喜怒哀楽その2
喜怒哀楽の最初の文字、「喜」。
その喜びに内包されるものに「嬉しい」と言う感情がある。
この「喜び」と「嬉しい」、その意味合いも、漢字も似ている。
その上でその違いを考えると漢字としては「女偏」があるかないか。
この女偏だが女の感情、と言うよりも漢字が生まれた時代における女の立場を考えると女という性別よりも国の政治の中心だった男に対して女という「弱者」という立場になる。
自分なりに解釈するなら「喜び」と「嬉しい」の違いに女偏、「弱者」という立場が関わっているならこの二つの言葉の意味の違いは「与えられる立場」であるかどうかだ。
「プレゼントを貰って嬉しい」とは言うが「自分はプレゼントを貰って喜んでいます」とはあまり言わない。
だが相手を見ながら「プレゼントを贈って喜んでもらえた」とは言う。
「試合に勝って嬉しい」とは言うが
「自分は試合に勝って喜ぶ」とはあまり言わない。
だが「彼は試合に勝って喜んだ」とは言う。
つまり「価値を与えられた」「価値を認められた」と言う他人から愛情を与えられた自分の感情、弱者の立場として他人から応援された自分の感情が「嬉しい」である。
逆に「喜び」とは他者に与える言葉でその様を観測している強者の立場、あるいは第三者視点から見たものとなる。
後に上げたあまり言わない「自分は◯◯して喜び」と言う表現は殆ど使わない表現だが振り返ったりして第三者視点で反省する時なら使わないわけでもない。
「嬉しい」が現在進行形で与えられて感情が動いている事を表す言葉。
一方、自分の過去に起きた「喜び」を他人事のように観測している視点の表現の違いではある。
だが「プレゼント」をされて「嬉しい」のと
「試合に勝つ」ことで「嬉しい」のは少し異なる。
「プレゼント」はあくまで相手から一方的な好意、善意によるもので「反省」しようがない。
しかし「試合に勝つ」は自分の行動による結果であり、反省が可能だ。
自分が他者に対して働きかけてその報酬を得る事、「達成」した事を指す。
もし「プレゼント」による「嬉しい」を反省するのであれば「何故プレゼントを貰えたのか」を反省し、日頃の行いだとかプレゼントをくれた人の様子だとか「嬉しい」と言う感情とは別の事を延々と探す必要がある。
つまり喜怒哀楽の「喜び」とは達成感、最近流行りの言葉で言えば「成功体験」と言うものを指す。
コレが子供の時期、「青春期」に重要視しなければならないのは逆算すれば「色々な事に挑戦する」と言う事に他ならない。
とはいえ未成年、もっといえば児童、幼児を自由にすればまず間違いなく事故や事件などで怪我や最悪死ぬ。
何より、子どもが出来る事、行動範囲も限界がある。
例えば鉄棒。
健常者の大人なら自力で掴み、ぶら下がるくらいの事は可能だろう。
だが小さな子どもだとまず自力では届かない場合もある。
子どもサイズの鉄棒があればそれが理想だがないなら大人が抱き抱え、サポートしなければならない。
そして掴んでぶら下がる、たったそれだけでも小さな子どもにとっては「挑戦」であり、それを大人が褒める事で「成功体験」となり「喜ぶ」。
それは間違いなく大人からすると「手間」ではある。「時間」も取られるし、場合によっては大人の方が振り回されて「受け身」にならざらるを得ない場合や「お金」がかかる事もある。
しかし子ども一人では出来ない、あるいは危険である以上、サポートしなければならない。
大人は我慢を強いられ、「怒り」のエピソードを心に刻み、その一方で子どもは挑戦した事、達成した事、褒められた事で「喜び」のエピソードを得る。
与えられるだけの「嬉しい」では「喜び」には至らない。
至らないから「エピソード」に残らない。
「喜び」とするには「嬉しい」と言う結果だけではなく、「何故そうなったのか?」と言う原因と過程、「喜び」の因果関係が必要になる。
だが未熟な子どもにはそれを深掘りするだけの能力がない。
また、能力以前に゙それを深堀りする意味を理解していない。
だから親や教師、大人がそのスタートから過程、そしてゴールまでの道筋を示し、子どもに「喜び」のエピソードの作り方を教えるべきである。




