「女嫌いの加速」とかいう話について その3
まだこの「女嫌い」の話は続くけど、一度区切りをつけたら前に投稿した「どこにも公開せずに昔書いた自作小説の設定」の事をエッセイして書こうかな。
という予告をしておかないとまた別のテーマで書きそうだから一応自分へのメモ代わりにここで宣言しておく。
母親が未熟故に女としての力、色目を使うというのは性的なそれの事をいうのではない。
自分が関心を持っているようにほのめかすような仕草、態度。
自分のいう「母親が子供に色目を使う」というのは「恋は駆け引き」に近い。
「男女間」の主導権を取るための行為を「親子間」でも取る事を指す。
「自分が相手のために使う労力と時間を極力抑え、楽をするために自分は動かない」
結果として母親と話をしたい、甘えたい、構ってもらいたいという子供の思い、そして子供が成長するのに必要な「喜び」の時期において余計な力を割く事になる。
成長のための「労力」と「時間」を奪い、そして母親の言葉や行動の受け身にならざるを得ない子供は「振り回される」。
言うなれば精神的な「栄養失調」と「過労」。
しかもそれに対してちゃんと報酬を与えるならまだしも「親子」を「男女」に変えているために対価となるものは雀の涙ほど。あるいはサービス残業。
時間と体力を消費させながら、例えば「自分の話を聞いて欲しい」という子供の願いを無視して母親が自分の話をしたり、あるいは欲しい物があってそのために手伝いや勉強を頑張っても約束を破って知らないフリをしたり。
それを社会にはそんな話を聞くと「社会に出ればそんなの当たり前」「養ってもらっておいて我儘言うな」というような母親側に゙味方するような連中は一定数いる。
それが対等な「男女間」ならば「小悪魔的な魅力の女」だけで済むかもしれない。
しかし子供からすればただの「鬼婆」、「鬼子母神」。
子供を喰らい、若い力を自分の糧にする怪物女。
けれど子供にとっては母親だ。
どれだけ痛めつけられても搾取されても余程の事、死の直前まで追い込まれない限りは「好き」という思考に本能が向かわせる。
そのトラウマの種を「母親」から受えつけられた事を認識しないまま、学校の同級生の女、社会に出た後の成人した女から理不尽な仕打ちを受けた際に「発芽」した女嫌いを「女嫌い」の属性として自分が、そして社会が捉える。
元から「女嫌い」で学校や社会で出会う女から受けた仕打ちはその種を成長させるための「水」や「肥料」でしかない。
勿論、学校などで自分にそうした仕打ちをした女に対しては例え女嫌いでなくても「一人の個人」として嫌いに事になるだろう。
だがその「理不尽な仕打ちをした一人の人間」が「女」だったからといって本来は「女全て」を苦手に思うわけがないのだ。
けれど実際にそうなっているのは同世代の「女」から仕打ちを受ける前に「未熟な母親」から「女の模範解答」を種として植え付けられている。
最も身近な異性である「母親」が「親」として優しさと厳しさで導けば例え学校などで酷い事をしてきた女がいたとしてもそれが「未熟さ」だと理解できる。
そして男は「未熟な女」と「母親」を無意識に比較し、そして母親の「成熟さ」を尊敬し、「未熟さ」のある女に対して冷静に対処ができる。
そして女が「若い」ならその「未熟さ」は伸び代と感じる事ができる。
何故なら母親から「優しさと厳しさを併せ持つ理想的な女」を提示されているから。
だが「母親」が「女」として子供の主導権を握るような存在であれば、その子供が学校や社会に出た時に女から受けた痛みは「女というのはやはりこうだ」という「答え合わせ」となる。
比較しようにも比較するデータがないのだ。
「未熟さ」だけから「伸び代」を感じ取る力はない。
未熟さ故に0と1の二択からしか読み取れず、3番目の選択肢に気づくのは経験が必要だ。
話を変えて自分のエッセイでもたまに漢字から読み解く事がある。
そして最近はテレビやラジオなどから女絡みの例え話では「始まり」の「始」の字が例にあげられるのをちょくちょく耳にする。
「女が台」になるから「始まり」。
男は女が居なければ生まれない、だから女を大切にしろ、と。
確かにソレはごもっともな理屈ではある。
しかしこの理屈を「母親」にも適応するから「女嫌い」が生まれると自分は思う。
子供にとっての「母親」はあくまでも「母親」であり、「女」ではない。
他人の性的嗜好にとやかくいいたくはない。
しかし近親相姦については倫理観やらを無視したとしても生物として見た場合でもアウトだ。
母親にそのつもりはなくても子供に「色目」を使い「女」として大人の男相手に主導権を握るように接すればそれはもう近親相姦を誘うようなもの。
無自覚だとしても、そんなつもりはなくても「若い女」の頃のように水や肥料を撒く「遊び」じゃ済まされない。
「母親」を「一人の人間」として大切にしなければならない、「一人の女」として大切にしなければならないのはその女のパートナーの男、夫であり、子供にとっての「父親」である。
子供は「母親」を「親」として尊敬し、大切にしなければならない。
そして、「母親」は「親」として尊敬されるためには「親」として尊敬されるに値する相応の美学や生き方、思想を持たなければならない。
そしてその思想を子供に伝えなければならない。
伝え方は様々だが、伝えない場合でも「伝えない姿勢」から伝わるものがある。
何をしてもどういう立場でもそれは伝わってしまう。
この辺はSNSなどを活用する現代人ならごく当たり前に理解できる筈だ。
それなら自分の考えた言葉で、行動で示した方がマシだ。
「女嫌い」は「母親」が子供に対して「女」として振り回したから種となる。
そしてそこにおいては娘は同じ女として助けを求めて父親に泣きつくという逃げ道がある。
だから娘は父親に懐き、娘は姿形は個人差があっても甘えさせてくれる父親のような男に理想を見る。
だが息子は男としてその女に振り回されなければならない。
だが父親は娘とは異なり、息子には手を差し伸べない。
母親が息子を振り回し、助けを求める息子を父親が切り捨てた。
「母親」が息子を「男」扱いして色目を使う時、同時に「父親」は「母親」を「女」として大切にせず、息子を強引に自分の代わりの「男」として仕立てあげ、逃げた。
「母親」の弱さに目を向ければ、そこから逃げる「父親」の弱さも自ずと見えてくる。
「女に台で始まりの漢字」
女を大切にしない男から手に余る鬼婆のもとへ息子を生贄にする。
父親に問い詰めれば「家族のために仕事を頑張っている」とかそれらしい反論はするだろうが、それは母親も同じ事で「子供のために育児や家事を頑張っている」と答える。
だから子供は「パパとママのために我慢する」しか選択肢が取れなくなる。
赤の他人の「女嫌い」を切り捨てるのはスーパーマンでもないし、仕方ないかもしれない。
だがそこに「話を聞いて上げられたかもしれない」という後悔と「自分はあの人を切り捨てた」という罪悪感を感じないまま全て無視したまま親となれば子供に我慢をさせても平然とする親になる可能性は高い。
それがまた「女嫌い」を生み、晩婚化などの社会問題を加速させる。
「女嫌い」が被害者である以上、加害者が「後悔」と「罪悪感」を感じなければ新たな被害者、「女嫌い」を生むだけだ。




