自分の書いていた小説のヒロイン その2
前回のラストでも触れたがこの「自分が書いた小説」についてエッセイにする事について「エピソードとして語る」とした。
エピソードにする。すなわちもう過去の事だ。
「女嫌い」の本質に、少なくとも原因の「女嫌いの種」が誰から撒かれたのか、という事に気が付かないまま、向き合おうとしないまま、ただ自己満足のために「ヒロイン」を自分が読んでいた二次創作やなろう系小説の定型通りにとりあえず当てはめていた。
勿論、それすらも勘違いである可能性は否めないが過去に比べて向き合ってはいる。
全てが過去の話である。
そして現在は「女嫌い」から「女に無関心」という状態になりつつある。
とはいえ完全に女に興味がなくなったわけではない。
だからこそ「女嫌い」についてを語ったり、「母親」について語ったりしている。
自分の小説における2パターンのヒロイン。
2パターンの「理想的な女性像」。
先に答えを言えば「母性」である。
それは同時に「自分の奪われた物」でもある。
自分の2パターンのヒロイン、「光のヒロイン」と「闇のヒロイン」とは
「自分の事を肯定して受け止めるヒロイン」
「自分の事を応援して受け入れるヒロイン」
の2パターンだ。
それは
「子供を肯定して見守る母親」と「子供の為そうとしている事を応援する母親」である。
「情け」である。
「肯定して受け止めてくれるヒロイン」とは「光のヒロイン」。
「今の自分」を「受け止めてくれる」。
即ち「今の自分」とは「結果」である。
「過去の選択」から導かれた「結果」を受け止める。
「過去」の「選択」に「光」を当て、その「結果」を肯定してくれる。それが「光のヒロイン像」。
「応援して受け入れるヒロイン」とは「闇のヒロイン」。
「未来の自分」を「受け入れてくれる」
即ち「未来の自分」とは「不確定」である。
「今の行動」によって「確定」される事を受け入れる。
「現在」の「行動」によって「闇」の中を突き進む。
その不確定な「闇」の中を行く「行動」を応援してくれる。
それが「闇のヒロイン像」。
この自分の中で「理想的な女性像」として何故この2つが「確固」たる物として固まっているのか、と言えば自分がかつて女に、「母親」にしてやった行為だ。
そしてその行為を「返還」されないまま年齢だけみれば大人になり、その機会が「奪われた」。
自分も含めて「他人へした事」は記憶は曖昧だ。
他人への加害、他人からの強奪、他人への侮辱。
全てにおいて「罪悪感」を感じなければ記憶は消え去る。
だがその一方で「他人からされた事」への記憶ははっきりと残る。
他人から受ける被害、他人に強奪される、他人から侮辱される。
全て「怒り」の感情に包まれ、エピソードとして残る。
コレらはネガティブな感情だ。
そしてネガティブからポジティブに変わると上記の「他人にした事」と「他人からされた事」が逆転する。
「他人」から受けた善意はすぐに曖昧になる。
それに対して「恩」を感じなければ記憶は消え去る。
逆に「他人」にした善意は残る。
「大した事」をしていない、と思わない限り「喜び」のエピソードとして残ってしまう。
意識しないでも残る記憶は「他人からの加害」と「他人への善意」。
意識しないと残らない記憶は「他人への加害」と「他人からの善意」。
その「意識」とは「罪悪感」であり、「恩」を感じる事である。
言い換えれば「罪悪感」と「恩」とは同一のもの。その表裏でもある。
自分のような人間は子供の頃から「罪の意識」を感じてきた事で他人から受ける被害にも善意も「罪悪感」、そして「恩」が混じり合ったまま感じてきた。
だから人が気にしない事、笑って済ませられるような些細な事にも深く心に刻まれ、そして自分がした行動も深い後悔が残る。
自分はこの前の「喜怒哀楽」のエッセイにおいて「怒り」の季節においては「後悔」も「罪悪感」も感じるべきだ、とは語ったし、それは間違えていないとは思う。
だがそれは「喜び」を知った上で「罪悪感」と「恩」をしっかり分ける事が前提の話だ。
他人からの親切には「恩」だけを感じればいい。
だが自分は他人からの親切に「恩」だけではなく「罪悪感」も感じてしまう。
だから親切をしてくれた当の本人が忘れるような小さい事にも気を回してしまう。
小さな親切に対して「恩」を覚える、即ち些細な事に「罪悪感」を覚える。
だから疲れてしまう。
一方で他人への善意にも過剰に記憶に゙残る。
何故なら「ありがとう」というお礼の言葉が返ってくるからだ。
そのお礼に対して自分は同じように「罪悪感」を覚える。
自分は他人へ行う親切については「当たり前」としてやっている。
だからこそ、それにお礼を言われる事について極端に言えば
「他人にわざわざ時間と労力を取らせてお礼を言わせてしまった」
という解釈をしてしまう。
勿論、頭では理解している。
親切をしてもらったらお礼の言葉を言うくらい大した労力も時間もかからない。
こちらの行った親切が「当たり前」であるのと同じように向こうのお礼の言葉もまた「当たり前」である。
だがそんな風に育ってきていない。
母親が、父親が、そして女が屁理屈をこねる。
「息子」だから。
「男」だから。
「長男」だから。
という理由を盾にして自分の善意を「当たり前」として捉えてきて、自分
もそれを当たり前として育った。
礼を言われた事は0とは言わないが極少ない。
そしてそれ故に自分も反芻しない。だから「喜び」のエピソードとして完成されず、成功体験にもならない。
日常的な感覚の自分がした行為自体は記憶からは薄れているのだが「わざわざお礼をさせた」という罪悪感が残る。
いくら行動しても「成功体験」となることはない。
だからこそ「罪悪感」も感じず、「恩」も感じないで済む「単独行動」を好むようになる。
だがそれは自分の中の「男」の部分が「単独行動」を選ぶ。
女嫌いを通り越して片足を突っ込んだ「無関心」の沼。
だがその沼に入れていないもう片方、残した足が「女嫌い」の地を踏んでいる。
罪悪感、恩、そうしたものによって完成した「エピソード」。
だから覚えている。
自分が「された事」は細かく覚えている。
一方で自分が「した事」の詳細は覚えていない。時間が経てばなおさらだ。
しかし「具体的にした事」は覚えていなくても「何かをした事」だけはしっかり記憶にある。
そして「何かをした」という事はすなわち「何かを浪費した」という事でもある。
「金」「時間」「労力」のいずれか。あるいはその全て。
「返還」してほしい、だけど「何を返還してほしいのか」は思い出せない。
だから「返還要求」が「大雑把」となる。
それが記憶から忘れ去られたものと一致するのは難しい。
「多い」か「少ない」か。
「多い」となれば相手からは「恩着せがましい」と言われる。
「少ない」となれば相手から「舐められる」。
そうした「見返り」前提で行動するのは「偽善」だろう。
あまり褒められたものではない。
基本的な道徳であり、様々な宗教の教えでもそう語られる。
だが逆にいえば「見返り」とは本能的という事だ。
人間より獣の方にその性質は近い。
そして大人より子供のほうがその性質は近い。
「母性」を「理想的な女性像」としてヒロインに求めるのはすなわち「子供」の部分が求めている。
逆にいえば「ヒロイン」に「肯定」と「応援」を求めるという事は即ち、主人公として、「ヒーロー」として「選択」と「行動」を返す。
「受け止めてくれる母性」があるから「子供から成長」する。
それが自分が思い描く自己投影した「主人公」と女の理想像を投影した「ヒロイン」の「理想的」な「関係性」だ。
「母親」に出会えていない「子供」の性質がそれをヒロインに求める。
それは「母親を求める」といえば「マザコン」と言えるだろう。
しかし自分の中の「男」の部分が「無関心」の沼に片足を突っ込んでいる。
「女嫌い」の方に残されたのは「子供」の性質の片足。
「女」を通して「母性」を期待を残している、とも言いかえる事が出来る。
期待している「母性」とは「愛情の返還」。
「大人」になるためにその欲求を消失させる事が「成長」とするのであれば、残された片足は「期待」から「無関心」へと足を向かわせる。
それによって「女嫌い」から「女に無関心」は完成される。
自分が書いた小説においてのヒロインに求めるものはなくなる。
ヒロインに求めた事、ヒロインだからこそ求めた事は消える。
男の仲間でも動物でも機械でもモンスターでも構わない。
勿論、女の仲間でも構わないがわざわざ女である必要性も゙なくなる。
返還さえしてくれればソレに見合う行動を主人公にさせる。
そして主人公に出来ない事をさせたキャラにはそれに見合う返還をさせる。
主人公に投影する事が「今の自分」であるならばヒロインとは返還されない「過去の自分」と言いかえる事ができる。
「今の自分」は自分は鏡を見れば分かる。だから主人公はハッキリと外見を認識できる。
「未来の自分」は予想するしかなく、そのために「目標」を思い描き、「仮想」する事しかできない。
それが「結末」であり、その道すがらがストーリーとなる。
だが「過去の自分」を見る事は出来ない。何より、ヒロインは「異性」であり「他人」。
メンタル的な共感ではなく物理的身体を持った「異性であり他人の自分」は存在しない。
だから自分のヒロインは「無貌」のなのかもしれない。




