「女嫌いの加速」とかいう話について その7
結局、「女嫌いの加速」なんてのは「女嫌い」個人の問題じゃない。
それが社会問題として「社会」が扱うなら尚更。
同時に「女嫌い」から嫌われる「女」と言うのが「母親」を始めとした「古い世代」であり、「若い女」ではない。
しかしその「若い女」も「旧世代の価値観」を植え付けられた被害者という見方もできる。
とはいえ「女嫌い」からすれば自分を切り捨てた連中の事など「知った事じゃない」。
それもまた「女嫌い」を「自己責任」と切り捨てた「旧世代」の人間のやり方と似ている節がある。
結局のところエッセイの初期の頃に書いた責任の「区切り」をつけて「自分」と「身近の人間」と「社会」の最低限3分割で責任を切り分けて適切な責任をとるしかない。
加害者も被害者も、傍観者も。
またここまで「若い女」「古い女」と分けて来たが「若けりゃ許される」とかではない。
むしろそうした「若けりゃ許される」と思う事自体が既に「旧世代」の証の考え方だと思う。
若者が「喜び」のエピソードを得るために大人が「怒り」を堪えて許す。そして大人もまた、「怒り」のエピソードを得るために受け入れる。
「若けりゃ許される」でも「女だから許される」も違う。
さて、とりあえず補足みたいな話をしたが結局日本の「女嫌い」の問題は何処にあるのか。
責任の所在を辿れば母親、その母親の両親、と遡り、とりあえずの区切りとして「戦後」に辿り着く。
「戦後」では「女嫌い」の種を子供に植え付ける事になってでも生きるためには仕方なかった。
ではそれを「異常事態」に「馴れ」たのがいけなかったのか。
確かにそれもそうだ。
しかしその「異常事態」に「馴れた」おかげで奇しくも「日本」というオリジナリティが確立したのも世界的な視点から見るとなくもない。
「被害」や「犠牲」はでた。
被害者、犠牲者というその当事者からすると怒り心頭であるが実際に「次はそうならないために」という思想から様々な対策が生まれた。文化が生まれた。
「正義」は見方次第で解釈は変化する。
だからこの「女嫌い」という社会問題も課題として捉える事もできる。
問題はその社会自身が自分達の課題として向き合わず、あくまで「女嫌い」は「女嫌い当事者」の問題としてしか認識していないことだが。
それを自分なりにエッセイとして「女嫌い」の責任の所在を語って来たつもりだが、もっとシンプルに「解決」するためには何をすべきなのか。
そのためにはまず、そもそも何を持って「女嫌いの社会問題の解決」とすべきなのか。
動画投稿サイトで著作権絡みなどの問題のある動画がアップロードされては消され、そして消されてはまた別の誰かがアップする。
「消すと増えます」なんていう風にも言われたものだ。
女嫌いにしても前の話でしたように根本的な対策を取らないまま社会から排除した所で消えるのは「今ある女嫌い」であり、消した所でまた新たな「女嫌い」が産まれる。
発端は「女」。
「始まり」が「女が台」になっているから、大切にしなければならない。
だから「女を大切にしなさい」という話をこの前のエッセイで例えにした。
ならば解決となる「終わり」とは何か。
ネットで軽く調べるともとは「冬」そのものが糸の両端を結び、つけたものの象形であり、今の「終わり」を示していたらしい。
そこから転じて「一年の終わりの季節」としての冬も意味するようになった。
しかし今度は2つの意味が混同した事で文章として使いづらくなってしまい、「季節」と「終わり」を使い分けるために「終」の字が作られた。
「始まり」が「女」が「台」となる。
「終わり」は「糸」が「結ばれる」。
これらを繋げると奇しくも「結婚」を示す、と自分は解釈した。
なんの為に結婚するのか、多様化した現代には様々な理由があるだろう。
だが本来の結婚は「好きな人」と結ばれるためではない。
ただ好きな人と一緒にいたいなら恋人同士でいい。
好きな人と一緒に暮らしたいだけなら同棲でいい。
原始時代や戦国時代でもなければ、海外の途上国でもない。
現代日本という安全な時代、安全な国で「女」が「男」に守られる為に必要な契約でもない。
「男」と「女」の視点で見れば結婚はこの国においてはそうした緊急性、必要性はない。
しかしそれでも「緊急性」、「必要性」が迫られる結婚がある。
所謂「できちゃった結婚」である。
婚前交渉によって「子供」を妊娠したから男は責任をとって「結婚」しなければならない。
勿論、逃げる男や一人で育てる女もいないわけではないが。
結局のところ「結婚」の役割とは「子供」のための契約だ。
「子供」を「作るため」「守るため」「育てるため」。
女一人でも生きられる時代。
だけど子供を育てながら、守りながらは女一人では辛い。
だから結婚する。
「女」が「自分」を守ってもらうために「結婚」するのではない。
「男」が「女」や「名声」を得るために「結婚」するのではない。
「子供」を「自分達」で「守りながら育てる」。
そのための「結婚」である。
結局は自分のエッセイで何度も書いてきた事で見飽きた話、聞き飽きた話であるかもしれないが「始まり」から「終わり」。
「女」から始まり、「糸」が結ばれる事で解決する。
「結婚」が「終わり」を示す。
ならば結婚が女の終わりを示す。
そこから先は「子供」のために「母親」となる。
「女」として「終わり」の結び目を「結婚」で誓う。
「結婚は女の幸せ」とは昔から言われる言葉だ。
しかしそれは「女の喜び」ではなく「女」と「母親」の区切りを付ける「誓い」である。
「女」として「喜び」の季節に終わりを告げる。
「母親」として「怒り」の季節のスタート地点に立つ。
「結婚」は「子供のため」の契約である。
それは「自分」が選んだ選択肢である。
「女」から「母親」へと変化するための区切りの「誓い」。
「女」としての「最後の仕事」であり、「母親」としての「最初の仕事」。
「子どものため」に「自分」が「選択」した事、それが「結婚」である。
「なし崩し的に」「常識的に」「普通の事」そうした言い訳は結婚前の「女」である内に済ませておけ。
「母親」になるとは「受刑者」になる事に近い。
子どものためにしてやるべき事、あるいはしてやった事を「後悔」と「罪悪感」で悩み、それを糧に「反省」と「自問自答」を繰り返す。
そして心の底から「謝罪」をして「更生」していく。
その「母親となる覚悟」が「女の最後の仕事」であり、「母親としての最初の仕事」。
そして「女嫌い」の「終わり」の「始まり」。
その「結び目」。
ただ「誓い」を立てただけでは何も変わらない。
だが「誓い」を立てれば変わっていこうとする気持ちになる。




