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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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喜怒哀楽・零式

喜怒哀楽も土用の話も含めると何だかんだで結構な話数を書いてきた。

残す所は

・0〜5歳の土用

・96〜100歳の土用

他の土用が「前の季節の終わりの5年」と「次の季節の始まりの5年」という合わせて10年の間から自分で土用の5年間を見つける。

自分の「意志」があるからだ。


ところが、0〜5歳と96〜100歳の間は「意志」がない。

あるのは「意」だけ。

身体の衰え以上に「自分」という役割がない。

動物と同じ。

本能的な欲求を「声」にすることはできるがそこに「自分」はない。

「音」を発するのは肉体的なシステム由来のものであり、感情というシステムではない。

0〜5歳の「始まり」と96〜100キロの「終わり」の土用は「喜怒哀楽」のそれぞれの季節の区切りではなく、喜怒哀楽を一緒くたにした「感情」そのものの区切りである。

つまりは「身体」の始まりと終わりを指す。


前の話で触れたが「楽しさ」とは突き詰めると「反射神経」となる。

意識をしてしっかり確認をして準備したものを使って終わったあとの事も考えて、と様々な工程を践むことなく入力と出力が限りなく近い距離にある。

その反射が上手くいかないのは「障害」、つまり邪魔があるからだ。

それは「痛み」や「熱さ」、「冷たい」。

あるいはゾワゾワとするような「気持ち悪さ」、あるいは「くすぐったさ」。

それらが最短距離の道中にあるから反射で動作できず、避けるために大回りをする事になり、結果として「疲労」して「苦手意識」を感じる。

「喜怒哀楽」の「感情」の土台となるのは「快、不快」という「感覚」。


喜怒哀楽の「始まり」と「終わり」が「快、不快」という「感覚」で区切られる。

つまり「肉体」の区切り。

それはつまり「他者」の認知である。

他者から「快、不快」の感覚を刺激され、それらから「喜怒哀楽」の感情の回路を組み立てていく。

それが「始まり」。

そして「終わり」とはその逆。

感情の回路を解体していき、快、不快の感覚を消していき、他者との境界が曖昧となる。


さて「土用」について「反省」「目標」「備え」の3つの項目、つまり「過去」「未来」「現在」を示し、自分のエッセイで何度も出している「愛」の概念と同じである事を前の話で行った。

今回の「始まり」と「終わり」の土用が残っているにも関わらず間にある1、2、3の土用で一旦区切って「愛」とした。

何故なら「始まり」と「終わり」の土用には「自分の過去」がない。

「始まり」の土用の期間については赤子として過去がない事は分かりやすいだろう。

しかし「終わり」の土用は「そこまで生きた過去」があるのは事実だ。

矛盾しているように思えるが実際、そこに「終わり」の土用を迎えるとそこにあるのは「未来」しかないのである。


この「始まり」と「終わり」の土用に見えているのは「未来」だけ。

その未来とは「始まり」の未来とは「この世界を生きていく」という未来。

一方で「終わり」の未来とは「時のが来れば死ぬ」という未来。

どちらも自分で選べる事も出来ないし、先延ばしにする事もできない。

ただ受け身となって「待つ」事しか出来ない。

どちらもただ「未来」を受け入れる事しか出来ない。

つまりは「愛」ではなく「受け身」と「未来」、「現在」の3つで構成された「情け」である。


「生きる」、あるいは「死ぬ」という絶対的な「未来」とそれを受け入れるしかない状態、「受け身」をここまで示した。

では「情け」を構築する「現在」、「始まり」と「終わり」の土用においてやるべき事。

というよりも「自分の意志」がない以上は「未来のために本能的に自動で行っている動作」とは何か。

それは「信頼、信用できる相手」を見つける事。

「始まり」の土用はその相手とエピソードを作り、「終わり」の土用は過去の「エピソード」を振り返る。

そして「始まり」から本格的な「喜び」の季節に向けて「心」を預けるに足る存在を見極める。

「終わり」の土用から「死」という未来の間際に「心」を預ける事ができる者、看取って貰う相手を選択する。


「信用」「信頼」。

2つの熟語に共通する「信」の字。

人を意味する「にんべん」と「言う」。

「人に言う」。

同じように「人に云う」と書いて「伝える」という漢字もある。

似たような意味で構成されながらもまったく別の意味を持つ言葉。

「伝える」とは自分の心を相手に「理解」してもらって初めて意味が成り立つ。

だが「信じる」とは自分の心を口にする事を意味する。極論、他人の理解など必要ない。

なら何故自分の心を口にするのか。

自分がその言葉に「誓い」を立てるためだ。

自分が裏切らないため、自分に言い聞かせるために自分の心を口にする。


他人を「信用」するとは自分の代わりとして信用した相手の行動を自分の選択として「用いる責任」を持つ事を宣言している。

他人を「信頼」するとは自分がその他人を自分の手足のように「頼る意識」、即ち「依存している自覚」を持つ事を宣言している。


信用とは裏を返せば自分では不可能な事、出来ない事、本来自分が身につける筈の力、身に付けられなかった「後悔」している事を他人を用いてカバーしようというある種の「情けなさ」を示していている。

信頼とは他人の行動の結果に自分の事も依存させる。つまりは他人に自分という重荷を背負わせ、自分の責任も取らせようという事で自分という「罪悪感」を他人に背負わせる事を意味している。

言い方はかなりネガティブであるが「自分」には出来ない事を「他人」の力で補う、寄生虫のようなものだ。

宿り主には程度の差こそあるが負担がかかる。

だからこそ「信じる」には「誓い」が必要だ。

「契約」であり、「約束」。

労働には報酬を。

反則には罰を。

突き詰めればシンプルな契約が誓いとなる。


人を「信じる」ために自分の言葉、自分の「誓い」に責任を持つ事が必要だ。

信用されない人は口にする誓いの言葉が何の説得力もないから。

信頼されない人は約束を破る事に何の罪悪感も持っていないから。

「信じる」という言葉の裏、ネガティブな側面、リスキーな側面から目を背けない。

自分が「誓い」を立てられるように生き、その「誓い」を全うするように最期を迎える。

「悔い」とは「誓い」を果たせなかった事を示す。

「始まり」の土用は獣から人間になるための「誓い」である。

「終わり」の土用とは「死」という次の未来に進むために行う過去の誓い言葉の「清算」。


「悔いの残る人生」とはやり残した事がたくさんある人生ではない。

自分が過去に口にした「誓い」をもう一度口に出来るかどうか。

自分しかその「誓い」は分からぬ。

仮にどれだけ恵まれた幸運を得ても「誓い」から逃げていれば「悔い」が残る。

「誓い」とは「夢」であり、「後悔」であり、「罪悪感」。

夢というもの、目標と言い換えても良い。

それらには夢を夢として構成するいくつかの項目があるはずだ。

その項目のうち達成出来たものと出来なかったものを分ける。

そのうち出来なかったものが後悔。

そして夢と達成した物の差分、「現実」を誓いを立てた「過去の自分」に胸を張れるか否か。そこに過去の自分に対する罪悪感が生まれる。

「過去の自分」こそが「現在」の全てを見透かす裁判官。

自分が自分の行いを責める。


「人間になる」

つまり「快、不快」の感覚で活動する獣から「喜怒哀楽」を得る事。

そのためには世界を股にかけるような「輝かしい経験」も地べたを這いずり回るような「恥辱に染められた経験」も必要ない。

極端な事ほど目につくが極端な事ほど正議が難しい。

「誓い」と「清算」。

誤魔化す事なく、曖昧にせず。

その「思考」こそが人に「自信」を与え、「悔い」をなくす。

土用の、そして感情の「始まり」と「終わり」の「式」。

「開会式」も「閉会式」も「誓い」の言葉で始まり、終わる。



これにて喜怒哀楽の話は一区切り。

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