エピソードの力、その2
体調が悪い。でもまだ生きている。
以前、SNSで弱者男性を煽るための画像と呟きが流れてきた。
画像自体はただの若い女の子が笑っているものだったがそれに添えられた文章が
「おじさん、私の倍以上の年齢なのに社会的な経験は私以下だね」
正確なのは忘れたがそんな風な文章。
画像の女の子が弱者男性を煽るような言葉を言っているように見せる呟きだ。
恐らくその画像は拾い物で投稿者とは無関係だとは理解している。
その上でその煽りに反応すれば弱者男性認定を受けるし、煽りが刺さるような人間からすれば弱者男性認定されたくないがためにそれに耐えるのはストレスが溜まる。
さて、この「経験」というものだが社会的には随分ありがたがられている。
自分としても社会的な経験が乏しいため、コンプレックスがないわけではない。
とは言え社会で有り難がられるようにそこまで重要なのか?と今現在思っている。
勿論、無いよりもあった方が良いのは確かだ。
だが同じように学校教育を受け、同じように年齢を重ね、それでも成人になった時の価値観に、そして死ぬ最期の時の幸福度に個人差がある。
戦後から脱却しきれていない日本、それが自分の解釈でありそれでもなお、「戦争の愚かさ」が語り継がれる。
にも関わらず数年前に若い政治家が「戦争も止むなし」、あるいは「防衛のために戦争を」といったような戦争肯定の様な話がでた。
批判の声がある一方で「日本は平和ボケしている」という理由で消極的だが戦争肯定のような意見もある。
これだけ敗戦国として、そして唯一核兵器を使われた国として「戦争の愚かさ」を散々説かれてきたのにそうした正反対の意見が出る。
また現在でも世界では戦争、内紛が起きており、それに巻き込まれる人間がネットを通じて助けを求めていても「可哀想」とは思ってもだからと言って助けに行かなくちゃ、と思う人間はごく少数だ。
結局は「他人事」。
さて、その他人事だが、それが最初に述べた現代日本で有り難がられる「経験」そのものだ。
会社や学校の面接、何かしらの審査でそうした物は書類などで重要視される。
とはいえそれは初対面の相手に限った事であり、既知の間柄でのやり取り、日常においてコミュニケーションを取る場合、それはそこまで必要とはいえない。
勿論、経験が不必要とは言わない。
経験によって得た「常識」を知らなければ、「普通」に至らなければ、そして「思想」が異なればその場に置いて他人に迷惑をかけて「恥」をかく。
だが恥をかくのは「自分」の心であって他人からすればその心もまた「他人事」でしかない。
他人からすれば自分の経歴も感情や考え方もどうでもいい、「他人事」でしか無い。
戦争の経験、戦後の苦労、戦争への感情。
仮にいくら血縁関係のある祖父母や親であっても自分ではない以上は他人事。
それと同じように例えば自分自身の学校での学びや経験、苦労。
それらは相手からすればやはり他人事である。
では面接などで何を見るのか。
そうした「他人事」の経歴は予め書類で端的に知る事ができる。
わざわざもう一度の人の口から聞く必要もない。
問題は「信用」できるかどうかだ。
そのために必要なのがエピソード、経歴に書かれた過去の事実に対して「主観」から見た風景。
何が起こり、その起こった問題の何に対して何を思い、何を考え、何をしたのか。
仮に目の前で見ず知らずの人間同士の暴行事件が起きても反応は異なる。
止めに入ったのか、撃退したのか、通報したのか、救急車を呼んだのか。あるいは逃げた奴を追いかけたのか。
今の時代ならスマホで撮影してネットに上げたり、下衆な奴なら倒れている人間から財布などを抜き取るかもしれない。
悪事をエピソードとして曝け出すのは公共の場や会社などの面接などではしないだろう。
しかし酒の席や身内の悪ノリなど、話のネタとしてポロリと「悪自慢」をしてしまう。
だがその悪自慢も見方を変えれば身内という「信用」ができる人間のみに打ち明ける事ができるエピソードだ。
他人にエピソードを尋ねるというのは経歴を通じて「信用」できる人間かどうかを探る事。
エピソードを語るのは相手を「信用」して打ち明ける事。
けれど先述の通り「基準」に満たない、あるいは「偏り」がある事は「恥」という感情が尋ねる方にも語る方にも「お互い」にある。
だから重箱の隅をつつくような厳しい質問をし、答える方は嘘を織り交ぜて誇張して答える。
お互いに損をしたくない。
何故なら損をするのは自分の間違いであるから。
自分の間違いを認めたくない、認めたくないと言うことは「恥」をかきたくないと言うこと。
尋ねる方は「愛」を与える側。
語る方は「情け」をかける側。
低コストの「愛」で最大限の「情け」を得るために厳しく査定する。
「情け」をかける方もまた最小限の「情け」で最大限の「愛」を得たい。
お互いに譲り合えば上手いところで落ち着く。
譲り合わず「身の丈以上」を求めれば「残り物」しか残っていない。
そして、自分がその「残り物」になっていく。
そうならないように「戦後」の女達、そうした母親に育てられた息子が得た女的精神の価値観の主導で「信用」を得るためにやってきたのが
・「経験」を積む事。
・「金」を貯める事。
・「見栄え」を良くすること。
そうやって「社会的な価値」を手にいれる事で「信用」を得る。
自分は農家なので基本的にはリモートワークとは無縁だが、パソコンのカメラに映る上半身だけスーツ、下はパジャマみたいな話に近い。
カメラに映る「社会的」な部分、スーツを着て綺麗な部分だけから判断し映らない「プライベート」な部分「下も履いているだろう」と予測する。
「たくさんの社会的に価値あるものを身につけている、だから信用できる人間だ。」
スポットライトの当たる「陽」の部分だけみて「陰」を見ていない。
「陽」が強ければ「陰」もまた強まる。
その陰に隠された部分の一端、主観を伺えるのがエピソード。
その人ともっと深い仲になりたい、深く知りたいと「考えれば」そのエピソードを引き出すように動くのが当たり前だ。
けれど実際にはどうか。
もっと仲良くなるために「自分」の価値を高める。
もっと「自分を知ってもらう」ために感情をぶつける。
もっと「自分の思い通り」に動いてもらうために我慢させる。
相手の事を考えているようで実際は自分の事しか考えていない。
これが男女間で起こる、そしてその前の段階で親子間で起きる。学校やビジネスの間柄でも起きる。
経験や実績は見れば分かる。感情なんていくらでも隠す事が出来る。
だがエピソードは過去に起きた事実を受け身となって考えた主観。
書類などで確認できる「過去」と「エピソード」の事実が整合性が無ければいけない。
「現在」相対している相手のイメージと「エピソード」の考え方がかけ離れているといけない。
それはつまり過去と現在の整合性が取れていないといけないという事。
「第三者視点」だとか「相手の気持ち」だとか、そうしたものが重要視され、持て囃される。
だから「自分の気持ち」が置いてけぼり。
気持ち、喜怒哀楽を表現するのは子供でも出来る。
笑顔や泣き顔、怒り顔。「顔」の形で表せる。
けれど大人になり、経験によって感動が薄れ、ましてや社会的に感情的になるな、と教育されてきた。
社会で気持ちを伝えるために子供が玩具を買って貰えずに泣き喚くように大人が感情のままに伝えるわけにはいかない。
大人として感情を伝えるために言語化する必要があり、それには過去に問題にぶつかった事実とそれを受け止めた自分の気持ち。
それに「向き合う事」と「考える事」が必要である。
そしてそれをエピソードとして言語化して「伝える」。
エピソードとは「過去(事実)」であり「現在(思い)」でもあり、そのそれを繋ぐ「橋」である。
エピソードを蔑ろにして、つまり橋をかけずに「私の思いを察して」とは
いくらでも変化したり嘘がつける「目印」を頼りに泳いで自分と言う島へとやってこい、というような事。
「橋」をかける苦労を知らないから「橋」の有難みもわからない。




