エピソードの力、その1
長い。
AIイラストがとやかく言われるのは突き詰めれば「時間」と「手間」、そしてそこにかけた「コスト」がそれまでのイラストレーターがかけたものに対して遥かに低コスパだから。
けれど、AIイラストだと気づかないものからすればリアルに描かれたそれを有難がる。
SNSで「実写モデル」の画像を貼り、フォロワーを獲得していたアカウントがAIに描かせた「実写モデル風イラスト」を上げていたりする。
ネットでイラストを日常的に見ている目の越えた人間ならAIイラストと実写の違いはすぐ分かるかもしれないがパッと見は分からない。
だからそれがイラストだと気づかずに「このモデルの名前を教えてくれ」と尋ねる者もいるし、イラストだと気づいた事で文句をつける者もいる。
勿論、イラストだと気づいた上で楽しむものも。
受け手の感動さえあれば創り手側の努力や思いなどどうでもいいのが正直なところ、現実ではある。
だから以前、「完結詐欺」みたいな作品に対してのアレコレのエッセイが話題になってはいた。
結局のところ、「本物」か「偽物」か、などは「拘り」の創る側でも受け手でもなく、あくまで「拘り」がある側の問題でしかない。
今じゃ大豆などで作られた代替肉もあるがこちらも最近の「ヴィーガン」周りの過激派の印象のせいで微妙なイメージがある。
しかし昔からのカニの風味に似せたカニカマだとか、様々な「偽物」がある。
だが代替肉と異なり、昔からあるカニカマは偽物とは言われないし、イメージも特別な感じはしない。
シンプルに言えば長い歴史があるから、伝統があるからこそ偽物とら言われない。
かといって昔から何も変わらず歴史が長いだけというわけではなく、むしろどんどん改良が重ねられている。
その上で本質は受け継がれている。
カニカマのように偽物でも本物と同格、物によっては本物以上の評価を受けている場合もある。
それは「鏡に写る姿」で上げたドラゴンボールや火垂るの墓、ホラーゲームといったフィクションを始めとした物だ。
個人的な意見としてはそうした「偽物」を作り上げる表現者達は自分を含めて「本物」として扱われたい。
本物の代わり、「代名詞」となりたい。「例え話」になるような物を作り上げたい。
例えばこの小説家になろうでも根強いワードである「最強」。
ネットで若干イジられながら元女子レスリングの、といえばすぐに思い浮かぶだろう。
身体能力最強、と言えば元男子ハンマー投げの。
現役選手なら二刀流のメジャーリーガーの。
あえて名前を出さずともそれだけで分かるほど。
彼らは積み上げてきた競技の実績は勿論確かなものだ。
しかしあくまで競技の実績はその時代、環境で変化する。
だからこそ階級制の競技、ボクシングなどでは体重のハンデがない状態での技術的な実力のみを考えるパウンドフォーパウンドなどの称号を考える余地が生まれる。
もしも体重差がなかったら、誰が強いのか。
そうした妄想が有識者の中で真面目に議論される。
そうした議論が為されるにも関わらず、先述の「最強」として上げた3人は確かに偉業を達成しているが、その実績だけを見れば上を行く選手がいたりする。
にも関わらずそうした実績として上の選手がいるにも関わらず、技術に対して素人である一般人にも広く「最強」として認識されている。
それはその選手自身の選手としてのスタイル、考え方や発言、対戦した相手が言葉にした印象、幼少期の話や日常のちょっとした行動、つまり「エピソード」の方が「最強」の称号を際立たせるからだ。
表現する者として「感情」のままに表現すればそれは性癖の暴露と変わらない。同好の士には評価はされるが異なる性癖の人間からは引かれる。
かといってただ淡々と「事実」、カタログスペックや数字だけではつまらない。
数字やスペックを書いた「資料集」は本来相反する性癖の同好の士に好まれるが興味のない人間の関心を惹きつける事にはならない。
感情を事実のように描けば「嘘」になる。
だがその「嘘」を感情の起こりから終わりまでの「過程」を描けば「物語」になる。
そしてその物語を作品の「事実」とするならそれは「最低限」となる。
その物語を最低限の60点から80点へと引き上げるのがエピソード。
感情でもない、事実でもない。
その人の立場から見える「風景」とも言える「主観」が必要。
それをクリアに描けば色彩となり、受け手に重みを感じさせる。。
エッセイで偉そうに語ったが自分は感情に任せて書いてるので話が長い。




