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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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喜怒哀楽の節目その3

3番目の土用、「秋と冬の間」。


秋」は実りと収穫の季節。

春と夏に育てた「果実」をそれを求める人の元へ出荷する。

他人のために動き回るから「忙しい」。

「心」を「亡くす」ほど。

それが「忙しい」。


「亡くす」とは人が死ぬ事を指している。

とはいえ、「忙しい」と心が死ぬわけではない。

まぁ、忙しすぎるとそうなることもあるが。

同じように「心」と「亡」を組み合わせた漢字がある。

「忘れる」の「忘」である。

違いは「心」の一。

「忙」は「心」と「亡」が横並び。

「忘」とは「心」の上に「亡」がある。


「心」、つまり「自分」の事。

「亡くす」のは「忙しい」なら自分の横のもの、「忘れる」なら上にあるもの。

つまり「自分」とは異なるもの、「他人」や「物」を示す。

その上で「横」と「上」の表現を変える。

「横」というのは自分と同じ目線、つまりは「対等」な相手だ。

「上」というのは自分の上にあるがそれは「目上の人」、ではない。

見上げるのではない。自分の上に「乗っている」。

つまり「背負うべきもの」、すなわちそれは「守るべきもの」。


「忙しい」と周囲への配慮などが散漫になる。

同じ立場、あるいは対等な立場、そうした相手へのフォローが後手に回る。

それは仕方ない。「忙しい」から。

背負うべきもの、守るべきもののために「忙しい」筈なのだから。

だが「忙しい」を理由に、自分と対等な立場の人間達へ配慮するために背負うべきもの、守るべきものを「忘れる」事は許されない。


季節は忙しい「秋」から「冬」へと変わる。

感情が「哀しみ」から「楽しむ」へ変わる。

「忙しい」時期を越えて残るのは収穫し終わって役目を終えた樹木、植物。

枝に残った枯葉も次第に落ちていき、草もやがて枯れる。

「次の春」を迎えるまでは葉や花をつけない。実をつけない。

生きてはいるが活動を休止。

変化がないから石、鉱物などの無機物と大差ない。

「次の春」を待つか。

あるいは「最後の実り」として「材木」として切り出されるか。


「楽しむ」とは自分を「楽器」とする事。

若い頃のように思う通りに動かない身体、凝り固まった思考。

まるで金属。

柔らかさはない。

だから外からの衝撃に対して吸収、分散させるクッションがなく、吹けば、叩けば、掻き鳴らせば、その人の生き方、考え方は素直に、そして即座に奏でられる。

「素直でない」という態度が「素直」に出てしまう頑固な爺さん、婆さん。

「見栄を張る」という態度が「素直」に出てしまう強がりな老人。

そして「優しい」態度も「涙脆い」のも「素直」に出てしまう。

外からの衝撃に自分の生き方で「素直」に返す。

「楽」だから。

そしてその年齢になるとそれまで生きてきた方法通りの「楽」なものでなければ老人には返せない。


「自分らしさ」は受け身。

受け身故に「哀しみ」の時代までは「世間体」や「しがらみ」そうしたものがある以上、「自分らしさ」に見栄えを良くする。

しかしそれが残り少なくなった時間のおかげで「無敵の人」に近い状態になる。

「思考」を介さずに「反射」で行う。

老いて身体は自由に動かない。

しかし感情の伝達は無駄な工程を挟まず出てくる。

「我儘」で「身勝手」だが残す所は老いるだけの。死へ向かうだけの解放された者の素直な人格である。


若い人も「反射」で行える事は「楽しい」と感じる筈だ。

スポーツなどは「勝つ」から「楽しい」という人間がいるがそれは単に「喜び」との混同だ。

スポーツの「楽しさ」とは「思考」せず、「反射」で身体が動く事。

身につけた「技術」が「意識」より先に「動作」する。

ゲームでも、音楽、芸術、あらゆるものは「反射」で行えるから「楽しい」のであり、それは「楽」である。


若者でも身を飾る事でその人格をいくらでも隠せる。

しかしふとした瞬間にマナー、態度、目つき、そうしたものから断片的に「優しい」、「うさんくさい」「強い」「サイコパスっぽい」、そうしたものは感じる事は出来る。

それらは若者だから断片的に知り得る事だか、老いてそうした虚飾にかける労力も時間もなくなった事によって「楽」のために全てを曝け出す。


第三の「土用」とはそれまでの世間体などから解放され「無敵の人」になる事を指す。

「無敵の人」、といえばネガティブに捉えられるがつまるところ「捨て身」である。

「喜び」「怒り」「哀しみ」の三つの感情の経験。

「喜び」と「怒り」で自分のエピソードを完結させ、「哀しみ」で他者のエピソードにスピンオフ的に自分というキャラとしてお助けキャラとして参戦する。

どの感情も全て「自分」と「他人」と「社会」にそれぞれの立場に役割がある。


先天的なものは肉体面も精神面も確かにある。

しかし25年×3の75年もかければ「癖」が染み付き、「生き方」となる。

ずっと「怒り」を身に帯びていれば80になっても「怒り」がその人にとって「楽」になる。

ずっと「喜び」を求めていれば80になっても「虚栄心」を求めて人を見下し、常にマウントを取ろうとするのが「楽」になる。

「哀しみ」を向けられる人は80になっても他者の心を受け止める事が「楽」に出来る「強さ」を身につけられる。


「楽」や「楽しさ」とは突き詰めると「反射神経」である。

勿論、75を越えた老人に肉体的な反射神経を求めているわけではない。

人生における選択というものについての反射神経。

長年費やした「自分」という役割と「思考回路」というシステムが最適化される。

経験、学習、予測、実行、結果の解析。

AIと変わらん。

ただAIには「自分」という役割も思考回路もない。今のところは。


「自分の意志」

土用が「意」の季節。

そして「志」とは「士」の「心」。

「士」とは「サムライ」。

刀を持てはサムライなのではない。

心の持ちようでサムライとして振る舞う事も野盗にも成り下る事も可能だ。

サムライという役職、役割。

「自分」という役割の楽器を完成させる。

すなわち「自分の意志」を完成させる。

1、2、そして3番目の「土用」の季節とは冬に向けた「楽器」の完成。

今年の実りへの感謝、来年の実りへの祈り。

それらを願う神事、祭事で演奏するための楽器。


「心」から不要な物を捨て、必要な事のみを残す。

「素直」な音色を奏でるために不純物を取り除き、純度を上げる。

「忘れなかった意志」が「教訓」となって自分という楽器の音色となり、冬の「楽しみ」を引き立てる。


土用の1、2、3、全てに言える事だが突き詰めると土用は「前の季節の反省」と「次の季節の目標」、そして「そのための備え」となる。

「過去」、「未来」、「現在」。

「愛」と同じである。

その区切りを曖昧にするというのはすなわち愛もまた曖昧にする事に他ならない。

スポーツでもゲームでも「喜び」はもとより、過程に起きた「怒り」も「哀しみ」も。

ポジティブな事もネガティブな事も全てが「愛おしい」。

それ一つ一つをハッキリと思い出せる。

忘れようにも忘れられなかった「思い出」だからだ。

全てを愛してきたからこそ、喜びも怒りも哀しみも全てを楽しめる。

曖昧にしなかったからこそ、そこに喜怒哀楽がある。

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