喜怒哀楽その3
「怒り」のエピソード。
喜怒哀楽の中で2番目であり、春夏秋冬においては夏に相当すると考える。
雑に分けると26〜50歳の頃。
所謂「働き盛り」である。
漫画などでも「怒りのパワーを努力に変える」なんて台詞があったりする。
「怒り」と「努力」。
この「怒」と「努」の漢字。
どちらも「奴」の下に「心」、あるいは「力」を合わせて作った漢字。
正直、見たままではあるが念のため調べてみると「奴」、つまりこれは「奴隷」を指している。
「奴隷の心」が「怒り」を指し、
「奴隷が力をつくす」事を「努める」とする。
「努力」と言えばカッコいいが一枚捲れば「奴隷」として怒りを仕事や作業、目的に対して力を注ぐ事を指す。
では「努力」する事が「怒り」のエピソードになるのか?
それは違う。「努力」はあくまで「努力」であり「怒り」のエピソードとしては不完全。
「怒り」を「努力」に変換する必要があるように、「努力」もまた「怒りのエピソード」に変換する必要がある。
かと言ってただ「成功した事」だけを言語化するならただの「美談」であり、「怒りのエピソード」にはならない。
美談ではなく、怒りのエピソードにするためには「怒り」の原因であるその時点での自分の力と目標との差となる「自分の弱み」を自覚する必要がある。
そして自分が実際にやった努力に対してもっと効率的なやり方がなかったか、できないにしてももっと準備できる事はなかったかと反省すること、つまり「後悔」する気持ちが必要。
さらにその過程で助けられた「物」や「人」、あるいは「場所」だとか自分以外の存在に目を向ける必要がある。
そして助けられたという自覚としてそうした自分以外から愛情を分けて貰った、つまり消耗させたという「罪悪感」が必要となる。
一度まとめると「自分の弱さ」、「後悔」、「罪悪感」の3つ。
この内、よくフィクションなどでも「自分の弱さを認めろ」なんて台詞だとか描写はあるから馴染みはある。
しかし残りの「後悔」と「罪悪感」はどうか。
「後悔しても何も変わらない」とか「後悔している暇があるなら行動」だとか否定的だ。
また最近ではダイエット食品などを「罪悪感のない食べ物」とか言うようにコチラも否定的な言葉として使われている。
勿論、「後悔し続けて前を向けない」、「罪悪感に囚われて気分が落ち込む」と言う「後悔しすぎ」「罪悪感ありすぎ」という「過剰」なものは確かに否定しなければならない。
だが「後悔」しなけれは「以前より良い物」を生み出す気持ちにならない。
「罪悪感」がなければ「助けて貰った」事への本当の意味ての「感謝」が出来ない。
「経験を見る」「結果を見る」ではこの「後悔」と「罪悪感」が無視されがちだ。
何故なら「努力」の土台にあるのは「怒り」であるから。
怒りを努力に変える上で自分の弱さを知り、それを補う為に努力したのか。
それとも後悔する事や罪悪感すら力に変えた産物なのか。
「没頭」。
日本では職人気質なそれがありがたがられたりする。
ある種、神格化されたりもされている。
確かに高いクオリティの結果も出るだろう。
しかし後悔も罪悪感も無いそれは他人を置き去りにする。
振り回されて不幸になる人に「自己責任」を押し付ける。
「お前が勝手に振り回される事を選択しただけで自分の所為ではない」
確かに見方によっては正論ではある。
だがそれは人が離れ、力が衰え、価値が無くなって見向きもされなくなった頃に自分にその言葉が返ってくる。
それでも「満足した」と幸福に感じられるならそれも良し。
だが実際のところ、そうした「没頭」した者の中で幸福を感じる者はどの程度いるのか。
「あの時、ちゃんと他人の事を考えていれば」
と過ちを認められるなら遅くても問題ない。
だが実際は「満足」する事も出来ず、「過ち」だったと反省する事もできない。
「私の実績は周りからも評価されてきた筈」
「普通に生きてきただけなのに」
「没頭」の文字通り、頭がない。つまりは思考していない。
「周り」の事を気にかけているようで頭の中は「自分のこと」、あるいは「目の前」の事。
「普通」と言いながら低く見られるのは「見た目」だけを「普通」に取り繕っていただけだったから。
「人間としての経験が年齢より低い弱者男性を馬鹿にする若い女性」という話を以前エッセイで話に上げた。
あくまでそれ自体は弱者男性をイジるためにつくられたネタではあるが
「経験が多い」という事は裏を返せば「たくさんのエピソードを持っている筈」というわけである。
そしてそれは勿論「喜び」のエピソードと同様に「怒り」のエピソードを持たなければいけない。
「経験」があるのに「エピソードがない」というのなら、それは機械的にマニュアルに沿ってやっただけ。
流れ作業に無駄がないように、エピソードのないその経験の多さは流れ作業をこなした数でしかない。
「エピソードは多いが喜びのエピソードの比率が多い」という場合はその人が喜びを味わうために影で怒りを堪えて支える他人がいる。
「自分には価値があるから支えてくれる」のではない。
「まだ喜びのエピソードを得る『青春』の時期だから支えてくれる」
それはつまり周りから「まだ未熟」である、「まだ青い」と手を差し伸べられているだけ。
個人差はあるとはいえ、現代日本ではまだまだ「女性」が手を差し伸べられる期間が長めである。
だから勘違いするが「若さ」故に手を差し伸べられるだけであり、例外を除き女性であっても「30」という年齢を区切りとしてその差し伸べられる手は打ち切られる。
そして自分に向けられていた手は別の若い娘に伸ばされる。
それは手を差し伸べていた男達が自分から若い娘に目移りしたという風に見える。
動物的な本能、性的欲求がないわけでもないだろう。
だが手を差し伸べて助けなければ次の若者が育たない。
「喜び」から「怒り」への移行期間に四苦八苦している若者に手を差し伸べるべき存在が大人である以上、下心の有無に限らずだ。
コミュニケーションの一環として酒だとかそうしたものが人間の歴史の古くからあるのは「先輩」が我儘を言って「後輩」を困らせる事などではなく、大前提として「エピソード」を伝える場だろう。
これから25年間の「怒り」の季節。
先に生まれた者として先に壁に当たった時に感じた「怒り」。
壁を乗り越えられなかった「自分の弱み」。
振り返る事で理解できる事前に出来た準備などの「後悔」。
壁に乗り換えるために誰に助けられ、誰を消耗させてしまったのかという「罪悪感」を織り交ぜたエピソードを伝える。
「怒り」に任せて「没頭」し、エピソードを整理する事なく「実力」でねじ伏せる。
カッコいい、と感じるかもしれない。
自分もそんなものに憧れる時はあった。
だが「誰にも真似できない事」、あるいは「一定以上の才能」を持たないと出来ない事にどれほどの意味があるのか。
確かにアスリートなどの活躍などで莫大な経済効果が発生する。
しかし、それは経済を0から生み出しているわけではなく、元からあったものが流動しているだけだ。
0から1を作り上げているのは紛れもなく、自分を含めた「凡人」だ。
大きなうねりを生み出す攪拌機がいくら増えた所でその中に入れる「1」が少なければ意味がない。
その「1」を、「凡人」を生み出すために「喜び」と「怒り」、両方が必要である。
次の世代へ伝えるため、そして自分の次のステージとなる「哀しみ」の季節に移行するためにも「喜び」、「怒り」エピソードはそれぞれ整理しておかなければならない。




