければ伝える側は逆に「専門用語」から「大人なら分かるレベル」、「馬鹿でも分かる」と次元を下げる必要性がある。
そしてそうした専門用語を使わない分、情報は無駄に多くなる。
逆に言えば大量の情報を「専門用語を使わず」「コンパクトに」「分かりやすく」。
この3つの制限で言語化できる人というのがつまり「伝える能力」が高い人。
同じ「言葉選び」でも
・自分の気持ちを相手に「察してもらう」のが前提の人
・相手に自分の気持ちを「伝えよう」とする人
この二種は別の言葉選びをする筈だ。
主役は誰か。
ゲームのRPGなどのチュートリアルでNPCが専門用語ばかり使っていたらチュートリアルにならない。プレイヤーは話についていけない。
かといって物語の中盤以降でも一切専門用語を使わず、基本的なシステムの話で済ませるとか固有キャラをモブキャラのように扱うだとか、シンボルだけで話を進めるとプレイヤーは冷めてしまう。
相手を引き込むには「相手の理解度」に合わせた「表現」をして段階をこなして伝える。
難しい事だが相手より自分の方が「知っている」なら出来ないことはない。
「伝えたい」という意味では主役は「自分」だ。
しかし「理解する」という意味では主役は「相手」だ。
この段階ではお互いに゙立場としては同格だ。
そして「理解させたい」と「自分」は思っているから「伝える」。
しかし「相手」は必ずしも「理解したい」と思っているかはわからない。
もしかしたら「自分の気持ち」は一方的な「理解させたい」という欲かもしれない。
「相手も当然知りたい筈、理解したい筈」と思い込んでいるだけではないか?
「ビジネス」だとか「環境」、そして「生活力」。
確かにそれらの知識は全て必要だ。「知りたい筈だ」と思うのは正しい。
だから「伝える」側は勘違いし、傲慢になりやすい。
確かにそれらは生きる上で「最低限」のラインに近い「必須」の知識。
だがそれらの「概念」そのものは価値は絶対的だ。
しかし「人間」の価値はブレる。
「受け手」は確かに「知識」を欲する。
しかし眼の前に「アルバイト」と「会社員」と「起業家」がいたとして「誰か一人からのみ話を聞ける」とした時、「誰の話」を聞きたいと考えるか。
誰を選ぶのが正解とかそういう話ではない。
「知識」は欲しているのは間違いではないが「求めている知識」が「アルバイトの知識」なのか「会社員の知識」なのか「起業家の知識」なのかは「受け手」の価値観や求める物次第である。
「伝える」のは「受け手」があってこそだ。
「誰しも知りたい筈」と傲慢に゙なった時点で「知識」「環境」「生活力」などを人質に取りながらの「伝え方」となる。
「知りたければ自分の手下に゙なれ」
「知りたければ仲間になれ」
「知りたければ対価を寄越せ」
流石に現代社会においてここまで露骨には言わないだろう。
ただ相手の「察する能力」を頼りにした「伝える」という行為は非常に無責任だ。
「伝える側」と同じ価値観の「仲間」に゙なれば役に立つかもしれない知識と言える。
仲間だから相手の使う方言、専門用語、そこから感じるニュアンスを置き換える事もなくそのまま理解できるからだ。
だが逆にいえば「仲間」にならなければ役に立たない知識の可能性がある。
異国の言葉を日本語に訳して日本人が解釈するように変換する処理を挟む。
理解できない言語など意味のない言葉と同じで雑音と変わりない。
しかし言葉として意味のわからない雑音であってもそれを伝えている人間が「魅力的」なら受け手自らが積極的に動く。
例えば洋楽。
日本人にとって日本語で歌われる歌は言語として理解可能だ。
一方で「異国」の言葉として歌はやはり最初は雑音と同じ筈だ。
勿論、英語などを理解した上で洋楽を聞き始める人もいるだろうが恐らく大多数の洋楽ファンの最初はその雑音、そしてその音を発している人間が「魅力的」だからだ。
だからそんな「魅力」を得たい、もっと知りたい、と自分から「察する」ために動く。
一方で自分の好きなアーティストである平沢進氏は日本人で日本語を使い、何十年も前から活動している。
しかし歌うジャンルも一般的とは言えない上にその世界観も癖が強い。
活動するメディアとしてもかなり早い段階でネット中心。
20年前から日本初のDL販売。
シナリオ形式ライブでネット中継による投票でのマルチエンディングライブ。
その他にも太陽光発電によって電力をまかなっての屋外ライブ。
高電圧発生装置のテスラコイルや工具のグラインダーなど楽器ではないものを楽器として使ったライブ。
また漫画「ベルセルク」のアニメ化においては原作者であり一昨年亡くなった三浦建太郎氏がファンである事からアニメの、その後のゲームの楽曲にも関わっていた。
その楽曲の一部にはベルセルクの世界観に沿うように「オリジナル言語」を作り、その歌を作りあげたりもしている、
数年前からジャスラックの権利絡みの話はネットで問題となり様々なアーティストや利用者に波紋を読んだが、それよりずっと以前にジャスラックを疑念視し、独立し、ジャスラックとの関係性を断った。
勿論、そうした尖ったアーティストでネット活動が中心という事でテレビで見た事はなく、実際に゙自分が知ったのはネットである。
CDのジャケットの静止画と音楽が流れている簡素な動画。
動きはないがテレビなどで流れている楽曲のどれとも異なる。
それを「宗教的」と揶揄する人もいたが自分はその歌に「感動」した。
どんな人が歌っているんだろう。
この言葉にどんな意味があるんだろう。
この人の他の歌を知りたい。
彼のスタイルは一方的だ。自分達ファンが勝手に「察する」事で成り立つ。
それ故に「誤解」も発生して歌やSNSでの発現から一部のアンチに曲解されたりもする。
基本的には無視ではあるがあまりに酷いもの、侮辱的なものには明確に゙「反論」してもいる。
一方的故に一般人への変換処理に向き合う労力を創作活動に向けるために魅力が生まれるのは確かにある。
自分は洋楽を聞かないが、洋楽ファンが邦楽よりも洋楽が好きな理由はこうして自分に置き換える事でなんとなくは理解できる。
話を戻そう。
こうやって長々と例え話をしてきたがつまりは「伝える」側に自分のスタイルや価値観を「一方的」にぶつけて相手の方の「察する能力」に任せていればいい、と言えるだけの「魅力」があるかどうか。
大多数の人間にはそんな魅力はない。
けれど自分の気持ちを伝えようとする気持ちが抑えきれない。
なら受け手のために「相手に伝わる言語」にしなければならない。
受け手が飽きないように「コンパクト」にまとめ、分かりやすくするために上記のように自分がしたように「置き換える」という処理がしやすいための「例え話」をする。
この意図を考えないと仮に「例え話」をしても逆に解りにくくなる場合もある。
それは「例え話」をすることで知識や経験をひけらかしたい、ユーモアセンスがある事を見せつけたい、あるいは言葉遊びをしたい、などの「自分が例え話をしたい」という欲求に振り回されているからだ。
あくまで「伝える」という行為は「相手」が主役。
自分の立場の「伝える」は出力。入力は相手に対しての「察する」という能力。
察する→言語化→伝える。
相手の立場は異なる。
伝えられる→察する→理解。
相手が「理解」しなくては自分の「伝える」は完結しない。
どんな実績を残した人間でも相手の「理解」がなければ伝わらない。
それでもいいならそのスタイルでいい。
縁はそこで終わり。
そして先ほど上げた工程は一方的なもの。
自分と相手に分けたが「対話」として考えた場合、それぞれ交互に゙行う。
「察する」→「言語化」→「伝わる、伝えられる』→『察する』→『理解』→『伝える、伝えられる」→「察する」→「理解」。
自分の工程を「」、相手の工程を『』で変えて見たが伝わるだろうか。
結局、お互いがお互いに「伝える」も「察する」もしなければ成り立たない。
当たり前の事。本来言語化するまでもない事だ。
だけど本当に理解していれば「察する」と「伝える」が剥離するわけがない。
2つで一つ。だからこそ「察する」のも「伝える」のも難しい。




