「女嫌いの加速」とかいう話について その4
毎度の事ながら話が長い。
「自分がたくさん稼いで、苦労をさせません。貴方を幸せにします」
このプロポーズの台詞、どちらの性別で思い浮かべましたか?
無意識の偏見を…と、まるで某CMを彷彿とさせるのだが、実際この文字列だけ見てコレを言っているのは男女どちらか、といえば十中八九「男」が「女」に向かって言っているのを想像するだろう。
そもそも台詞云々以前にプロポーズ自体が男から女にする、というイメージは強い。
コレを「男女平等に女からもプロポーズしろ」とかそうした話をするつもりはないし、それは「弱者男性」で「女嫌い」の自分からすると「どうぞご勝手に」というスタンスしかとれない。
ただ例に挙げたこのプロポーズは昔の恋愛ドラマなどではポピュラーな台詞である。
またラジオ番組などでは結婚絡みのエピソードをリスナーから募集すれば決まって上記の台詞に近いプロポーズを受けて結婚した、というようなメッセージが送られてくる。
最も結婚して20年30年、あるいは40年と言うそれなりに「前の時代」であるが。
基本的にこのプロポーズ通り「稼ぎます」「苦労させない」「幸せにする」というのはまず宣言通りにいかないし不可能。
「稼ぎ」はまっとうな仕事をするなら能力に見合った額しか稼げない。
「苦労」に関してはほぼ間違いなく100%する。
「幸せ」についてはプロポーズした側ではなくされた側のさじ加減次第。
だから「嘘」になる確率は非常に高い。
ただ「節目」として「宣言」、「誓う」事は良い。
だがその「誓い」をプロポーズされた側が真に受けたらそれは「契約」の「掲示」でしかない。
そして結婚は国の「法」の「契約」という側面がある。
だから混同する。
「結婚」というシステムの力と「プロポーズ」という言葉の力。
「結婚」の契約は法によって定められているもので強制力が働く。
だが「プロポーズ」については「誓い」であってそれには社会的には何の力もない。
「誓い」とは自分を突き動かす原動力でしかない。
ただ、プロポーズを受け取った側が「未熟」なら混同する。
「プロポーズ」と「結婚」をイコールで繋ぐ。
それはつまり「プロポーズ」と「契約」もイコールで繋ぐ。
「プロポーズ」の内容は「契約内容」そのものとなる。
例にあげたプロポーズの「自分がたくさん稼ぐ」、「苦労させない」「幸せにする」というものは契約を提示した側が自分に与えなくてはならない「報酬」でなくてはならない、と解釈する。
だからそのプロポーズの通り「苦労しなくても旦那がたくさん稼ぎ、自分が幸せ」であってようやくプロポーズという契約、「求人票」通りの報酬となる。
逆にいえば「苦労しなくてもそれなりに暮らせる程度の稼ぎ」や「苦労してるけど裕福」などではあらかじめ提示されたものとは異なる。
だから「幸せ」とはならない。
何故プロポーズをあーだこーだと「女嫌い」のテーマで語るのか。
前回までに語ったように女嫌いの原因が「未熟な母親」が原因なら、何故「未熟な母親」なら息子が「女嫌い」の種を植え付けられるのか。
未熟な者、つまり子供同士とか若手同士や新人同士でもそれなりに楽しくやれるし、うまくいく事もある。
何故それが「未熟な母親」と「息子」ではうまくいかないのか。
いや、それも正確な表現ではない。
「未熟な母親」と「息子」の間でもうまくいっている者はいる。
というより「未熟な母親」が育児がうまくいかないのであれば長男、長女は100%未熟な親に当たる訳で捨て石にされる。
そうやって考えた場合、何が問題かといえば「母親」の前の段階、「女」としての成熟度が足りないという事だ。
「女」としての成熟度を「男」が、それも「弱者男性」が語る。
自分で書いていて笑えてくる。
とはいえ別に自分個人の「理想の女」を語るつもりはない。
これまでのエッセイと同じように「喜怒哀楽」の「喜び」の季節に区切りをつけたかどうか。
「怒り」を迎え入れる「覚悟」があるかどうか。
そしてそれは「後悔」と「罪悪感」を受け入れる「覚悟」があるかどうか。
「喜び」の話の時に触れたのだが、「嬉しい」と「喜び」の違い。
「嬉しい」とは他者から「与えられる事」を指す。
「喜び」とは自分で考え、行動し、達成する事。自分が「成し遂げた事」を指す。
女としての成熟度の高さとは「嬉しい」から「喜び」に移行する。
「他人から与えられる事」に価値を置くのではなく、「自分が成し遂げた事」に価値をおく。
その価値観の変化が成熟度合いを示すものである。
この価値観の変化が必要な理由は単純で「女」から「母親」になれば「子供」に対して「与える」立場となるからだ。
女として「与えられる側」から母親として「与える側」に。
「嬉しい」から「喜ばせる」に変わる。
ただその節目、境界線に「自分が成し遂げる事の喜び」がある。
また、その「成し遂げる喜び」を知らなければ子供の挑戦、成長を「自分の事のように喜ぶ」という事が出来ない。
男より秀でている女の「共感能力」は自分にその感情が備わっていなければ活かされない。
そのためには「自分の事」に置き換えて考えるという「例え話」をして納得する必要がある。
それは「もしも」の話、「たられば」とも言われる。
基本的にこの「もしも」「たられば」は良く思われない。
「もしもあの時ああしていれば」
ウジウジ考えたところで何も変わらない。
それはつまり自分の選択肢のうち、「選ばなかった選択肢」に対する「後悔」である。
だがそうやって考える事は共感能力の向上に、少なくとも「他人の事」を「自分の事」に置き換える能力は身につく。
それが出来れば自然と「罪悪感」も出てくる。
何故ならいくつかある「選択肢」の内で「自分が取った行動」のせいで他人にかかる「負担」もまた「自分に置き換える」事も出来るから。
そうやってウジウジ「後悔」と「罪悪感」だけでは何も出来なくなる。「怒り」に耐えるのは自己嫌悪しか生まない。
しかしその「後悔」と「罪悪感」が「喜び」と組み合わされば複数の選択肢を見つける「視野の広さ」とそれらの選択肢の結果を予測する「予知能力」となる。
予知能力、と言ってもオカルトではない。
「予め知る」
つまりはネタバレだ。
ホラーでもサスペンスでもネタバレが有れば怖い場面、びっくりする場合に「備える事」ができる。
視野の広さで「多方面」について予知能力で「備える」
それを子供に学ばせ、達成させる。
それを子供の成長とし、その子供という他人の成長を「自分のように喜ぶ」。
堂々巡りだがそのために「喜び」と「怒り」が必要である。
そして「喜び」については人生100年時代においてどれだけ「節目」を引き伸ばしても30歳程度。
そして初婚年齢の平均は29歳程と「喜び」の終わりとかなり近い。
即ち、その結婚のきっかけがお見合いだろうが恋愛だろうが、あるいはデキ婚だろうが関係なく、「喜び」の季節に区切りをつけておかなけれならない。
それは「女として」というより「人間として」である。
「母親としては未熟」であっても仕方ない。
しかし「女」として、あるいは「人間」として一つの区切り、成熟していなければならない。
一つの命を預かる上では当たり前だり
「他人から与えられる事を嬉しがる」のではなく、「自分で達成した事を喜ぶ」。
「未熟な女」とは「喜び」の季節に区切りをつけられていない。
「自分で成し遂げた事」ではなく他人から与えられる事に価値を見出すから「プロポーズ」の言葉を「誓い」ではなく、「自分に提示された報酬」と勘違いする。
一方で「成熟した女」とは「喜び」の季節に区切りをつけた者。
即ち、自分が達成した事に価値を見出せる人間は「プロポーズ」で提示された「他人から提示された幸せ」を得る前の段階で「自分で成し遂げる喜び」を知っているし、持っている。
「与えられる幸せ」ではなく、「自分の手で得た幸せ」。
「毒親」になるかどうか、「女嫌い」の種を子供に植え付けるかどうかは「女」自身が1人で達成し、幸せかどうかを見れば分かる。
他人から与えられる事しか分からない者は若いから与えられるが老いれば与えられる事はなくなる。
だから他人から幸せを奪うようになる。
そんな事しなくても幸せになれるのに、他人から与えられなければ価値がない、幸せを感じられないから奪う。
だからパートナーの男から奪い、男の次は子供から奪う。
そうして鬼婆として子供の成長を阻害して「女嫌い」を植え付ける。
奪う事への「後悔」もなく「罪悪感」もない。
それは「戦後直後」の誰もがひもじくて今日生きるのに必死なは「仕方ない」で済まされたかもしれない。
だが現代は違う。
「自分で達成するという幸せを見つける能力」を「喜び」の季節の中で手にしなければならない。
男ならオタクとして1人でも幸せを見つける能力はそこかしこにある。
だからこそ女こそ「1人でも幸せ」である事が「成熟した女」であり、「喜び」の季節を越えた証であると自分は思う。
前置きのプロポーズ関連が1100文字と少し。
実質的な中身の「女嫌い」の内容は2600文字ほど。
こうやって前置き書いて、中身を書いて、脱線して、また戻るの繰り返し。
話は長くなるわけだ。




