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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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喜怒哀楽その4

喜怒哀楽に合わせて感情一つに対して1つ、としたら案の定長くなった。

「哀」と「悲」の違い。

これは「哀」が一つの感情であり、「悲」は怒りの別の表現である。


「悲」の字を分解すると「非」と「心」。

「非」とは「非る」であり、「正しくない」とか「違う」といった意味合いだ。

「非常事態」などのように「普通ではない状況」などの「◯◯ではない」という事である。

そしてそれが心と組み合わさっている。

あくまで自分の解釈ではあるが「非る心」、つまり「悲しい」とは本来存在しない感情だ。


このエッセイを書いている今現在、雨が降っている。

雨、といえば昔、自分が小学校の頃の話だが帰り際に土砂降りの雨が降ってきた。

今でいう所のゲリラ豪雨のようなものである。

学校の公衆電話に行列が出来、親に車で迎えに来てもらう生徒が多くいた。

学校は田畑に囲まれており、正門からは東西と南へ、裏門から北の方角にそれぞれ帰っていく。

その中でも特に自分の家の東に向かう方角は特に田畑の多い場所で生徒自体が少なかった。


1クラス30人で同じ学年で2クラスの60人ほど。

その中でも自分の家の方角へは男女合わせて5、6人。

土砂降りでも迎えに来てもらえない生徒は勿論いたが他の方角は少なくても5、6人の集団で帰る事が出来る。

しかし、自分の場合は家に徒歩で帰るとなると1人で帰るしかない。

帰り道は子供の足ではおよそ30分。雨だからもう少しかかる。

電話すると親が出た。

あまりの土砂降りで仕事にならないからと畑から帰ってきていた。

その親から返ってきたのは「歩いて帰ってこい」だった。


別に、雨の中を一人で帰る事自体は「仕事で忙しい親」だとか「他にも歩いて帰っている生徒がいる」という事を思えば納得できた。ただ自分はそれに加えて「1人きり」というものが加わっただけ。

少し学校で待ってみたものの止みそうもないし、弱まりそうにもない雨。

覚悟を決めて30分かかる道を歩きだした。

田畑に囲まれてはいたが土砂降りのせいで農家などの人の気配はまるでない。

まさに1人。

そして10分くらい歩いた所で前方から軽トラックが向かってきた。

自分の家の車だった。

嬉しくなったのを覚えている。

手を振って駆け寄ると窓が開いて乗っていた親が「妹を迎えにきた」という。


あとはいつもの通りの「男の子だから」「長男だから」という理由で歩いて帰れ、と言われた。

自分も食い下がった。子供の足では30分だが車なら10分もかからない。

今自分を連れて帰ってもう一度妹を迎えに来てくれないか。

色々と提案したが聞き入れて貰えなかった。

そして親の車は学校に向かい、自分は1人で帰り道を歩き始めた。

そして5分くらいするとその横を妹を乗せた軽トラックが過ぎ去っていった後、なりだけ雨に当たらない木陰に入ってうずくまっていた記憶がある。


「悲しかった。」

一言で言えばそれだ。

土砂降りに対してではない。車で迎えに来て貰えなかった事自体でもない。

親に対しての自分の「甘え」を聞き入れて貰えなかった「怒り」である。

「自分」には迎えに来なかったのに「妹」の迎えには来た。

「妹」を贔屓する事への「嫉妬」である。

「長男」「男」「兄」という好きでなったわけではない役割に対しての不満である。

そしてそれらを自分が「嫌だ」と思ってしまう、感じてしまう事、自分が「男らしくない」事への「惨めさ」。

今ならそうやって言語化できる。

だが10歳になるかならないか、その程度の子供には出来ない。

だからうずくまって「怒り」を時間をかけてただ曖昧な「悲しい」というものを鎮める。


今の自分はそれを思い出して「悲しい」とは思わない。

しかし、それを「哀しい」と思う。

もう相当昔の事だ。年齢も、身長も体重も、経験も異なる。

同じ自分ではあるが「今」と「昔」とでは「別人」と言っていい。

俯瞰してみると最低限折り畳み傘とか常備しておけばよかった、とかそうした「正論」は出てくる。

だがそれでも土砂降りの道の脇でランドセルを背負った子供が1人、うずくまっていたなら声をかける。

話を聞いてやる。

まぁ、このご時世では子供へ声をかけるのは中々難しいところはあるだろうがそれでも「土砂降り」「子供1人が道路の傍でうずくまっている」という状況なら声をかけるのはおかしいとは思わない。

その上でやはり「今の自分」ならそうした子供に「哀しい」と思う。


自分の小説家になろうにおいての投稿者としての名前「冬の老人」としている一方で実年齢は老人というにはかなり開きがある。おっさんではあるが老人という年齢というには若過ぎではある。

まだ春夏秋冬の「夏」であり、喜怒哀楽の「怒り」の季節である。

しかし「喜び」のエピソードを集める「春」の頃から我慢する事で「夏」のように「怒り」に満ちている。

だから「他人の怒り」、「他人の行動の顛末」、そうした物を経験しているから自分は他人の行動に「哀しみ」を向ける事が出来る。


テレビやSNS、そうした物に「怒り」は氾濫している。

それらを引き起こす「事象」自体は自分も経験していたり、あるいは未経験だったり。

だが「怒り」の感情自体は散々身に帯びてきた。

達観しているわけでもなく、斜に構えているわけでもない。

そもそもそんな器用でもない。

単に「怒り」という感情の蓄積量の多さ。

自分はそれが「早熟」で人より早く「怒り」を多く手に入れた。

しかし全うに喜怒哀楽のうち、「喜び」の25年、「怒り」の25年、合わせて50年。

50年かければ「怒り」を十分手に入れる事が可能の筈だ。

しかし人間が考えるのは

「喜びの期間をいかにして延長させるか」

「怒りの期間を短縮させるか」

そして「どうすれば楽に暮らせるのか」。


「怒り」の期間を蔑ろにするから「哀しみ」を「悲しみ」と混同するし、そもそも「哀しみ」が視界にも入らない。

問題点は自分のように世間的に経験が不十分、「未熟」な人間が「哀しみ」を備えてしまう場合があるほどに「怒り」に早熟である事。

一方で恋愛や結婚、世間的に一定以上のステータスがある、経験があるとされる「成熟」した人間が50代、60代、あるいは70,80、90代になっても「怒り」に支配されている事。


「哀しみ」の期間、あるいは「楽しむ」という死ぬ間際の期間になってすら「喜び」を得ようとする。

だがもう若くない。そしてそれを受け入れられない。

仮に「喜び」を得たとしても今度は身体と精神がついていけず、結果、どうやっても「怒り」を覚える。


例えば宝くじなどで何億もの大金が手に入った所で90代では使い切れないだろう。

使い切るための「時間」も足りない。「体力」も。

例えば手っ取り早く「喜び」という刺激を得ようと旅行などをするにしても寝たきりのような虚弱な身体では不可能だ。

それでも旅行などで使い切ろうと考えれば介護要員が必要になり、それを雇う必要がある。

結果としてせっかく手にした大金という「喜び」から「経費」を引かざるをえなくなる。

「若い頃」には必要のなかった「経費」である。


「喜び」が少なくなるという事に対して、そして介護要員を必要とする自分への情けなさ。

その他諸々の「怒り」を受け入れられないから助けてくれる介護要員へ向かうようになる。

そしてそれを嫌って旅行ではなく介護を必要としなくて済むように「散財」で「喜び」を得ようとすれば今度は人が遠ざかる。

いらない物ばかりを買う事で「喜び」を満たそうとする人間のもとにはいらない物と一緒にいらない人間、獣のような人間を近づける。

「仲間」、あるいは「類は友を呼ぶ」。

最後は食い散らかされて「不幸」を嘆き、自分以外に責任転化して他人を呪う。

だがそうした者達は「仲間」であり、「同類」。

そうした者を引き寄せる者は立場が逆なら同じように他人の幸福に群がり、食い散らかす。

その不幸を嘆く者を傍らで抱きしめ「哀しむ」人間を遠ざけたのは他ならぬ自分。

だが、「後悔」も「罪悪感」も感じない人間は不幸を嘆く。

「夏」の最中に居る者は「秋」の訪れに備える事はない。

「怒り」に支配されれば「哀しみ」を視界に入れる事すら困難。


「若さ」とは例え過去の自分であっても今の自分にないものを持つ以上は他人である。

「老い」を認めないとは「過去の自分」を認めない、もっとも近い別の人格である「他人」を認めない事と同義である。

だから仮に誰もが羨ましいと思える状況、先述した「大金を得る」という分かりやすい幸福すら「喜び」以上に「怒り」を感じる結果をもたらす。

そしてその「怒り」から更に目を背ける。

「怒り」をエピソードに変えないから後悔して反省しない。

反省しないから罪悪感も生まれない。

罪悪感がないから助けてくれる人に感謝せず、怒りの矛先を向ける。


これ以上「怒り」を語っても堂々巡りで仕方ない。

結局、「哀しみ」の感情とは「自分の怒り」を受け入れた先にある。

「他人の経験」「他人の不幸」は「他人の物」。

だが「助け」を求める「他人の怒り」には「寄り添う」事や「支える」事は出来る。

そして人生100年という現代において50〜75という年代は他人の「怒り」に「寄り添う」世代、「支える」世代。

それはおもに下の世代、25〜50の「怒り」の真っ只中の者を支える。

25〜50が怒りに「振り回される」のを一緒になって振り回されるのではなく、鎮める術を考える。

そのために他人の怒りを「聴く」、一緒に解決方法を「考える」、自分の経験、エピソードとともに「伝える」。

人生の主役を「自分」から「若者」達へ切り替える。

自分の人生の主役が「他人」へ変わる事に対しては「怒り」を覚えるのは「若さ」故。その若さは「美しさ」ではなく「執念深さ」だ。


例えるならRPGゲームの「ヒーロー」から、育成ゲームの「トレーナー」になる。

ヒーローの「楽しさ」を他人に、若い世代に伝えたくはないか?

50を過ぎたら「ベテランヒーロー」ではなく、「新米トレーナー」となる。

「楽しさ」はその先だ。

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