「女嫌いの加速」とかいう話について その5
その4で語ったように「女として成熟しているかどうか」はその女が「一人でも幸せであるかどうか」。
もっと単純にいえば「一人でも充実して幸せそうかどうか」となる。
客観的に見れば誰でも分かる事であり、ましてや「結婚」を考える段階なら「それなりに近くにいて」「それなりの時間を共有し」「それなりにお互いを愛している」。
恋人ならそれは分かる筈だ。
「ガキ」じゃねぇんだ。
弱者男性と違って経験豊富な「多数派様」に出来ないことはないだろう。
けどそれは理屈だけ。
事実、「女嫌い」の空気が社会を覆っている。
結局のところ、「他人から得られる事でしか幸せを感じられない未熟な女」がいるのは男もまた同じように「他人から得られる事でしか幸せを感じられない未熟な男」であるからに他ならない。
女は男から「与えられたい」、一方で男もまた女から「与えられたい」。
ただ、この「与えられたい」と言う欲求は女の場合、「父親を始め、男から与えられてきたから」と言う基準の高さからくる物である。
80点の愛じゃ足りない。100点が欲しい。
一方で男の場合は「母親を始めとした女から与えられてこなかったから」と言う0からくるもの。
いい加減俺達だって60点じゃ足りない、80点でも良いから欲しい。
だから男はパートナーの女が母親になると逃げる。
パートナーは子供優先、大人の自分は二の次になるから。
基本的に男女平等と言われて久しいが、それでも女が母親として家を仕切る。
それは良いのだがその結果、男を蔑ろにする。
女が母親となる上で男のサポート無しで成ることが出来たという経緯を忘れる。
「忙しい」
喜怒哀楽の「哀」の話の時に語ったが「忙しい」と心を亡くす。
自分が背負うべき物のために、他者への配慮を忘れてしまう。けどそれは背負うべきもの、守るべきもののために仕方ない子供。
なら、「母親」にとって背負うべき者は「子供」だからパートナーの男の事は忘れても良いのか。
良いわけがない。
確かに「母親」として、そして「大人」として「守るべき」は子供が第一だ。
だがそれ以前に大多数は「夫婦」として契約を結んでいる。
フリーな男女から「つがい」となる「誓い」をしている。
お互いに助け合う、守り合う。
子供よりまず最初に「守る」という選択を向けるのはパートナーに向けてである。
子供が第一は確かにそうだ。
だがだからといってパートナーの男をその他大勢の男と同列、あるいはそれ以下の奴隷のように扱って良いわけがない。
そして妊娠、出産、母乳育児を経て男より先んじて「親」となった女からそうした仕打ちを受ければ男も「親」という立場を利用し、パートナーの女を蔑ろにする。
それは男の弱さであると同時に夫婦になる上で女が最初に立てた「誓い」を母親となる事で忘れるからだ。
男を大切にしないから女として大切に扱われない。
「親だから忙しくて仕方ない」という逃げ道を作ってしまったから男も「親だから忙しくて仕方ない」という逃げ道を平然と使う。
子供が親を見て学ぶように、男も同じ。
自分より先んじて「親」となったパートナーの姿を見て学ぶ。
主に3つ。
「子供のためという建前があれば男は雑に扱って良い」
「親という立場があれば夫婦という誓いを反故にしても良い」
「パートナーはもう自分が守るべき誓いを立てた『女』ではない」
だから「親」となる事は辛い。苦労もある。
分かりきっている事だ。
だからこそ「お互いを守ろう」と夫婦となったのにその誓いを破った。
ぶっちゃけ「誓い」には強制力はないから破ろうが守ろうがどうでもいい。
契約上の「夫婦」としての法、ルールさえ守れば「夫婦」として問題ない。
ただ「誓い」を破ったら破り返される。
女として男を守る事を忘れれば、男として女を守る事は忘れられる。
母親という立場を良いわけに使えば、父親としての立場を言い訳に使われる。
そうした「ああ言えばこう言う」状態のパートナーの男を情けないと見限って若い子供達を育てる事で幸せになろうと考えれば、「言い訳しかしない」状態のパートナーの女を情けないと身限れば不倫をしたり、あるいは自分が子供に夢中になる。
そしてそれを子供達は学ぶ。
「子は鎹」
鎹とは異なる材木を繋ぎ止めるクギのような物。
転じて子供が夫婦の仲を繋ぎ止める役割をする、という事を示す話を表したものだが仮に子供が夫婦を繋ぎ止めるクギだとしても繋ぎ止めた物がそれぞれ別の方向を向いてそれぞれ勝手に動けばクギは曲がり、変形し、やがて壊れる。
クギが粗悪品だったわけじゃない、繋ぎ止めた材木が既に歪んでる。
昨今の弱者男性の事件においてその背景には「過干渉の母親」が居る事は少なくない。
それをニュースなどで報道される時、キャスター、コメンテーター、あるいはネットのコメントなどを見ると分かりやすい「母親」だけを攻撃する。
しかし「父親」に目を向けるのは稀だ。
場合によっては息子であり犯罪者の弱者男性とそれを生んだ過激な母親と一緒にされて同情される事もある。
逆。
母親が過激なら止めるのが父親であり、女を止めるパートナーとしての男。
止めないのは「止めない」という選択をした。
自分が雑に扱われる事で「息子」にも自分と同じように男として雑に扱われる事に罪悪感を感じない。
あるいはそうして母親から男として奴隷として扱われることを「親からの愛」として解釈する事で罪悪感から逃げている。
犯罪者の親族だという烙印を押された被害者?とんでもない。それは弱者男性の兄妹、あるいは親戚など止める力を持たない者が被害者だ。
父親獅子は弱者男性を生み出した共犯者であり、犯罪者を生み出した黒幕の1人だ。
「母親」の「未熟さ」を探ればそこから逃げる「父親」の「未熟さ」も認識する。
そうして視野を広げて行けば「母親の両親」と「父親の両親」、そのまた前の世代と「未熟さ」の根源をドンドン遡る事になる。
一方でその世代の社会背景にも目を向けなければならなくなる。
そうすれば今の価値観で考える「昔の価値観」の差についても考慮しなくてはならない。
そうやって考えだすと「女嫌い」は誰のせいか、混乱して分からなくなりそうだが、結局は「女」が悪い。
どんなに「女以外」に責任の所在を求めようと何処まで遡っても結局は「女」が加害者なのは変わらない。
と言うより、遡れば遡るほど「女嫌いの原因」を様々な視点から見つめる事となり、加害者である「女」の逃げ場を封じるだけ。
「種」は母親。
「水や肥料」は同世代の女。
「花となり実となる」まで放置したのは周りの男。
主犯と共犯者その1、その2。
それにはなんら変わりはない。
「女嫌い」となった者達はまるで加害者のように扱われるがそれは起こした事件そのもの、それだけに適応される。
逆に言えば事件を起こさない女嫌いを社会に対する加害者のようにするのであればそのきっかけを掘り下げる必要がある。
そしてそれが万が一どこにでもある「普通の事」という認識なのであれば、それはもはや「普通」となっている事自体がもう「異常」だ。
コロナ禍の時に言われた「緊急事態の常態化」、つまりは「馴れ」。
母親として成熟したのではなく、「母親1年目」、あるいは「新人母親」として「馴れた」
だから常に「忙しく」していなくてはならない。
常に忙しくして「新人母親」でいれば「パートナーの男」を守るという最初に立てた誓いに目を背けたままでいられるから。
「家具」はドンドン進化して子供もドンドン手がかからなくなる筈なのに。
「忙しさ」だけを理由に「パートナーの男を守る」という誓いから逃げる中身の無い言い訳が罷り通るのは子供の成長が特に早く、第二次性徴が始まる10歳になる頃まで。
プラス「土用」の節目を入れて最大で5年。
15年も「ベテラン新人母親」を続けて「馴れきった」後、残りたった10年で今まで蔑ろにした男への罪悪感と向かい合う。
清算しようとする者もいるだろうが結局は「馴れた選択肢」を選ぶ。
子供だって15年もすれば自我は芽生え、その母親に思う所は出てくる。
15年すれば「母親の責務から解放される」のではない。
「母親としての特権」を求め「子供へ期待」、他人に期待をしていく限りは母親の責務は続く。
ただ「良妻賢母」になりたいなら「ベテラン新人母親」という肩書きにずっと待たされた男に向き合うべき時。
そんな称号要らない、なら「良妻」としても「賢母」としての地位を失う。
そこには老いて醜い「娘だった」中古品が残る。
プレミアなんてつかない。
他人を自分のための消耗品としてしか捉えて来なかった人間は、結局自分も消耗品としてしか見てもらえないというだけだ。
本当は女嫌いの共犯者の「第三者の男」として父親について深掘りするつもりだったけど、なんか区切りをつけないまま書いてたら結局「女」と「母親」についてになってしまった。
まぁ、でも最終的な答えはそれだし仕方ないか。




