鏡に写る姿。まとめ。
「鏡に写る姿」を長く書いてきた。
ホラーゲームに至ってはトレンドが過ぎ去った上に配信元から新作がでる始末。
時間が流れるのが早い早い。
結局のところ、どれ程アニメやゲームのキャラについてアレコレ考えても最終的にはフィクション。
そこには存在しない。
どこまでいっても自分がエッセイでネタにする時に思うのは存在する人間。
ドラゴンボールのチチ、火垂るの墓のおばさん、ホラーゲームの母親。
それらについてのコメント。
「正論だから」
「大人になって気持ちが分かるから」
「子供は我儘だから」
そうやって何を正当化するのか。
「大人が子供を支配する」「子供は大人の奴隷」。
「子供は口答えせず、大人の言うことだけをすれば良い」
自分ならそうした思いを隠すため、正当化するために「正論」だの「大人の気持ち」だのを使ってコメントする。
結局、「自分」の事しか考えていない。
それは自分もコメント欄にコメントしたものも変わらない。
だから「鏡」だ。
「正論パンチ」で黙らせる。
ここ数年で大分浸透したワードのような気がする。
「正論」は必要だ。
その一方で「感情論」と言うものがネガティブな、蔑ろな物になってきている気がする。
気がするが実際はどうか。
「炎上」なんてものが頻繁に発生する。
「正論パンチ」なんてものが流行って暫く経つが正論で感情論を説き伏せてきた社会なら炎上なんてそうそうしないはず。
だが現実として炎上は発生している。
正論は社会が個人に求めるもの。
ドラゴンボールでチチか孫悟飯に、火垂るの墓の墓で西宮のおばさんが清太に、ホラーゲームで母親が娘に求めたもの。
正しい筈なのに、正しい事をしてきた筈なのに、社会は戦後のまま。
何故なら「正論」を
「感情論」を蔑ろにしてきたから。
ドラマやアニメなどでたまに男女の対立、あるいは対比として「女は感情で、男は理屈で考える」なんて話がある。
それで良い、それが正しい。
何故なら「男女」でそれぞれ役割があるから、「性役割」が前提の元にした社会が日本の社会だったから。
だが戦争で男の数が一時的に消えて相対的に日本で女が増えた。
だから「一時的」に女が男の役割、「理屈」で考える事を肩代わりして戦後を引っ張ってきた。
その「一時的」が80年、変わらずに続いていること。
「一時的」のために女に都合の良い社会方針に転換しなければならなかった。
そうしなければ徴兵された男の穴埋めは不可能だったし、何よりそれを止める男がいなかったから。
「今」を生き残るには必要な「一時しのぎ」の「男の役割の兼任」ではあった。
しかしそのおかげで女は「男の役割」をこなす事によって得られる「旨味」を知った。
人間、老若男女問わず、一度手にした権力や生活水準を下げるのは難しい。
「男女平等」のもとに男のように「理屈」を女としての「感情」に化粧をして口にする。
おかげで男としての旨味も得た、その上で女としての旨味も手放さない。
結局のところ「正論」も突き詰めれば「感情論」だ。
人一人の感情がスタートで発生した行為なら「感情論」。
だが社会の多くが共感する感情ならそれはもう「正論」だ。
地方の「文化」、会社などの集団の「理念」、人の「夢」。
全て何かきっかけがある。
そのきっかけの「受け身」から転じた最短最速に行為に到達する論が「感情論」。
感情のない正論はない。
と言うより感情がなければ論ずる必要がない。
人間が生きる為に食べる、寝る、交わる。
それらに「より効率的に行うため」「より楽しむため」の理屈はあってもそうした動物的な基本的な行為にわざわざ理屈を持ち出す必要がない。
食べなきゃ死ぬし、寝なくても倒れる、交わらなければ血は潰える。
感情があるからこそ、それを納得させるために正論がいる。
感情を強く束ねるために正論がいる。
感情論、感情が起点となる論。
そして子供が唯一持つ、もっとも基本的な「論」だ。
その感情論を司るのが女であり、母親。
感情論を身に備えているから子供に寄り添える。
正論など、社会に暮らす「大人」なら言うだけなら誰でも言える。
それを噛み砕いて子供に説くのが「親」の務め。
子供の「感情論」に母親が寄り添い、社会の「正論」を父親が示す。
父親は社会の、母親は子供の側から妥協点、着地点を見つけて教育する。
話は戻るがようは「感情論」を否定して「正論パンチ」が正しいと考えてる奴もそこにあるのは「感情論」を否定したいと言う「感情論」からもっともらしい正論を持ってきているだけだ。
そのお互いの感情をぶつけ合う事は時に必要な事かもしれない。
だが、ドラゴンボールの孫悟飯、火垂るの墓の清太、ホラーゲームのvtuberの娘、相手は「子供」。
ホラーゲームの娘は年齢こそ成人しているが「親」の立場から見ている以上、それは変わらない。
感情論同士で片方は「正論」と言う化粧をして、片方は「すっぴん」。
見栄えがする感情は勿論「大人」の「正論」。
この「鏡に写る姿」を長々と書いてきたが結論はシンプル。
大人になって母親のキャラ達の言葉が分かる、子供は幼稚とコメントに書いていた者達に思った事。
「子供相手にムキになるとか情けないと思わないのか」
子供の我儘を受け止めず、正論で抑え込む。
それは説教ではなく、大人側の我儘。
そしてもう一つ。
母親が接する子供の年齢、そして親子の周りの人間関係、環境、全て異なる。
にも関わらず、全て一律で「正論」を盾にしていた事。
勿論、コメント全て同一人物と言うわけではなく、それぞれ別々の人間だとは理解している。
理解してはいるがあまりにも「感情」が、「人の心」が蔑ろにされている。
芸術などの表現が「感動」させるのはそこに「感情」があり、それを「動かす」からだ。
表現者には自分の感情を伝えるために「正論」にして表現する必要がある。
一方でそれを受け取る側にはその正論から表現者の「感情論」を読み解く必要がある。
表現者がいくら感情論を正論に置き換えても、受け手に「読み解くつもり」が無ければそこに感動はない。
感動が無ければ価値もなく、価値観は完成しない。
金に限らず、何かの財産はつまり「過去」の象徴。
見た目でも能力でも全て持ち物は「過去」のもの。
よって身につけた価値観とは「過去」のもの。
その価値観で正論から感情論を読み解く。
「周囲の人間」「環境」「正論をぶつける相手」が異なるにも関わらず「正論だから」という理由だけで肯定すると言うのはつまり「自分の過去の正当化」。
「自分は間違っていない」「自分は失敗していない」「自分は正しいことをしてきた」。
目を閉じ、耳を塞ぎながらそう訴えているようにしか自分には思えない。
そして子供はそんな大人を信じたいと思うのだろうか。、安心感を得られるのか。
長々と語ったが結局、「普通」とか「正論」に守られてるのが望ましいのよ、俺は。
正論に゙そって行動できるだけの「普通」の能力と、正論を「普通」に信じられる正論へ信頼感が。
能力がないから慎重になり、裏切られて来たから疑う。
慎重になって疑い続ければ疲れて雑になって失敗を重ねて悪循環。
だから全部投げ出したくなる。




