「女嫌いの加速」とかいう話について その1
晩婚化やそもそも結婚したくない、子供を生みたくない、育てたくない。
そうした話は「経済的問題」を中心とした「本当はしたいのだけど現実的に難しい」という事が以前は焦点だった。
それが最近ではそもそも「女嫌い」という「嫌悪感」に問題が移っているという。
多数派の人はこうした「女嫌い」についてこれまでと同じように「自己責任」を押し付けているがコレも以前の自分がエッセイで書いた「弱者男性の支援機関が生まれない理由」と根本的には同じ。
基本的に性的志向がストレート(身体と心の性が一致)していてさらに性欲も多少なりともあるならば成長とともに「自然」な成り行きで男は女を求める。
それが人間が獣としての本能であり、備えたシステムである以上、男は元来「女嫌い」ではない。
だから「何か」のトラウマで「女嫌い」になる、つまり「被害者」である。
昨今では女性の社会進出とそれに伴うハラスメント、それが浮き彫りになった平成時代という時代の流れで「セカンドレイプ」という言葉がそれなりに浸透してきた。
「女嫌い」も同じ事でまず、「女嫌い」になったトラウマ、「ファーストレイプ」が発生する。
しかしこのトラウマ状態はまだ「種」である。
フォローしてくれる人間さえいればどうとでもなるがフォローするどころか多数派から「自己責任」という名の「セカンドレイプ」が発生し、その種は芽を出す。
そこから仮に「女嫌い」を改めるために勇気を出して「トラウマ」を克服するために相談、悩みを打ち明けると今度は「男の癖に何時までもそんな事を気にして情けない」という「サードレイプ」が発生し、芽は花となる。
これは女から受ける「男」の否定から始まり、「社会」からの否定、そして「過去」の否定となる。
そして現在の日本の状況というのは「フォースレイプ」。
「女嫌い」という少数派と弱者男性、その他社会的には理想的な男性像とは真逆の性質を結びつけ、そうしたトラウマを抱えた人達を「女嫌い」という属性として様々な偏見を向ける。
「女嫌い」な人間の中には決して社会で作られた「女嫌い」の項目の全てを満たさない人もいる。
昭和、平成の頃の「マッチョはナルシスト」「オタクはロリコン」といった無関係の事が結びつけられ差別を向けられたようなものだ。
勿論、中には両方の属性を持つ人もいただろうが全てに当てはまるわけではない。
そしてそれは今度は因果関係が逆転する。
例えば「オタクだから女嫌い」になった。
あるいは「モテないから女嫌い」になった。
そんな風に女嫌いの原因となったトラウマではなく勝手に多数派が関連付けたものを原因と決めつける。
「女嫌い」という属性と関連付けられた「他の属性」が結合、受粉して実をつける。
「女嫌い」という属性のシンボルを多数派が作り上げる事で女嫌いとなるトラウマ、つまり加害者から目を逸らしている。
目を逸らす理由は責任逃れしか理由はない。
それは単に女が責任逃れをしている、というわけではない。
むしろ自分は「女嫌い」という面について責任逃れをしているのは「女」ではなく被害者である「女嫌い」と同性の第三者の「男」のほうだと考えている。
自分はエッセイで責任を3分割、としているのだが「女嫌い」が被害者、「女」が加害者ならそれを公平に裁く事が出来るのは「男」である。
男女が逆のパターンを考えると「男嫌い」の被害者、「男」の加害者が居たらそこへ第三者の「女」が駆けつける。
その第三者の女は更に3パターン。
1.被害者に寄り添い励ます者
2.被害者の代わりに加害者を叩く者
3.被害者と加害者の両者の意見を聞き、裁く者
どうしても「男嫌い」の元には類は友を呼び、「男嫌い」が集まりやすいため2のパターンの女は多くなる。
あとは昨今のフェミニストなどの暴れっぷりを考えると分かる通り、多くなればなるほど無関係の人間の注目を集め、さらにはそうした無関係な人間に飛び火する事もある。
それで損をするのは結果的に全ての「女」である。
数を増して力を得た2の集団のお陰で更に女は馬鹿にされ、ナメられる事になる。
「やっぱり女は感情的で群れてどうしようもない」
「あざとい女」ならそれを利用するだろうが所詮は考えの浅い「小賢しい」止まりでしかない。
あざとさを武器に立ち回れば巡り巡って「女は男の下」という立場を強めるだけだ。
「女」というものをなめられない為に、「賢い女」なら自分のために動く。
そのためには2の集団から「裏切り者」扱いを受けようとも3の立場である「ちゃんと公平に裁く者」として動く。
それにそもそも「賢い女」にとって数の力を自分の力と勘違いするような女は「切り捨て」てもその後の人生に問題ないだろうと考える。
とは言え3のような女だけが介入するのも問題だ。
被害を受けて肉体的、精神的に参っている人間には1のような支えは必要だし、2のように一緒に戦う人も必要だ。
結局、バランスさえ整えていれば3パターン全て必要なのである。
そして話を戻すと男の「女嫌い」はどうか。
被害者に寄り添う1のような男はいるか?
一緒に戦う2はいるか?
そして3のように公平に裁く男はいるか?
「男」が介入しない内に加害者の「女」の方に「男嫌い」の女が集まり、多勢に無勢となり、有耶無耶になって手遅れになる。
女が男から舐められないように女が自分から動いたのとは逆に男は女から舐められないように弱者を見捨てた事で結局は「数でゴリ押せば良い」と女から男は舐められる事になっている。
だから「女嫌い」の責任逃れをしている、目を背けているのは第三者の「男」だ、と自分は主張している。
女が種を植え付け、水と肥料を撒き、発芽させた。
だがそこから先は男が適切に処置しなかったために「女嫌い」の花が咲き、実を結んだ。
第三者の男からすれば他人の事、ましてや男の事など知ったこっちゃないのかもしれないが「女嫌い」からしてもそれは同じ事である。
「晩婚化」「少子化」「老後の問題」勝手にどうぞ。
自己責任はブーメラン。他人に叩きつけるなら自分にも叩きつけられるだけ。
とはいえやはり第三者の男が介入できるのは「花」の段階だ。
それ以前、「発芽」の段階で処置する方が良いし、そもそも「種」が植え付けられない方が一番だ。
「男」として生まれた者が「女嫌い」となったのは「女」が加害者という理由以外にあり得ない。
といっても「全ての女」が加害者というわけではない。
誰が加害者なのか。誰が種を巻いたのか。
結論を言えば「女嫌い」にとっての加害者とは「目上の女」、「老いた女」である。
つまり「前時代の価値観を持つ女」となる。
「男」にとってそうした女で最も身近な存在は「母親」となる。




