自分の書いていた小説のヒロイン その3
光と闇のヒロイン。
自分の「理想的な女性像」を投影したもの。
そしてその女性像は「母性」。
そして自分の思う「母性」とは自分が過去に母親に向けて行ってきた行為の返還。
「奪われた過去の自分」が「母性」であり「ヒロイン」。
この3つの事柄の共通点である。
さてここで「なろう系」ではお馴染みのファンタジーRPGな世界観の役割に落とし込む。
色んなゲームや物語で言えば「ジョブ」「職業」と言われるものだ。
自分のヒロインは2パターン。
「過去を肯定」する「光のヒロイン」。
「現在を応援」する「闇のヒロイン」。
イメージ通りとはなるが「光のヒロイン」には回復役、「ヒーラー」を求める。
一方で「闇のヒロイン」には支援役、「バッファー」を求める。
自分は子供の頃ゲームオタクではあったがオンラインゲームなどについては黎明期と言える。
未成年がプレイするのはオフラインのRPGが基本であり、本格的なオンラインゲームでのジョブ毎の立ち回りなどはネットの知識を聞き齧った程度でまるっきり素人。
その後は筋トレにハマってゲームから距離をおいた。
「小説を完結させられない」から「他人」に見せられない、という理由の他にもそうした知識不足な部分でアレコレ言われたりしたくない、という部分もあったのだと今考えるとそう思う。
そしてこの「回復役」と「支援役」とはそのまま自分が過去にしてきた事でもある。
そして「前衛」の後ろで仕事を行う「後衛」という事についても。
子供なんて、特に男の子なんてのは「勇者」「ヒーロー」「戦士」に憧れるものだ。
自分だって似たようなものだ。
だが環境がそれを許さなかった。
「我慢」して「回復役」「支援役」に就かざるをえなかった。
そして自分が前に出る時は誰も後ろにいてくれない。
だから「持ち物」と「逃げ足」だけが早くなる。
「回復役」がいないから「回復薬」を大量に必要となる。
大量の荷物は身体を重くする。
だから細かく拠点を作り、多い荷物を隠さなければ戦闘もままならない。
そしていざ戦闘になれぱ軽装で単独。
深手を負えば死に直結する。
だから一歩先に踏み込めない。常に拠点に「逃げる態勢」を整えている。
大体自分の描くヒーローはそれで痛い目を見て仲間を探してヒロインと出会う。
まぁ自分の定番、というよりもヒロイン登場のシーンの王道の一つではある。
自分に足りない「回復」「支援」が出来るヒロインを求めるわけだ。
その一方で「黒魔道士」的な「後方アタッカー」はヒロインには求めない。
それはつまり「母性」に「攻撃性」を求めていない事でもあると同時に「過去の自分」が母親に攻撃をした事がない、攻撃のために「時間と労力」を奪われた事がない、という事も示している。
代わりに「自分」の中にその攻撃性が「我慢」として内包されている。
だからヒロインに後衛ジョブとして「攻撃性」は求めていない。
またヒロインについては「母性」の象徴の一つとして「時間」の共有も重要な要素だ。
それ故に「母親」の代わりとして「過去」の時間の共有という部分では「幼馴染」というジャンルが都合が良く、使いやすい要素だ。
そのため「回復役」であり、自分の選択した「過去」を肯定する「光のヒロイン」は「幼馴染」を手っ取り早く属性を与えてしまう。
もう片方の「支援役」となり、自分が行動しようとしている「現在」を応援する「闇のヒロイン」は「異質さ」を求める。
過去のエッセイでも「応援」とは「強者」の行動だと語っている。
自分が行動し飛び込む「闇」の中に先に既にいる存在。
「指導」する側面の「母性」が「闇のヒロイン」。
ファンタジー世界に転生なり迷い込んだりした自己投影した主人公。
それを手を引っ張って教えてくれる存在。
別にファンタジー世界でなくても同じで主人公が今から参加しようとするコミュニティ、ジャンルの先輩。
「お姉さん」属性?そんな風に言うのだろうか。
またこの両方の「光と闇」の二つの属性を1つのキャラにまとめたヒロインを書いた時もあるが基本的にそのルールは変わらない。
「幼馴染のお姉さん」も王道的なジャンルだろう。
一方で主人公の前に既にいる、と言う意味では特定の分野においての「オタク」も同じ事だ。
だから「◯◯オタクの幼馴染」も昔からあるジャンルのヒロインだ。もっとも、コチラは幼馴染のお姉さんと比べると王道とは言えないかもしれないが。
勿論、「異世界」においても転がり込んだ主人公に異世界のイロハを教える異世界のヒロインもコレに相当する。
こうしたヒロインだが全てが「奪われた過去の自分」である。
「過去の自分」とは「子供」であり、「子供」とは「喜び」の季節。
「喜び」をヒロインに求める事と「奪われた過去」の返還が結びつけられる。
だから基本的に「最初」に登場するのは「光」だ。
そして光の外の「闇」に気づく。
「両手に華」のヒロインを描く場合、王道だが最初のヒロインである「光」が誘拐などされてそれを取り戻す過程で「闇」と出会う。
そして自分はこの2人のヒロインには逆らえないのだ。
2人の象徴とは自分自身の「過去」と「現在」だから。
どちらかを「悲しませる」結末にはしたくない。
その2パターンが同居している「陰陽」のヒロインについても同じ事だ。
先に「光」の当たる側面を、そして隠された「闇」を知る。
ヒロインが取捨選択に迫られ、光と闇の二つの側面のどちらかを切り捨てようと決断する時、自分がその選択肢を切り捨てる。
ヒロインの光も闇も肯定する。
欲張りだが、そこは「フィクション」だ。
だから自己投影した主人公は2人を幸せにするために「人」を超えた「ヒーロー」となる。
そして自分はそれに疲れた。
ヒロインを剣や魔法と同列の兵器扱いするのはその証だ。
だからヒロインを通してではなく、自分で自分を肯定するようになっていき、必要性のないヒロインを描くのを後回しにするようになった。
そうする事で自分で自分のために「過去」を取り戻す。
自分の「怒り」が強いために「喜び」が対等になる時「人」を超える。
もっともそこには自分の為という以外の理由はない。
だから他人のための「ヒーロー」にはならない。
「魔人」「超人」「人の姿の怪物」。
あるいはフィクションの代表となるモンスター、「竜」。
ヒロイン2人を幸せにしたいという思いを「フィクション」の力で「人」を「ヒーロー」にする。
ヒロインが司る主人公の「過去の肯定」と「現在の応援」。
その2つの力をヒロインではなく別の何かに置き変える。
「武器」や「魔物」、あるいは「戦闘能力」。
自分で制御できる自分の力。
魔物は生き物だが「人間の文化」で生きるわけではない。少なくとも自分が書いてきた小説の世界観では。
「弱肉強食」の自然の理の中の生物。
それゆえに「持ちつ持たれつ」。
「行動」に対しての「返還」が明確だ。
自己投影した主人公は「ヒロイン」を悲しませたりしない。裏切らない。
自分の感じる「恩」と「罪悪感」が悲しませること、裏切ることを許さないようからだ。
そしてそれがヒロインではなく魔物となるだけだ。
そうした物に置き換えるからそれを重視する「超越者」となる。
そしてそこにかつての自分がヒロインというシンボルに見出したように別のシンボル「幸せ」を見出す。
ヒロインの役割は物語に必要だがその役割が女である必要性はない。
「肯定」と「応援」。
ヒーラーとバッファーがいればアタッカーとタンクは自分が兼任する。
そしてそれは自分が「男」である必要性もない。
たんに「男」として描くのは「骨格」と「筋力」、その説得力を上回る理屈を自分には考えられないし、そうした理屈の世界観の設定を0から作り上げるつもるもないからだ。
それが自分が考え、たどり着いた「ヒロイン」の結論。
そして裏返せばヒロインの対となる役回りとなる「ヒーロー」の結論の一つとも言える。




