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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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変化するから手入れをする。

2日前に投稿した、と思ったら勘違いしてまだ投稿してなかった、というエッセイ。

暫く前にSNSのトレンドか、あるいは動画で見た話だ。

田舎の昼を知らせるサイレンがうるさくて苦情を入れたが聞き入れてもらえず、怒り心頭。

結局、その怒りに任せて田舎の悪口や文句で炎上した。


まぁ、よくあるといえばよくある。

炎上した者をたしなめる者、小馬鹿にする者もいる。

一方で過去に、あるいは現在進行系で田舎に嫌悪感を抱く人間が苦情を聞き入れなかった田舎は「だから寂れる」とここぞとばかりに言ってみたり。


結局のところ両方とも正論だと思う。

田舎には田舎のやり方があるし、文化がある。

その一方でだからこそ田舎は寂れる。


「サイレンを消せという移住者の言葉に従えば、調子に乗って他のものもなし崩し的にそれまであった伝統も全て消える」

それはそうかもしれない。と言うか多分あったのだろう。

だから?

何故「従う」or「否定する」なのか。

それはシンプルで時間や労力、コストなどを取られるし、何より変化によって生じた問題の「責任」を負いたくないからだ。


「田舎では農業従事者等が多くて作業中では時間を忘れてしまう事もあるがサイレンの音のおかげで時間を知る事が出来て便利」

今どき田舎の人間だろうが高齢者だろうがスマホもあるし、昔からラジオもある。

この令和の時代にいくら田舎だとしても作業中でもサイレンの音以外の方法で時間を知る方法なんていくらでもある。


「自分が子供の頃、田舎に居た時は山や海で夢中になって遊んでサイレンが鳴って昼間のオニギリを食うのが定番だった。昼になればサイレンが鳴るのが情緒がある。田舎にはそうした伝統をなくさないで欲しい」

移住者どころか「外部」の人間がアレコレ注文つけるのも面倒な事になるし、個人の思い出のためにサイレンが鳴っているわけではない。


移住者の苦情は確かにそこに昔からいる人間からすれば面倒な話だ。

しかし、そのまま余所からの意見を聞き入れず全て「 郷に入っては郷に従え」と放って置けば人はますます寄ってこないし、寂れる一方だ。


お互いに歩み寄れば昼間のサイレンの妥協点は簡単に見つかるし、コメントの中には挙げられていた。

「自分の田舎はサイレンじゃなくて学校のチャイムのような音だったし、場所によっては歌が流れるところもある。そうした音ならサイレンのようなけたたましい音ではないし、移住者の方もイライラしないのではないか。」

というものだが最低限のお互いに歩み寄れば妥協点は見つけられる。

時間をおいて慣れてしまえば問題なくなればそれでいいし、時間が経っても駄目ならまた妥協点を見つければ良い。

見切りをつけて消えるのはそれからでも良いのではないか。

それだけの話だがコストが、時間が、などの話にすり替わる。


田舎には文化がある。

田舎の自然、それに伴う人間関係、そこから生まれる弱音。

その弱音を上手く拾い上げて環境に適応させるのが文化。

訛りだとか、祭り、産業。

そうしたものがなぜずっと受け継がれてきたのか。

それは皆で「100点」を目指して来たから。

町ぐるみで口伝や資料、建造物などなら補強したりして「維持」してきた。

だから昔からあるわけだ。


とはいえ、人は老いて、やがて死ぬ。

また時代によって環境が変わる。

そして分からなくなる。

最も分からなくなる物は「感情」、「思い」である。


「鏡に写る姿」で延々と語ってきたが自分の解釈では日本とは80年近くずっと「戦後」から立ち上がっていない。

物や人は変わっても延々と徴兵された男に゙変わって女が男の肩代わりをして戦後を頑張ってきたと言う「思い」を引きずっている。

最早「呪い」に近い。

何故なら今ある便利な物や楽しい事はその「思い」を鎮魂するためのもの。


「母親」が子供に自分が若い頃、「娘」だった頃の苦労を語る。

そうやって自分の苦労話を聞かせて我慢させ、母親として楽をする。

そんな楽な母親を見て子供は一時は一緒に喜ぶが我慢をする度、自分の思いを押し殺す事になる。

だから子供が大人に、「男」、あるいは「女」となり解放された時に歯止めが効かなくなる。

そして様々な過ちや失敗を経て、「母親の言っていた通り我慢すればよかった」と勘違いする。

場合によってはそれに追い討ちをかけるように親や周りの人間から我慢すれば良い、と言われて尚更それが「正しい事」と考えてしまう。

そしてそれを今度は自分が親になってそれをまた自分の子供に伝える。

本来なら成功するためにはもっと準備が必要だったのに、余裕を持つ事が必要だったのに。

「周りの人間」が自分の時間や労力を割かなくて済むように、あるいは我慢させる事でもっと自分達に奉仕させるように無意識に、あるいは意識的に「助言」ではなく「支配」しようとする。


田舎の伝統とはそれと同じ。

ただ受け継がれるものが「目に見える文化」であり、「思い」ではないと言う事。

本来なら「伝統」こそ「思い」を伝えるべきものだ。「伝える」事を「統べる」のだから。

しかし環境の変化によって存続させるためには「思い」を伝える事を省く。

仕事の多様化、趣味の多様化、機械化、効率化、人間関係の変化、そして何より老化。


伝統が「起こった」当時のやり方では現実的に不可能だ。

人道的な問題、失われた技術や自然環境。

それでもなお、何とか「形だけ」でも残していく。

形骸化により、見た目は残るが当初の思いを受け継ぐ者は極一部、あるいは消滅する。

それでもなお、残そうとする。

「お前たちの代で終わった」と言われたくないから。

自分達が責められたくないから残す。

そうして伝統は負債となって田舎の消滅とともに消える。


「100点」を目指す、それを維持する、と言うのは不可能だ。

やろうとすればどこかで無理が生まれる。

そして「0点」、無になる。

だが「80点」で妥協し、常に「少し」変化する事を目指す。

伝統の中で優先順位を決めて残す必要性が低いものを消して時代や環境の変化に合わせて無理のない範囲で変えていく。

最終的には無駄が削がれて当初の「100点」のうち、残るのは「60点」まで減るだろう。残りの「40点」は時代の変遷だ。

半分ほどしか残らない。だがそれでも「残る」。


かといって最初から「どうせ60点しか残らないなら」といきなり40点を削ぎ落とす。

そんな事をすれば絶対に何も残らない。

最初から最低限なら何も変化しない。

変化しないなら誰も見向きしない、手入れもしない。

変化するから関心を向けられ、変化してしまうから手入れされる。

時間と手間をかけるから拘りが生まれ、価値が生まれる。

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