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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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喜怒哀楽の節目その2

「夏と秋の間」の二度目の「土用」。

「夏」に経験した「怒り」が「喜びだけの自分のエピソード」に肉付けして厚みを作る。

「怒り」を知る事で「春」の「喜び」のエピソードはまだ「プロット」でしかなかったと気づく。

怒りによって「後悔」と「罪悪感」から「喜び」の裏側にあった「誰かの苦労」を推察出来るようになる。

良く言われる「大人になれば分かる」とは「自分」の「喜び」の裏側に「誰か」が犠牲となった「怒り」がある事。

「子供」には理解できかった、分からなかったエピソードのバックヤードを知る事が出来る。

自分が「安心」して「喜び」を得られた理由は周りの大人の「怒り」によって作られた「ステージ」があり、安全のための「バリケード」かあったからだと。

だから「大人」の凄さを知る。真の意味で改めて理解出来る。


「春」と「夏」、「喜び」と「怒り」を知った。

「喜び」から「挑戦」と「行動」。

「怒り」から「後悔」と「罪悪感」。

「怒り」、あるいは「喜び」の最中にいる若者に自分のエピソードを語りながら教訓を伝える。

喜怒哀楽のうち、全てを知れば世の「悟り」でも拓けるかもしれない。

しかしそこに至るには死の直前にまで至らなければ手に入らない。

だから悟りという「完全無欠の答え」は手に入らない。


「完全無欠の答え」は手に入らないが、「自分の答え」なら「喜び」と「怒り」で事足りる。

他人に伝える分には「喜怒哀楽」の全てを得る必要はない。

「喜び」と「怒り」があれば「自分」の教訓は生まれている。


迷いは恐怖を生む。

「自分の求める喜びのためにどんな怒りが必要なのか。」

「自分の抱える怒りはどんな喜びを産むのか」

それが不確定で先が見えないから「怖い」のだ。

その他人の抱える恐怖に寄り添うのが「哀しみ」。

そして二度目の「土用」は「喜び」と「怒り」による「自分のエピソード」を完結させる事。

そして今度は「外伝」、「スピンオフ」。

他人のエピソードに手助けするキャラクターとして自分が登場する。

手助け、とはいうが肉体的な助けではない。

「助言」だ。

すなわち、「伝える」という事。

自分の感情を押し付けるのではなく、相手の感情に共感し、相手の感情を伝える。


人は「鏡」がなければ自分の顔も確認出来ない。

そして顔を映す鏡に当たるような感情を映す道具はない。

誰かが相手の感情を受け止め、それを伝えなければ相手に知らせる事は出来ない。

「嬉しいなら笑え」「悲しいなら泣け」。

例にあげたのはシンプルだがそれが「答え」だ。

複雑にしているのは悩んでいる人自身。

価値観、思考、立場そうしたものが「物陰」や「物音」を「怪物」に変える。

ようは他人の不安を取り除き、「落ち着き」を取り戻させる。

「喜び」の時代にはその不安に一緒になって不安となってしまう。

「怒り」の時代にはその不安を取り除く方法は不安に駆られた人間を頭ごなしに上から叩きつけるような方法しか取れない。

それでは冷静になったとしても相手は消化不良で怒りの矛先をコチラに向けかねない。

「哀しみ」を向けられる者が恐怖に染まった心に「冷静さ」を取り戻させる。


昨今の「育児も一区切りついたかは今度は『自分らしく』生きる」と心機一転して新しい事を始めようとする事が正しい、というような話を聞く。

新しく「喜び」を得ようと、そしてそれに伴い新たな「怒り」を得ようとしているわけだ。

しかし喜怒哀楽の「哀」の季節、あくまで自論とはなるがそれが50歳以降の生き方に相当するなら、「自分らしさ」を求めて「新しい事」をするのは間違いだ。


「自分らしさ」とは受け身である。

問題が発生した時、「自分ならどんな行動をするか」というシンプルな物だ。

自分から新しい問題を作り、あるいは迎えに行かずとも50年の「喜び」と「怒り」の蓄積でそのくらいはあえて新しい問題に直面せずとも「予想」できる筈だ。

勿論それは「反省」してエピソードとして区切っていれば、だ。

「自分を変えるため」ならいざ知らず、50年以上経って心機一転「自分らしく」は単に「楽」をして「喜び」を得たいだけだ。

もしそれでも「新しい事」を始めるのであればそれば「自分らしさ」ではなく、「誰かのため」、つまり「喜びで浮き足立つ者」や「怒りで迷う者」に寄り添うためという他人の為、それも若者のためである必要がある。

そのためにはそうした若者から「お節介で古臭いオッさん、オバさん」という陰口を叩かれる「嫌われてもいい」という覚悟が必要だ。

自分のエッセイを見れば分かる通り、「教訓を得たエピソード」と「感情を纏めきれていないただの話の長い自分語り」は紙一重だ。

その「自分語り」を「エピソード」に変える、「感情」を「教訓」に変える。

人生の主役が自分から他人、それも若者に変わる以上は「自分さえ分かっていればいい事」を「他人に理解できるように表現、言語化する」という事を求められてる。

そのために「夏」、「怒り」の季節の「後悔」と「罪悪感」がクオリティを上げる。

「もっと理解してもらう為にいい表現の仕方はなかったか」と後悔する。

「もっと相手の立場に寄り添ってあげられたかもしれない」

と罪悪感を感じる。

「後悔」も「罪悪感」も感じるのは「自分の心」。

それなら、「喜び」と「怒り」を適切に受け入れてさえすれば「他人のため」の反省すら自分の事として考えられる。

「他人のため」を自分の事のように、そしてその他人の怒りに振り回されず、受け止められるように「哀しみ」のレベルを上げていく。


「哀しみ」という他人を支える、他人の怒りを受け止める。

そのやり方こそが「自分らしさ」。

迷う者達の「鏡」となり、冷静さを取り戻させ、その上で「自分なりの答え」を伝えて選択肢を増やしてやる。

あくまで押し付けるのではなく、「伝える」だけだ。

そのための準備、「喜びと怒りによって自分のエピソードの表裏の完成」と「他人を支えるため、伝えるための備え」をする。

それが第二の土用、「夏と秋の間」である。


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