エピソードの力、その4
長い。分けた方が良かったかな。
エピソード、言ってしまえば
自分の過去の思いを他人に「伝える」ために「反省」するという事であり、つまりは「考える」という事。
以前にフェミニストについて話題に挙げた時にSNSで外交の男性が「女の言ってる事は殆ど聞いていない。本当に大切な事は20%くらいでそこだけを聞いている」
みたいな動画を見かけたという話を紹介したと思う。
結局のところ「女の話が長い」「女の話は無駄が多い」とはエピソードを語れないからだ。
女はエピソードを語っているつもりでもそこにあるのは「自分」だけ。
エピソードを考える上で
1.問題発生
2.感情が動く
3.問題解決に動く
4.結果が出る
5.教訓(結果を受けて自分が感じた事、それを他人に伝えるための言語化)
この5つ(実質6つ)の工程を予めやる必要がある。
しかし、「経験に価値がある」という考え方では重要なのは1〜3までとなる。
4の結果も重要だが、「成功」すれば「自慢」になるし、「失敗」すれば「隠す」だけ。
その隠した失敗で感じた不満を解消するためにお喋りをして、愚痴をこぼす、吐き出す事で解消する。
だから「女の話の殆どは無駄」と言われる。
そして「教訓」を考えないため、他人に伝える時は1から4まで全てを伝える。
そして5の教訓を本来伝えるべきなのに、聞く相手に委ねる。
「1から4まで提示すれば5は自分と同じ答え、同じ感情になる筈」
よく言われる「女は共感を求める」とはそういう意味だと思う。
けれど「経験に価値がある」としている、つまり「結果」に価値があると言う思考のため、前述の通り、成功を自慢し、失敗を隠す。
加えてエピソードを考えない、つまり反省のために過去を反芻しない。
そのため「都合の良い事だけを話す」
「都合の悪いことは話さない、あるいは忘れてしまう」
という自体になる。
結果として長々と語って、聞く側の時間を奪った肝心の1〜4すら「まともな事実」ですらない場合が多々ある。
「自慢」するから「誇張」する。
「隠す」から重要な事が話から「抜け落ちる」
そしてコチラが共感しない、5が同じ答えにならないと不満が溜まり、溜まった不満をコチラの所為にする。
「察しが悪い」「常識がない」「普通に考えればわかる」
と自分を基準に「普通」としているためにそうした相手の能力の無さをせめる。
その上でコチラが無視をしたり、あるいは話を切り上げようとするとそこでようやく「考える」。
まず最初に話をしている相手は「価値がある相手」なのかどうか。
つまり「強い権限を持つ相手」かどうかであり、その相手にとって自分が「情け」をかける事で返ってくる「愛」はどれほどなのかを考える。
つまり「損得勘定」で相手にその価値があると判断すればそこでようやく次の「考える」、「隠していた事を話す」に向かう。
自分が損得勘定で価値を認めた相手には無視されたくない。
「無視」される事とは「無価値」であり、無価値に扱われたくないからようやく「隠していた事」を口に出し、「忘れていた事」を思い出そうとする。
けどここでも「隠していた事」を語る事だけをするので全体的な流れにまとまっていない。
1〜4において誇張した部分を削ぎ、隠していた事をまとめて「完全版」を再度説明するのではなく、その1から4までの「ボツネタ集」を語る。
昔のカンフー映画などでスタッフロール中に撮影風景を流す事で最後まで楽しませるという手法があったがあれは直前に映画を見たから映されている制作途中の映像も「あの場面」だ、という話の流れを視聴者側も共有しているし、カンフー映画という見た目に迫力のあるものだし、コミカルな映像という事からスタントも相まって楽しめる。
だが「女」の語るボツネタ集はカンフー映画のスタッフロールではない。
聞く立場の人間は語り手の「女」の経験を共有していない。
何故なら「誇張」がなく、「隠蔽」もない、「事実」を説明してもらっていない。
後出しでまとめてボツネタを提示されても1から4の何処の事を指しているのかコチラとしては分からない。
そこからさらに「聞き手」のコチラ側が赤ペンで幾つも注意書きをして、誇張した物や間違いに二重線を引いて修正し、ボツネタ集からいくつも→を引っ張って「未完成」の1〜4に補足していく。
そして「下書き」から「完全版」にする事でボツネタ集にどこにも→が伸ばされていないものが余る。
ボツネタ集から1〜4のどこにも矢印が伸ばされていないという事はボツネタ集を開示する途中で更に嘘を忍ばせている事になる。
隠したものをさらけ出す過程で「現在の自分」が「過去」を振り返る。
「完全版」の何処にも→が向かわない、ボツネタ集に残った単なるボツ。
しかしそれはボツネタを完全版に昇華した後に残ったもの、それが5の「4の結果を受けて感じた自分の感情」でもある。
あとはそれを元に言語化してさらに練り上げ「エピソード」を完成させる。
エピソードを作った先は「誰かに伝える」内に削がれていく。
1から5まで全て書き出し、言語化したもののうち、
「エピソード作りには必要だったもの」
から
「わざわざ相手の時間を奪ってまで伝えるには不必要な事」
を取り除く。
それがカンフー映画でいうところのスタッフロール中に映される制作風景。
「制作側」と「視聴者側」のそれぞれにとっての「必要な事」が見えてくる。
「感情」を伝えるには全てを伝えなければ気が済まない。
だが「教訓」を伝えるには必要な事だけ伝えればいい。
冒頭の外国人の男の意見として「女の話は無駄が多い」だから「必要が部分だけ聞く」という話に戻る。
そうした不満は「大人の男女」の関係、すなわち対等な関係だからこそ起きる男の「正当性」だ。
これが大人と子供、「親子」関係ではその男の「無駄話が多い」と切って捨てる正当性は「子供への無関心さ」の現れ、となる。
以前のエッセイでも語ったが女が持つ「感情論」は子供のソレに繋がる。
女の「共感能力」は女自身が他人へ求めれば害悪だが、その力を他人のために使えば男の「論理的思考」にも劣らない必要な力となる。
そのためには「エピソード」を「作る力」とエピソードから教訓を「読み解く力」、それを行動へ移す際に「活かす力」。
「経験」は価値があるがそれは「経験した人間」、一人だけの価値だ。
経験から「学び」を得ても「学びを得た人間」一人だけの価値でしかない。
仮にそれで「有能」になってもその人個人の価値ではなく、あくまで「能力」に向けられた価値だ。
仮に「金持ち」になっても「金」に価値がある、あるいは「権力」に価値があるだけでその人個人には価値はない。
それらと同様に「女」は「男」に比べて価値があるとはいえ、それは「子どもを産み、子どもに共感できる、子どもを守る事が出来る」から価値がある。
女自身には然程価値はなく、あくまで「子ども」に価値があるから女の価値が上がる。
皆から本当に「自分の価値」を得たいと思うなら経験から「教訓」を伝える必要がある。
だが教訓を伝えるだけなら人類の長い歴史の中で散々語られてきた。
自分のエッセイも含めて、あらゆる教訓の本質は過去の偉人、あるいは学問、宗教などで求道者達が既に語ってきて書物にも伝えられてきた物が9割、いや99%がそうだろう。
昔から獣としての人間は変わらない。
食べなきゃならない、寝なきゃならない、交わらなければならない。
変わったのは人間ではなく「価値観」や「文化」、「社会」である。
そしてその根幹にあるのは「言葉」である。
いくら過去の偉人達と同じ事を繰り返しても価値がない。
それは「伝わらない」からだ。
仮にどれほど「中身」のある偉人の言葉を伝えようとしてもそれが「英語」ならどれほどの日本人に伝わるのか。
「漢文」なら、あるいは「サンスクリット語」なら?
地方の「方言」でどれほど語ろうが伝わらなければ意味がない。
外国の言葉を、あるいは方言を相手の使う言語に「翻訳」する事が重要だ。
だが「翻訳」すれば大体の意味は通じるが全ては伝わらない。
感情がないから「危機感」「悲壮感」がなく、だから「緊急性」もない。
全てを伝えるには相手側がコチラ側の言語を理解してもらう必要がある。
だが誰がその面倒な事をしたいと思うのか。
誰も「面倒」だと分かっていれば手をつけない。
「大体」が分かればそれで支障はない。
「大体」が理解できれば「普通」であり、そして「普通」の先には何もない。
停滞する事は明白。
だから「普通」より「深い」ところへ誘う。
子どもにとっての「絵本」。「ゲーム」「アニメ」、あるいは「音楽」、「アイドル」。
動画の「サムネ」、「タイトル」。
エピソードとはそうした他人からの関心を寄せ、自身の教訓を伝えるための「撒き餌」だ。
教訓とは普通より「深く潜る」事であり、教訓の言語化が「翻訳」、エピソードは教訓への「撒き餌」。
今の自分にはこうした表現が精一杯だが、コレを見た誰かしらが何かしら考えてくれたらそれが自分にとっては「釣果」であり、「結果」。




