喜怒哀楽その5
「楽しい」
楽しい、とは何か。
まずそもそもとして「楽」という感情以外にも「喜怒哀楽」というものは個人差や比率は違っても人間は毎日感じて生きている。
その上で自分は年代毎に重視すべき感情として25年単位で区切ってエピソードとして整理していく、そんな事をエッセイで書いてきた。
最後となる75〜100の年代、「冬」の季節に作る「楽」という感情のエピソードが今回のテーマだ。
喜怒哀楽のうち、「喜び」と「怒り」が「自分」であるのに対して「哀しい」と「楽しい」とは「他人」ありきの感情である。
「喜び」と「楽しい」は混同しがちだ。
しかし分けていくと違和感が出てくる。
例えばゲーム。
ゲームをプレイする事に対しては「楽しい」
ゲームをクリアした事に対しては「喜ぶ」
例えばスポーツ。
スポーツをする事が「楽しい」
スポーツで結果を出せた事を「喜ぶ」
例えば友達との交遊。
友達と遊ぶ事が「楽しい」
友達と遊べた事に対して「喜ぶ」。
時系列としては「楽しい」というのが対象となる物事に対して「現在進行形」である。
一方で「喜び」とは物事の結果、つまり「過去形」である。
言い換えると物事の「変化」そのものが「楽しい」に相当し、その変化によって得られる「報酬」が「喜び」。
別の見方をしてみよう。
変化していく物事に対して「自分」はどうだろうか。
仮にゲームなどでは「好み」、「価値観」によって捉え方は異なる。
それを「楽しい」と思えるか「つまらない」と捉えるかはその人の「価値観」次第である。
人気のゲーム作品はシリーズ物として続編が出たり、あるいはリメイクされたりする。
その元々のオリジナルのゲーム作品に対してプレイした過去があり、当時の作品に対して「楽しい」という価値観を持った人間が続編やリメイクをプレイする。
当然「違和感」を感じる。
・原作と違うグラフィック
・原作にはなかったキャラクターボイス
その違和感は元のゲームをプレイした人間にしか分からない違和感だ。
元の作品に触れず、その「続編」や「リメイク」に初めてそのシリーズに触れた人からすれば「こういうものだ」と受け入れる。
元の作品を知っているからこそ感じる「違和感」、それを踏まえて「楽しむ」のが理想。
けれど元の作品との「違和感」ばかりが気になってそれゆえに「こんなの◯◯じゃない」と思うと「怒り」をぶつけてしまう。
とはいえ、「改悪」なんて物もあるし受け入れられない事もあるから絶対に怒りの感情を持ってはいけない、と言う事ではない。
考えるべきは「違和感」がある事を受け入れる事だ。
「違和感」を感じるということはつまり「昔」を知っている上で「今」を感じる事の「差」を感じるということ。
「時代の変化」、「老い」を感じるという事。
それが「自分から見た世界」という視点であるが周りから見た時、「世界から見た自分」というのはつまり「変化していない」という事。
「変化しない自分」と「変化していく世界」。
そして階段を下るように「老いていく自分」と駆け上がっていく「成長していく若者」。
それをどう感じるか。
その世界に追いつこう、とすると様々な事に挑戦する必要があるが現実的には「若者」主導で変化していく世界に老人が追いつこうとするのは無理がある。
ついていこうと「老いた身体」に鞭を放つように無理をするから「怒り」を覚える。
そして怒りは過去の「努力」、つまり「功績」という努力の「総量」によって自分の無能さへの正当化へ繋がる。
その正当化された努りによって「若者」の足を引っ張る。
「今の社会を作り上げたのは自分達の努力のおかげ」
それは事実であるが「努力」とは「怒り」の力。
あくまで「若き頃」の「自分が自分のために」怒りを努力に変えたもの。
「誰かのために努力した者」は少なくとも現代社会において所謂成功者と呼ばれる者の中にはネットやテレビなどを見ても誰一人として見たことはない。
「自分のために努力した結果、それが巡り巡って副次的に誰かの役に立っている」
と言うだけだ。
だから自分のような他人のために生きた者、「親のために自分を押し殺し」生きてきた人間は生きる意味に迷い、夢を持てなくなる。
話がズレたが変化していく世界に、ついていけないものに強引にでもついていこうとするのは何故か。
「若いつもり」だからだ。
「喜び」を得ようとしてそれに反して思い通りに動かない「身体」と「思考」、そして「心」。
柔軟性がなく、日常的に若い頃のように生活する体力もない。体力がないと言うことは活動時間も短い。
つまりは「情けない」。それを受け入れられないから「怒り」を生む。
その「怒り」に向き合わず、若い頃と同じように力に変える。
「技術」は更に高齢な自分に合うように洗練され、先鋭化し、そしてより効率的になり、そして低燃費化、ますます代謝は勢いを弱める。
そしてそれを「努力」と正当化する。
ますます「自分は若い」と錯覚する。
僅かな労力で大きなリターンを得る事ができると「楽」にはなる。
だがそうした「楽」が出来るという事は若い頃のような「喜び」に到達できない。
人間、誰しも「初めて」の感動に勝るものはない。
60点の出来でもそれが初めて完成し、他人に褒められたならその人にとって100点の価値がある。
しかし、例えそれが100点に近い出来だとしてもやり慣れた物ならその人にとっては成功も失敗も大して変わらない。
だから老後に「新しい趣味を探しましょう」と社会的にと躍起になって呼びかけているのだがそれが喜怒哀楽と春夏秋冬の理屈で考えるとその「新しい事」に対して「喜び」を求めているのか、「楽しさ」を求めているのかをちゃんと考え、自覚する必要がある。
何も考えなければ若い頃の感覚で「喜び」を得ようとする。
仮に「喜び」を得たとしても寿命までの100歳までのタイムリミットは近い。
「もっと早くやっていれば」
と言う後悔が生まれる。
「もうすぐ死ぬのに自分はこうして喜びを得て良いのだろうか」
と心の中で作り出した「誰か」に対して罪悪感が生まれる。
逆に75歳を超えた老人になってもまだ「喜び」を得る事に対して後悔や罪悪感を持たないような人間は、つまり「報酬」を欲する事が第一の人間は「怒り」を他人の所為にする。
「もっと早くやっていれば」と本来後悔するべき事は例えば結婚などの所為にしてパートナーが居たから自分は出来なかったと自己責任ではなくパートナーに憎悪を向け、所謂熟年離婚のような行為に走る。
「高齢の自分は喜びを得て良いのだろうか。」と罪悪感を持たなければ当たり前のように若者に負担を強いる。
「喜び」は50年前に、「怒り」は25年前には区切りをつけて居なければならないのに曖昧にしてきたから75歳という高齢になっても他人の怒りに共感して「哀しみ」を抱けない。
そうした「喜」「怒」「哀」の三つの感情が蓄積されず自分の中の「価値観」がない。
「報酬の有無」だとか「コスパ」だとかそうした物が基準になるから選択するさいに物事を考えない。
報酬やコスパを基準にすると言う事は「自分の物差し」で測る事がない、つまり「拘り」がないから選択について悩まない。
悩まない、考えない。
そこにあるのは「報酬」への「執着」である。
「拘り」があるから悩み、考え、「教訓」が生まれる。
教訓を得れば残りの短い人生にそこまで大きな報酬はいらないと気づく。
そして感情を遡る。
若者や新しく物事を始めた人の失敗や怒りに「哀しみ」を向けられる。
自分の事のように他者の失敗や「怒り」に共感して一緒に反省、罪悪感を感じとり負担を軽減させてあげられる事ができる。
そしてそれを糧に他者が試行錯誤を繰り返して成功に転じると他者の成功を自分のことのように「喜ぶ」事が出来る。
そして他者の失敗から成功、怒りから喜びへの転換、つまり「他者の成長」を自分の「楽しみ」と出来る。
あくまで理想的な流れだがそれらを「応援」と言う。
自分は過去のエッセイで「応援は強者の行為」としたがつまりはそれは「楽しい」と言う感情は強者として弱者を「助ける事」。
そして助けると言う行為そのものに「価値」を見出し、助ける行為そのものが「報酬」と言う「価値観」として形成される必要がある。
「他人のために努力してきた人間は成功者にはなれない」
何故なら弱者であり、自分の事で精一杯だから。
しかし一方で
「成功者は他人のために力を尽くす事はできる」
当たり前の事だ。
「楽をすること」と「楽しさ」。
「楽」という字を使うこの2つの言葉の共通点は「自ら動かない」「他人の動きありき」という事。
格好良くいえば「不動」。
「楽に生きたい」「楽しく生きたい」
とは人間誰しも思う事だ。
物事の変化の主役は他人。高齢の自分はあくまで道具。
「楽」とは脇役の極意。
そう考えた時、一つの言葉が浮かんだ。
「楽器」である。
音楽という一つの作品を作り上げる際にその作品を作り上げる、変化させていくのは「演奏者」だ。
演奏者が「主役」であり、楽器はあくまで「脇役」だ。
・吹けばピーと音が鳴る。
・叩けばドンと音が出る。
・かきならせばジャラランと音が出る。
「楽」に至るという事は他者から何かを受け取り、それに対して楽器のようにリアクションを出力する事。
それは「演奏者」の身体一つでは不可能な音だ。
だから「楽器」がある。
素材が違う、構造が違う、何より演奏の仕方が異なる。
それらは人間の「生まれ」や「育ち」、「生き方」と近い部分がある。
先鋭化された楽器、プロ仕様の楽器という人生の答えもある。
だが先鋭化された楽器は使い所に困り、プロ仕様のそれは高額で使うのを躊躇する。
誰にも使われなければ「楽器」は「アンティーク」となる。
それくらいなら素人でも、所持金の少ない若者でも、あるいは子供でも気軽に使える「楽器」として生きた方が演奏者も、そして自分も「楽しめる」。
そして寿命を迎える。
死ねば何も残らぬ。死体を自宅に放置しておくわけにもいかない。
だが「楽器」として「演奏者」と共に楽しみ、その作品を聞いて共に楽しみを共有した者には「思い出」として残る。
「記憶」が事実として目に見えるデータとして残るなら「思い出」は音、匂い、目に見えないもの。
楽器の音色が他者の心に刻まれる。
音の心、「意」となる。
季節の節目節目にやってくる「土用」とは「意」の季節。
自分と他者を繋ぎ、季節を振り返り、反省する季節であり、次の季節の事を考える季節。
「意」を大事にする。
その「真意」を自分の「土台」とする事で「次」がやってくる。




