「女嫌いの加速」とかいう話について その8
少し昔、今ではゲームもダウンロードなどが主流であるが以前はDVD-ROMやCD-ROMなどのディスク。
その前は所謂「ゲームカセット」。
ゲーム機は様々な配色があるがゲームの進化、ゲームカセットからディスクに変わった事で無くなったものがある。
それは「スケルトン」タイプのハードだ。
ディスクを読み取る為の仕様の所為で光の漏れがあってはいけない為、透明なスケルトンタイプのハードは無くなった、との事。
仕様故に仕方ない事とはいえ、透けて見えるその内部の基盤などのメカニカルな物は他の配色にはない魅力があった。
そこには外から操作する綺麗に体裁の整えられたボタンではなく、中の複雑に入り組んだ「仕組み」を覗く事が出来たからだ。
勿論、当時の子供達にはその仕組みを100%理解する者は稀だろう。
だがスケルトンの魅力は外側の「綺麗な外装」にはない「無骨な内側」に「子供」には理解できない「大人」を感じたのだと思う。
突然昔のゲーム機の「スケルトン」を語ったのは「綺麗な外装」でボタンを押せば画面のカーソルやキャラが動くと言う「ゲームをプレイする喜び」が「他人から与えられる女の喜び」と通じると思ったからだ。
なら「母親」とは何か。
それはかつての「スケルトン」なハードから透けて見えたゲーム機を実際に動かす基盤、配線、「無骨な内側」となる事。
「子供」の行った事を「ボタン」として入力を受け取り、それを教育という「画面」に出力する。
「入力」から「出力」の間、一番地味で目に見えない「処理」の工程を担当する。
それが「母親」の役割だ。
ゲーム機に例えたが人間の能力として置き換えるとその「処理」とは「思考」だ。
そして「出力」とは「伝える」という事。
しかし「入力」は子供の役目。
あくまで母親は子供の入力を受け取る「ボタン」。
また出力するのは「正解」ではない。
「子供」の「入力」した物を「処理」して「出力」する。
格闘ゲームはあまり詳しくないが所謂「波動拳」ぐらいなら知っている。
そしてその「波動拳」を出すコマンドは「↓↘︎→+パンチボタン」。
今の格闘ゲームはもっと複雑で難しい技があるとはいえ、結局は「やって覚える」しかない
とはいえそれは「結局のところ」であり、最終的な話である。
そのコマンドを「知識」として知らなければならない。
また闇雲に打っても勝てるわけではなく「使い所」を知る必要がある。
またそこから別の技に「派生」させる「パターン」も応用として知るべき事だ。
そしてそれを一つずつ「やってみる」。
コマンドを教えたらコマンドを自力で出せるようになるまで自力でやらせて見る。
コマンドを任意で出せるまでになれば今度は効果的な使い所を教えてそれを再現して反射的に出せるようにしなければならない。
そうした基本を抑えたら今度は応用、他の技との「連携」や必殺技を攻撃としてではなく「フェイント」代りに使ったりなどいくらでもある。
コレらは格闘ゲームではあるが教育でも同じだ。
基礎知識を覚える。
基礎的な使い方を実践する。
そして応用。
学校でも同じだが、学校で教えるのはどこまでいっても基礎知識だけだ。
どれだけ実践方式であっても、応用的な授業でもあくまで訓練。
本当の実践も応用も社会に出てから。
なら子供が大人となるための「伝える」訓練をするのは誰か。
子供同士のそれは「お喋り」だ。
教師との会話は事務的な「連絡」になり易い。
部活動は訓練になるがそれでもやはり同じ子供同士が基本となるし、顧問の教師も同じ事。
学校外からのコーチはいる場合はあるが必ずいるわけではない。
結局はそこについては学校ではなく、親となる。
「伝える」事には「分かりやすく」するための配慮は必要だが、不必要な「虚飾」はいらない。
かえって迷う。
間違えていたら間違えていた、と指摘するべきだし、あっていれば正解だと褒めるべきだ。
そして褒めるにしても叱るにしても過剰である必要はない。
だが幼稚園児が足し算引き算ができるのと、小学1年生が出来るのとでは違う。
他所の子供に暴力を振るって怪我をさせた事に叱るのと自転車に乗れるようになるために時間を忘れて練習して門限を超えた事を叱るのでは違う。
子供のした行為、年齢、理解度で適切な評価の仕方がある。
それが子供が入力したボタンから基盤を介して出力する「母親」のやるべき処理だ。
格闘ゲームから例えを「母親の仕事」として「家事」に変えよう。
まず前提で揚げ足取られたくないから言って置くが「家事」を「女の仕事」と、と言いたいわけではない。
「女嫌い」をテーマにして、「母親」と「息子」の関係に置き換えた時に「伝えるためのエピソード」の一つの手段として「家事」を選んだだけだ。
その「家事」で「掃除」がある。
果たして、この「掃除」自体は「誰のため」の仕事だろうか。
「家事」だから「家に住む皆」のため?
それなら自分の部屋だけでよくないか?
また一人暮らしだと部屋が汚くなる、特に部屋に人を入れない、帰ったら寝るだけ、のような話もある。
汚い部屋でもその部屋の主が物の位置を把握していれば問題ないじゃないか?
一体何のために「掃除」するのか?
それは「母親」自身のために掃除をする。
汚い部屋では気分が憂鬱になる。
もしも来客が来たら恥ずかしい。
姑に叱られるから。
色んな理由があるが全て「自分」の事だ。
「体調」も「恥」も「姑から叱られる」のも。
コレが対等な「男女」であれば「常識」「普通」、そうした理屈のない「多数派」の力、「数の力」でゴリ押すのも間違いではない。
だが「母親」が「伝える」のは対等な「男」ではなく、「子供」だ。
果たして「教育」のために何と「伝える」?
「普通」「常識」の一言で反論を封じるのは母親で無くても誰でも出来る。
「ゴリ押す」のは「甘え」だ。
かといって自分の欲求をただ言葉にするのでは子供と同じだ。
「自分」の欲求のためなら「自分」でやれ、と言う話になる。
「子供」の教育の一環として「子供」が自発的にやろうとするように誘発させるためには「子供」が「掃除したい」「掃除しなければ」と言う欲求を持つように仕向けなければならない。
極端な話にはなるがゴミ屋敷や汚部屋に住む人間は片付けたところである程度するとすぐにまた戻る。
様々な理由があるがそのゴミ屋敷、汚部屋の主の心に「寂しさ」を感じている事が共通点として多い。
その「寂しさ」を紛らわすために部屋の中を心に見立てて物を集め、ゴミも捨てず、スペースを埋める。
こうした人間と同じように部屋を散らかす子供の心の中に「
寂しさ」を抱えていればいくら母親が「掃除」の「良さ」を語った所で「掃除をしたい」と言う欲求にはならない。
勿論、ただの「我儘」で片付けないのかもしれない。
色んなパターンがある。
しかし、母親に「自分のため」の欲求があるように子供には子供の「自分のため」の欲求がある。
だから母親は子供のことを「見る」必要がある。
子供の言葉を「聴く」必要がある。
子供のために「考える」必要がある。
そうして子供から受け取った「入力」を「処理」して子供自身の欲求を「伝える」。
それは誰でも言える「普通」や「常識」といったものではなく、「子供のために寄り添った母親」だから「伝える」事が出来る事だと自分は思う。
そして「伝える」能力を「女」が「母親」となるために、あるいは「幸せ」になるために備えなくてはいけない能力、そんな風に日本が向かったなら「女嫌い」は無くなるのではないか、と思う。
「お喋り」ではない、「伝える力」を。




