「女嫌いの加速」とかいう話について その6
「女嫌い」は4つの段階がある事を長々と語ってきた。
母親から植え付けられる「種」
その「種」に同世代の女から受ける理不尽な仕打ちを受ける事で種が成長する「発芽」。
その「発芽」状態で仲間だと思っていた同性の男から切り捨てられる事で成長し「開花」。
そしてその「開花」状態を社会が社会問題としながら自己責任として社会的にも切り捨てられる事で「結実」する。
そこから先、「女嫌い」が起こすのは「事件」であり、「事故」であり、「女嫌いの誕生」の経緯とは別問題だ。
結実した実の中身をどう解放するのか、他人に向けるのか、社会に向けるのか。
はたまた自分に向けるのか。
どちらにしろ、「女嫌い」になる経緯では被害者。
「女嫌い」になってから起こす事は加害者。
シンプルな理屈だが、「女嫌い」を作り出す加害者側が現実を見ようとしなければ遠回りして逃げ道を探り続けて結局時間と体力、場合によっては金も浪費する。
そして浪費させられたと言う事に対して怒り、感情に振り回されて尚更加害者達の「女嫌い」への加害行為は勢いを増す。
その悪循環に身を任せ、向き合うべき「後悔」と「罪悪感」から逃げる。
被害者たる「女嫌い」は多数派となる加害者の「怒り」に付き合わされて自分で克服する手段や余裕もなくなる。
だから「女嫌い」は「女に無関心」となる。
「女嫌い」だって本当は「普通」でありたい。
「人並みの幸せ」を得たい。
この「人並み」と言う「他人」の基準。
この基準は結局の所「結婚」と「子供」。
何故それが「人並み」か、と言われれば「親」に認められたいからだ。
そして親の世代が作り上げた「社会」に認められたいからだ。
そしてそれを「女嫌い」から「女に無関心」となると言うことは単純に「女」との決別だけではなく、「親」と「社会」の決別となる。
言い換えると「旧世代」との決別である。
「旧世代との決別」と書くと見方によっては「新時代」とかポジティブに見られかねないがそんな事はない。
何故なら「新」は「旧」があって成り立つ。
第一世代がなければ第二世代はない。
旧世代との繋がりを消すと言うことはそこから先はない。
肉体的なものだけで言えば技術が発達すればフィクションのような機械化された肉体や家畜のように大量生産される労働力としての人間がそのうち現れるかもしれない。
現実の社会でも似たような状態だ。
SNSの普及でキラキラした人間を芸能医学の一般人の中にも観測できるようになったが「本物」は極一部。
大多数は本物を真似て外側を取り繕った「偽物」だ。
有能は多くて上位の1/3。
賢者、勝者、敗者の理屈。
勝者は敗者より勝ち星が多い、と言うだけで小さな差でしかない。
しかし賢者と勝者の差は勝ち星の数ではなく、それ以上に勝負の質と勝ち星以外の見えない部分の大きな差がある。
大多数の常人は大差がない低脳である。
そうした大多数が低脳な「旧世代」の力を引き上げるのは極一部の有能な賢者にのみ特権を与え、力を蓄えさせる「上限突破」ではない。
大多数が「旧世代」なのだ。大多数を「新世代」に引き上げる「基礎」の強化、拡張。「下限値上昇」だ。
さて話を「女嫌い」に戻すと数年前から「医大の入試における男女差別」があった。
それだけを見ると「医大」の性差別問題なのだが最初にこの問題が話題になった時に当時「美人な医者でありタレント」と言うような立ち位置でバラエティにも結構出ていたタレント女医がいた。
そうした話が当事者として話を振られた際に発言し、今で言う炎上した事が何となく覚えている。
そのタレント女医は「自分も大学側なら男女に差をつける」と言う。
それは同じ女だから女を優遇する、と言う事ではなく、逆に男を優遇すると言う話だった。
その女医曰く「どれだけ入試や大学内で優秀な成績であったとしても女はまっとうに医療機関に向かうより美容系に向かいやすい傾向がある」と言う事。
自分の人生だからそれは自由と言われればそれまでではあるが「医大」や「国」などは人材不足が叫ばれて久しい医療現場への投資として学ばせる。
だから卒業後は素直に医療の方に向かってくれる「男」にゲタを履かせて多少成績が劣るとしても男を取るのだ、と。
ただこの発言をした女医自身がその「美容系」の人間であり、「ブーメラン」である事と「お前みたいな女のせいで医大で男女差別があるんだ」と言う非難の声で炎上したわけだが。
ただこの炎上だがコロナ禍で医療現場の崩壊など騒がれた時にちょこちょこSNSで同じような発言をしている「女の医療関係者」を見かける。
「激務な上にそれに見合わない薄給。美容系に向かうほうが賢い」と。
とはいえそれは恐らく「皆」思っているので皆がそれを選択すればすぐに飽和状態になるだろうからとても賢いとは言えないし、そうやって発言する事でSNSを見て「背中を押されてしまう」人間が出て来れば尚更人材不足に拍車がかかり、結局自分の首を絞める事になる。
そして「だから男を取るべきだ」とならざるを得なくなる。
自分は「女嫌い」については母親(前時代の女)>父親(第三者の男)>若い女(学校や社会で理不尽な仕打ちをしてくる男)>女嫌いの順に罪の大きさが大きいと考えている。
加えて言うなら加害者側である「若い女」もまた「女嫌い」の次点の被害者であり、その次は「父親」もまた被害者である。
父親が被害者なのは前話である程度語った。
だがそうした「親」の元で「息子」が「女嫌い」の種を植え付けられるのと同様に「娘」もまた「旧世代」の種を植え付けられる。
女が未熟なまま母親となり、ずっと「ベテラン新人母親」でいる限り、男もまたそれに倣って「ベテラン新人父親」となる。
その両親の元で娘はそれが「あるべき女」と「あるべき男」の姿だと学び、それを同世代の男を使って実践する。
結果、実践の標的からは嫌われるが「ベテラン新人母親」がそうであるように「泣いて男の責任に転嫁」すれば社会的には安泰だ。
教師も面倒だし、口出ししてモンスターペアレントなど相手もしたくない。
何故なら数ある職業の中で敢えて教師になる選択した者の多くは程度の差はあれど学校に対して「良いイメージ」があるからだ。
子供の頃にイジメられた過去を持ち、学校に「負のイメージ」しかない人間がわざわざ学校に就職しようとは思わない。
言い換えれば教師は「良いイメージ」が根本にあり、イジメ問題などとはかけ離れた人材、あるいは加害者側、「旧世代」の恩恵を受けてきたを人間が多い。
しかし本来ならそうした人間は適さない。
イジメなどの負の側面を直視する覚悟、後悔と罪悪感を背負う強さを備えていないからだ。
直視できる人間はむしろ負の側面ばかりを見て馴れた人間だが「女嫌い」において「女へ無関心」となったように学校関係者になる者はほぼいない。
仮に居たとしても「負の部分を無くす」「改革」に取り憑かれている場合が多く、結果として「負を直視する事に馴れた」からといって「強い人間」とも限らない。
そうした様々な要因が絡まりあって「旧世代」を盤石なものにしてしまう。
「女嫌い」を自分達で発生させながらその女嫌いの被害者の所為にするという「異常事態」を「常態化」させ、「普通」として「文化」として「若い世代」に伝える。
それが「小さな社会」で外界と遮断されていれば問題ないが、残念ながら子供でもネットを通じて外界と繋がる社会だ。
「他人」「他所」「異文化」「異性」「異質」
「自分」と異なる物はすぐに目が入り、「比較」する。
そして「自慢」し、「我慢」する。
上から目線、下から目線を繰り返す。
良い所を見て学び、悪い所を見て反省する。
だから大人、「怒り」の季節において後悔と罪悪感が自分のため、何より子供のために必要となる。
良かれ、と思って行った行為も見方が変われば悪行と化す。
例えば「害獣駆除」や警察の「発砲」
「生きる為」「守るため」に外敵を殺すのは仕方ない。
だがその攻撃性を此方に向けられる恐怖、人権、動物保護、それぞれの見方をする人間がいる。
あくまで害獣駆除や警察のそれが「正議」とされるのはそれが「制限」があるからだ。
世界に゙目を向ければ「行き過ぎた正議」など何処にでも転がっていて、そうならないように別の見方の「正議」がある。
良く言われる「正議と別の正義の争い」だがいずれの正義も「過剰」である事が問題となる。
話があちこちに飛ぶが今回の「女嫌い」で言いたいのは男が最大の被害者であるが、その男に学校や会社などで攻撃した女もまた「古い世代」からの被害者である。
そして「女嫌い」が種を撒いた者を誤認したままでは結局「女嫌い」は結実してしまうように「若い女」もまた、男を攻撃する時、「古い世代」の真似であることを自覚せず、成長してしまえば「古い女」となる。
将来的に結婚し子供を産めば長期に゙渡り「ベテラン新人母親」としてパートナーの男を裏切り、息子と娘にそれぞれ種を植え付ける最大の「女嫌い」問題の加害者になる。
「女嫌い」問題において「若い女」個人の責任は小さな物だ。
だがその小さな責任を放置して無自覚に「古い女」として成長し、「旧世代」となればその責任は大きくなる。
「旧世代」が振りかざすその「正義」に「制限」はあるのか。
それは外部の人間、少数派の人間が言った所でどうせ聞き入れないのだろう。
だからこそ「旧世代」の人間が考えるべきことである。




