エピソードの力、その3
エピソードは「過去」と「現在」を繋ぐ橋。
その橋だが
「もう幅の狭い橋をかけるよりもいっそのことそれを「事実」で島までの道のりを全てを埋め立ててしまえ。」
それが現代社会だと思う。
というよりも若者達だと思う。
旅行にいったら全国各地にあるデパートやチェーン店より、その土地特有の物を買いたい、見たい、食べたい。
デパートやチェーン店は安心感はあるが、あって当たり前。
皆の頭で分かっていても健康、自然、古い文化、全て消えてから気づく。
「故郷」の良さを上京してからきづ気づく。
「親」の有り難みを独立してから気づく。
それと同じように
「ブラック企業」から転職してようやく搾取に気づく。
「毒親」から逃げ出して異常さに気づく。
自分の命をかけてまで価値があるのかどうかもわからない他人の思いを「開拓」したくはない。
自分の命は自分のものである以上、開拓するべきものは自分で決める。
「捨てる」
それは人間が成長していく、発展していくならどうしても通る工程なのだろう。
そして自分もまたエッセイでそれを肯定している。
ただ、それは一度やってしまえば「取り返し」がつかなくなる事を覚悟する必要がある。
時代遅れ、とされる文化や技術、建物や精神性。
必要か?不必要か?の二択。
あるいは価値があるか?ないのか?の二択。
二択だけで考えればスピードはあるが考えは浅くなり、「中学や高校を卒業したらどこに進学、就職するか」という2、3年先の「近い未来」ならともかく、何十年という「人生設計」あるいはそれ以上に続く「歴史の伝承」などの「遠い未来」には適さない。
感動や思い入れ、そうした過去の出来事からしか教訓は得られない。
教訓がゴールではあるがそれは謂わば「答え」である。
1.問題が起きる→2.感情が動く→3.問題解決に動く→4.結果が出る→5.教訓。
こうやって考えると1の時点で「受け身」である。
つまり、「情け」のスタートに立っている。
そして2ではその人自身のそれまでの経験から作り上げられた価値観によって感じる感情が異なる。
その上で2で感じた感情を解消するために3の問題解決へと移行する。
そしてその結果が4、教訓が5である。
上記のパターンで4と5は軽く書いたが4も「結果がつきつけられる」と言う意味では1と同じ「受け身」である。
そして教訓を5、と一括りにしてしまったが4が受け身、「情け」のスタートであるため実際はその結果を受け止める「感情の変化」と教訓へと昇華するための言語化という「解決策」の2つの工程がある。
5と言いながら実質5と6の工程がある
しかしこの二つの工程は言うなれば「反省」の2文字で表せる。
また、順序が前後するが3の工程において問題解決だが
A.100〜81点の少しでも得をするように「我儘を通す」、
B.80〜60点のそれなりに納得できる「妥協点を見つける」
C.59点以下の「我慢する」から選ぶ事になる。
この3パターンの「」の前に書いた事が価値観となり、「」で括った部分が実際の問題解決に向けて行う行動、あるいは思考となる。
3パターンのうち、B>A>Cの順がエピソードの厚みとなる。
Bは「自分にとって必要で大事な事」と「自分が我慢せざるをえなかった事」、「そのために自分が頑張った事」をエピソードにできる。
Aは「自分が我を通した事実」「我を通すために自分がした事実」を元にエピソードができる。
Cは何もなく、強いて言えば「我慢した自分」という自慢、あるいは我慢によって「後悔した」という感情くらいなものだ。
その上で更に整理すると
B→「自分の事」「他者への配慮」「実際に行った事実」
A→「自分の事」「実際に行った事実」
C→「自分の事」となる。
これが最初に挙げた教訓までの5つの工程の3にあたる部分だ。
そしてこの3の段階で「他者への配慮」が出来ないA、Cの人間が5の段階、つまりいざ「教訓」を言語化しようとする時、「他人が理解できるように」配慮できるだろうか。
経験論になってしまうがそうした人間は自分も含めて100%に近い確率で出来ない。
どれだけ弁が経っても、さまざまな経験をしていても「他者への配慮」がそこにないという事は「他者から配慮された」「他者から助けられた」という部分がエピソードから欠如している。
だからエピソードではなくAのそれは「自慢話」になり、Cは「不幸自慢」にならざるを得ない。
結果としてAの中でよりサイコパスに近い「恥知らず」が過去の「恥」を晒す事で自慢話と合わせて「苦労話」として取り繕う事で自慢話にようやく「他者の存在」が取り入れられてBと同じエピソードとなる。
しかしその過去の恥を曝け出す物、タイミングと状況、場所を考えなければSNSでいうところの炎上、最悪訴訟やらなんやら法的措置、あるいは個人の恨みを向けられる事もある。
さて、最初に戻って「若者」達がエピソードという「橋」ではなく事実という「埋め立て」を行うという事について。
この二択しかない、というのは当たり前で若者故に「エピソード」が充分にないからだ。
若者、とはいうがそれは単に年齢だけではなく引っ越してきたばかりの移住者だとか新入社員とかそうした「歴史の浅い者」を指す。
エピソードがない以上、「必要」「不必要」の二択しかないのは当然である。
ならそのエピソードを補填してやる、というのが本来なら「古株」の取るべき行動の筈だが結局それは先述の「B」、次点で「自慢と一緒に恥を語れる一部のA」だけ。
残りの「大部分のA」と「C」には結局「自分」と同じ事をさせる方法しかない、というより「その方法しかない」と思考停止しているという方が近い。
それでも「やってみなくちゃわからない」は確かにそうだ。
エピソード無しでも「体験」してみれば確かに分かる。
しかし1〜5の問題発生から教訓までの中に2回も「感情の動き」がある。
仮に同じ問題が起きても世代や育ってきた環境の異なる、価値観の違う人間では感情が動く方向も違えばそこから発生する解決策なども違って当然であり、必ずしも「やってみなくちゃ分からない」という「古株」の期待通りの答えには至らない可能性もある。
その「古株」自身の期待とは異なる結果になる可能性も受け入れる度量と思考能力があれば「やってみなくちゃわからない」という言葉も説得力がある。
しかしながら現実的には「廃れる」ということは
「やって見なくちゃ分からない」→「やれば(若造の浅知恵などより自分達のいう事が正しいという事が身を染みて)わかる」
という事を期待して「やって見なくちゃわからない」と()の中の自分達の正当性を根拠なく信じている。
問題が発生して感情が動き解決へ向けて「考える」
結果から読み解き教訓を他者へ伝えるために言語化するため「考える」
そして教訓を元に未来について「考える」
「まずは行動」
という言葉で行動できるような人間ばかりなら世話ない。
行動から「モチベーション」は上がる。
しかし上がったモチベーションによる「普段とは異なる行動」から生まれるのは「問題」だけ。
「問題」から「感情」が生まれ、「感情」から「思考」が生まれ、「思考」から「行動」へ繋がる。
そして「我慢」もまた行動である以上、昨今の「行動」を起点で考える流行りは間違いではないか、と思う。
それは行動において「我慢」の優先度が高かった自分の経験論にも重なるが。
そしてそれが「個人」の枠であり、「他者」、「社会」などの「人」の軸、「環境」の軸、「世代」の軸、他にも様々な軸がある。
自分1人で完結するなら「行動」が起点でも何処が起点でも構わないが大抵そうした「自分以外」の軸が関わってくる。
であるならばやはり「伝える」事、そのために「エピソード」、そのために「感情」、感情が動くための「問題」。
「受け身」と「感情」、「問題」と現代で否定されがちな概念だが、だからこそそれをしっかり「時間」と「労力」をかけて認識した方が良い。
自分はそう思う。




