自分の書いていた小説のヒロイン その5
「光のヒロイン」と「闇のヒロイン」の合成となる「陰陽のヒロイン」。
それを作る上で自己投影した主人公の「過去の記憶」の共有としての「幼馴染」。
ストーリーにおいて関心、あるいは挑戦する分野、世界における知識を持った「先駆者」、そしてその知識を持って「応援」する「指導者」としての「オタク」。
光と闇の性質を併せ持つヒロインをつくる時、「オタクの幼馴染」というのが設定として楽だ。
さてそうした「オタクの幼馴染」をヒロインとした際に肉体的なものはどうなのか。
「理想の女性像」が「母性」であり、「過去の自分自身が行った行為」である。
「癒やし」と「応援」、「ヒーラー」であり「バッファー」。
逆に言えばそれに対して主人公は「攻撃」と「守護」、「アタッカー」と「タンク」の2つの役割をしなければならない。
その上で主人公は剣と盾の「戦士」タイプの肉弾戦要因に自分の戦闘では成りがちだ。
この辺は昔ながらのフィクションの主人公ではありがちでどうしても前衛となる。
そこまでは別にありがちなのだが自分は過去のエッセイでも何度か語っているが「筋トレ」が好きだ。
勿論、知識も実力もあくまで素人レベルの範疇だ。
とはいえ一般人より力も知識もある。
それゆえにどうしても「自己投影した主人公」のフィジカルの設定は盛りがちだ。
加えて作品の世界観として「フィジカル」を重視してしまう。
これはゲームにおける「魔法ダメージ<物理ダメージ」というダメージバランスの話ではない。
「フィジカル」とはリアルの人間においてはあらゆる「テクニック」の土台となる。
そのためファンタジー世界に置き換えると
「フィジカル」→「基礎ステータス」
「テクニック」→「スキル」、「魔法」等に自分は置き換えてしまう。
それゆえに自分の描くファンタジー小説は「ステータス>スキル」となる。
ようは昔のRPGなどによくあった「レベルを上げて物理で殴る」という設定近いものにしがちだ。
現代ならクソゲーになりやすい設定だ。
何故この世界設定の話をしたか、というと「基礎ステータス」を強みにする場合、それとは「真逆の世界設定」の方が都合が良い。
「基礎ステータスが正義」の世界観で「基礎ステータスを強み」とするよりも「スキルや魔法が正義」という「基礎ステータス軽視」の世界観でこそ、その強みが生きる。
勿論、その逆も然り。
現実社会でも「都会では平凡以下だった技術者」が「田舎に行くと周りの都会に比べてレベルが低くてエリート扱い」という状況をたまに目にする。
これは「ステレオタイプのなろう系」でよくネットで馬鹿にされてきた事と実質的には同じで自分と同じように主人公に自己投影し、その主人公を活躍させようと思ったら主人公以外のキャラを主人公より馬鹿にしないと主人公を活躍させられないわけだ。
その結果、ネットで馬鹿にされたりする「現代日本人の常識的に備わっている知識」で無双したり、天才扱いされたり、という話になりがちだが流石にもうそんな露骨な設定のそれは見かけなくなったように思える。
そうした「頭の悪い作者」と揶揄されないようにするには知識を深めるのが全うな方法だが、時間がかかる。
ではどうするか。
「基礎ステータスでアドバンテージ」を取るのが主人公なら、
「世界観の常識通りの方法で強みを得る」のがヒロインの役割となる。
基準を60点とするなら
主人公は「ステータスは80点、スキルは30点」
ヒロインは「ステータスは30点、スキルは80点」
そんな風にする。
「ヒロイン」はステータスは弱いがスキルが強い。
「スキル重視、ステータス軽視の社会」においてはステータスの低さは大した問題にならず、むしろ他人より秀でたスキルの強みの方が注目される。
逆に「主人公」はステータスは強いがスキルが弱い。
しかし世界観のおかげで高いステータスよりスキルの弱さの方にしか注目されない。
こうした「凸凹コンビ」は昔からマンガなどに存在する。
能力の突出のない「似たものコンビ」が安定感があるのに対してのその瞬間的な爆発力は「凸凹コンビ」の方が分かりやすくインパクトが強い。
基本的に自分はそういう「コンビネーション」や「マリアージュ」などを書きたくて書いている。
そして瞬間的な力で活躍し見せつける事で「潜在能力」の高さを知らしめる。
ただしこれは1段階目。
あくまで「潜在能力の高さ」であり、「人を見る力のある存在」だけに認められるフラグだ。
ごく一部に認められればよく、「その他大勢」には「たまたま運が良かった」とか「相方のおかげ」という風に解釈される。
この第一段階から第二段階、「その他大勢」に認められるために実力を上げる必要が生まれるがそこで「ヒーロー」と「ヒロイン」の得意分野と苦手分野の違いによって双方をそれぞれの分野においての「師弟」関係に発展させる。
よく子供の家庭教師や塾などで「成績の悪い子ほど伸びる」というちょっと考えれば当たり前の理屈を宣伝文句にしていたりする。
普通に80点取れる子供に+10点、つまり90点を取らせるには時間がかかる。
しかし30点の子供を60点まで引き上げるのはさほど苦労はない。
苦労はない、というより「難しい事をする必要」がない。
必要なのは子供自身のやる気と指導側の根気だ。
そこでヒーロー、ヒロインそれぞれがお互いの80点の得意分野で師となり相方の苦手分野、30点を60点に引き上げる。
ヒロインに「過去の肯定」と「現在の応援」の役割を求めたのと同じように自分もそれを返す。
「持ちつ持たれつ」、動物的でシンプルな等価交換だ。
そしてストーリー上でさらに「時間の共有」「価値観の共感」をすることで「連携」や「お互いのバランス」が強化され安定感が増す。
自己流は「楽しい」。だが成長という意味では総当たりで間違いを潰しながら正解を探していく羽目になるため時間と労力、金もかかる。
「指導者」がいれば「楽しさ」はなくなる。
だが自己流に比べて答えが予め分かっているから成長は早く、そして「褒められる」「褒美を与えられる」で「喜び」を。
「叱られる」「罰を受ける」で「怒り」を覚える。
ここで「幼馴染」という「馴れ」の設定が「遠慮」や「躊躇」の無さ、そして「好み」や「癖」の予めの認識として備えさせる事に活かされる。
そして喜びと怒りを交互に繰り返して短期間で成長する理屈になる。
そうやって「瞬間的な爆発力」を「安定化」させる事で第二段階の「その他大勢」へ「認められる」フラグとなる。
主人公の「長所」自体は大した成長はない。
ただヒロインとの「苦手分野の能力の補完」と「安定化」によって2段階の強化と「認められる」イベントを発生させられる。
そしてそこから3段階目として今度は「長所を伸ばさなければならない壁」として負けイベントだとか撤退戦となるボス戦、あるいは新天地への旅などに繋げられる。
「成長」イベントといってもそれ一粒を雑に分けても3段階に分けられる。
即ち「自己投影した主人公を活躍させる」という事を書くうえでは一粒で3回楽しめるコスパの良い話だ。
勿論、コレをやる上でヒロインとの「師弟」以外のやり取りをしなければならない。
これを「しなければならない」と感じてる時点でダメなんだが。
1粒で3回楽しめる「成長」イベントを書くなら同じようにヒロインとの「交流」も最低限3回は書かなきゃ行けなくなる。
コレを無視するから「ヒロインの兵器化」が進む。
キャラとして台詞が少なくなり、キャラとしての存在感、魅力が薄まる結果、他のキャラを出さなければいけなくなる。
けど「ヒロイン」には主人公パーティにおける「女っ気」の象徴でもあるわけでそれを補充するにはどうしても「戦闘力+女」となり「別のヒロイン」となる。
一度それをやればドンドン「使い切ったら補充」という「消耗品」として扱うことに躊躇しなくなる。
色々なヒロインが登場する、それは様々なフィクションで人気作品が多い事から必ずしも悪い事とは言えない。
しかし自分のような「自己投影した主人公」を活躍させる作品においてのヒロイン、しかも自分のルールの「光」と「闇」で構築されたヒロインは主人公にとっての他人であると同時に「求めていた母性」でもあり「過去の自分」の投影でもある。
自分のルールにおいてはこの「ヒロインを消耗品」として扱うという事は即ち「母性の消耗品扱い」であり、「過去の自分を消耗品扱い」する事と同じ。
新しくヒロインを出せば古いヒロインの影は薄まり、同時に自分自身が削り取られる感覚に陥る。そんな不安感に゙駆られる。
拘りを捨てる事で自由にヒロインを登場させてハーレム構築なども楽しめるのかもしれないが、個人的にはそれを「自由」ではなく「空虚」と感じてしまう。
勿論、人の感じ方次第であり、読者側としてはハーレム作品も二次創作小説がネット小説の主流だった昔から楽しんでいる。
立場が変われば見方も変わる。
「他人を楽しませる小説」を書くと決めて書くのならそうした苦手意識のある物も書けるのかもしれないが、そこには自分の「ヒーロー」も、自分が求める「ヒロイン」も居ないのだろう、と考えればやはり自分には無理だ。
そうした意味で改めて考えるとアニメでも゙漫画でも、あるいは音楽でも実写でも「自分の表現したいもの」を「他人へ表現するもの」に落とし込む力のある人、それを「自分の楽しみ」としてできる人は凄いな、と思う。




